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哲学いろいろ

文体――第三十九章 中間のまとめ

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-02-19 - caguirofie050219よりのつづきです。)

第三十九章 中間のまとめ

《光は東方より》と言われ その内容の議論を別として 《理念は西方より》来たのだと考えられる。
アジアないし他のヨーロッパ以外の地域が 文化や文明つまり生活全般の内容で劣っていたと言おうとするのではなく またその生活全般の内容として そこでは 理念をとうぜん潜在的にとしても持っていたが この理念を明示的に主張しはじめたのは・つまりいわゆる経験科学の議論を始めたのは ヨーロッパ人である。男女平等の理念も おおむね そうであったのだと思われる。そして 人麻呂が実質的に同じ内容を文体において(つまり生活の中で)展開しなかったためしはないと言えるし この理念の先駆者ではあるヨーロッパ社会ですでに全く男女不平等がなくなっているとも言えないといったことが 同時に 経験的な現実状況である。
日・米・欧 あるいはアジアの中での各民族社会の関係 またもちろん今度は経済体制としての東と西 そして中東とかアフリカまた中南米と単純にられつして 要するにこの地球における世界の 現代では国家的な社会の諸関係 これは 経済基礎の関係が より緊密になってきて そこに摩擦が起きているとすれば それが 文化摩擦だと言われるようになってきている。
経験領域をたずさえて先行する基本主観に立って おおきな自然の中で 自己たる自然本性・自然環境および社会環境を まず精神の政治学としてたがやすのは 文化である。これはおよそ――また確かに過程的であるが―― 普遍的なものであるだろう。つまり 文化一般は 客観的ないし客体的にみれば おおむね同一であり互いに共通のものであるだろう。すでに耕された前まえからの文化成果の用い方 それとしての人間の社会的な関係のあり方 これには 各地域的な民族社会で ちがいがあるわけである。逆に言いかえると 文化結果たるその内容を用いていく時の社会的な行為関係が 文明なのであるから この文明の中味を客観的にとらえるぶんには 同じくまた 各地域の交流がすすめばすすむほど―― 一般に より合理的なものを求めるのが つねであるから―― 互いに基本的に同一で共通のものが そこに普及しているであろう。いわゆる歴史伝統的な 各地域の社会関係の色合い これは 文化成果を享受していくときの文明の 地域的な特色であり 顔がちがったり言葉がちがったりするかたちでは さまざまである。
世界が 経済基礎の側面で みっせつにつながり 一つのものとなってきたとするなら まず第一に そのときその過程で じつは 知解基礎と深くかかわる意志中軸の側面も 同時一体であったと言わなければならない。というのは 内的な 基礎と中軸との領域(精神の政治学ないし経験科学)における〔内的な意味での〕文化行為は とうぜん 経済基礎の側面にはたらいたのであって 世界の 経済的な密接化は 文化行為の普遍性を言うことと さして変わらない。このとき 第二に 文化行為の普及・経済的な交流によって 生活の中味も だから文明として 共通のものとなっていく と同時に 普及の仕方・交流の仕方としての文明は 各地域で 種的に ことなっている。《文化摩擦・経済摩擦》とは この種的な文明様式の相違のあいだでの交通過程の一つの出来事である。そして 同時に 基礎に対して 意志の中軸(ことに民主主義)の側面も 自覚され これらの自覚のもとに 生活全体に それぞれの地域で 対処していくといった段階が やってきたわけである。
理念として言えば 民主主義 その中でも 男女の平等 これらが 各地域社会の 種的な文明のあいだに 人間にとっては意志の中軸の共通性の自覚のもとに 普遍的な主題となり問題解決への糸口となるであろうと考えられる。この前提で 議論してきた。
この主題における具体的な問題点は 議論のやり方として 《理念はなにゆえ理念であるか・なぜ男女は平等であるか》であった。
しかも まだ これに 経験科学による論証のかたちでは 答えていない。
主題へのこの接近の仕方が 経験的にも有効であるとするなら さらに つづけて論じるべきであろう。
神とか契約(つまり要するに 基本主観における なぞを持った《勝利》の有効または約束)とか審判(《勝利》という無力の有効にかかわっての)とかつまりキリスト・イエスを ことばに用いて文体を展開するやり方 そういった一つの 旧いといえば古い 表現形式を 見てきたし あるいは その前には 《なぞの自然の主体》といったふうに《なぞ》の語を用いての一つの表現形式にもとづいても 議論してきた。これらの限りでは《理念がなにゆえ理念か》の問いに それなりに答えることができたかもしれない。しかも これらでは 旧いとも考えられる。
理念が 天使であるかまたは 天使の領域に触れられてそれをめぐるところの わたしたちの基本主観の具体内容であるか するならば 天使はまだ《なぞの自然の主体》そのものではないのだから(天使にわたしたちが仕えるものではないのだから) 《なぞ》とかいった表現を用いずに 経験科学の論理で もっかの問題に対処する行き方が 要請されている。この行き方について 批判というかたちの議論は 第一章から続いて若い章でおこなったと考える。
そしてこれには むしろ 行き方じたいの点から見れば 従来の経験科学のそれ すなわち 現代では個別分野ごとに細小化されていたとしても こつこつと地道に 概念を整理していくやり方のほうが――もし 具体的な成果を 必ずしも互いに競うものではないとしたのなら―― のぞましいし ただしいであろう。逆に 細分化した個別研究での概念整理では 概念整理・客観認識じたいが手段であり一つの目的たる生活そのものではないのだから 過程的なものとしても 行き詰っている(――つまり 個別分野で概念整理するにあたっての やはりその研究者の 意志の中軸のあり方が 問われ出した)とするなら 世界の全体を すでに明らかにされた諸理念 これらの体系的な――またはむしろ 非体系的であっても 一個のわたしたる基本主観への統合的な――知解および知解の共有といったかたちでの行き方も すでに実例として 提出されるようになっている。一般に 理念体系――理念はむしろ非体系的であるから 理念世界の像――をえがき提出するという行き方である。
もう一度 整理しなおすと 従来の経験科学の行き方で それが細分化した分野をあつかったものであれ じみちに概念整理していくならば またそれらを統合していくならば 理念がなにゆえに理念かを明らかにしていけるというのが 一つの考え方。理念がなにゆえ理念かを明らかにできたならば 法権力の有力のもとにこれら理念をかかげ 共同自治の社会において その実現をはかっていくという現代の国家形態ないし法治社会の出発点が明らかになり これは とりもなおさず 経済基礎に対する意志の中軸を その出発点として 明確に自覚できることになり その結果 実質的に理念内容の実現をはかることができる――国家という前提枠をのりこえ さらに自由に そうすることができる――と考えられるから。つまり わたしたち一人ひとりの基本主観の 経験現実的な歴史的な 文体過程また生活のことにほかならない。経験科学が そこで よりいっそう 生きる。
わたしたちの行き方は なお消極的に言って これら二つの考え方に対して まず 経験科学の個別研究を活用するのだということが ひとつ。第二には 個別研究の理論とそして法権力のもとでの総括的な政策の実践 これらを はじめにおいて 統合しようとするものではない。理論(ないし理念)と実践とが はじめに 統合されているのは 基本主観においてであった。そこでは 経済(知解)の基礎と 意志の中軸とが 同時一体だということを言って その統合のあり方は 無力の有効なのだと言った。国政に対して 自己の政府を立てる あるいは 立てるとして すすむ。
第三に 理念は 天使をめぐってのものであるが 基本主観の具体内容(また ことばとして 代理)だと見た。だから 理念体系はそれをほとんど完全なものとして(つまり 現実世界の明確な把握である理論ないし像として)提示したとしても おそらく 基本主観がそのような内容をもったものとして存在するということをのみ 明らかにするだけである。しかも 基本主観(わたし)は この完璧な或る理念体系の知解行為像をもってしても 代替されえない。代替されえないどころか もともと 理念文字ではない。いや 理念文字の体系として 知解内容そのものが《自己》ではなく その体系像をとおして 見るのだという言い分が出たとしても その《とおして見る》ものは 《自己》のことにほかならない。または――というか 本来―― 《真理》であって これは理念〔体系〕とイコールではない。さらに言いかえると 男女平等は じっさい 真理である。真理において この理念である。そして わたしたちは 真理そのものではないし わたしたちイコール男女平等 この理念イコールわたしだというような表現は しないし そういう見方をとらない。つまり わたしたちの行き方は きわめて消極的にまず原則として 基本主観たる自己が すでに初めに先行している(自己が自己に到来している・そこから始める)といったふうに表現してすすむ。
第四に それゆえ 或る理念世界像が明らかにされたとき初めて 理念がなにゆえ理念かも確立されるとみるのではなく 自己到来するがゆえに――そして個々の理念は すでに一般に 明確にされている段階にあって―― いまの主題を追究する。なにゆえ理念かの主題を追求するのは すでに 自己到来しているか・または自己到来すべき基本主観としてであって わざわざそれでも追究するのは 経験行為としての文化の問題である。また あたらしい舞台環境に対処するためである。
第五に そのように 精神の政治学は 現実経験的にも その政治学が 過程されるのをねがっていても よいからである。理念体系知は よく言えば この政治学過程の 基礎手段なのかも知れない。ただし わるく言えば それでは 依然として 知解基礎と意志中軸とが またまた新しいかたちで 分離する。よく言ったこととわるく言ったこととは 内容が同じであるなら よいほうの内容が勝って それは わたしたちの精神の政治学過程とも 同じものでありうる。わるく言ったほうの内容が先行(優先)すること これをやめよう いや すでに基本主観ではやめているというのが いまの議論である。知解基礎と意志中軸との分離 あるいはこの分離はおかしいということを 理念像として描き出すところの 経済基礎と民主主義中軸との分離(なぜなら この理念像をもって初めて 民主主義的な人間であると言うことによって 経済活動は そのような媒介をとおってこそ 民主主義的におこなえると言ったことになる) これらは 職業〔としての何々〕の専門分化によって 生じている〔だけの〕ものかもしれない。だが このように理念像を描くまでの一つの文体が発生してきているのなら この現代では 職業(つまり 経済基礎)にもとづく知解基礎と意志中軸との分離は すでに こだわる必要がなく そこから自由に文体を展開していけるようになっている。これを ささやかにも ことばの表現として 日常生活の文体として おこなっていこうという考え方である。
だから第六に この考え方は すでに 実践されている。実践されているはずである。のに またまた それの基礎知解を――おこなってもよいが―― 実践に代えるものとして 提示することはない。実践の準備段階といったことは じつは 実際にはないのである。補助手段(つまり経験科学)に固有の行き方とか そこにおける中間報告といった意味での準備段階は あるかもしれないが もしそれが 実践であるとしたなら そのまま全体の行為として 実践であり その準備行為ではない。この意味では 逆に 補助手段としての経験科学(自然科学をふくむ)は むしろ その個別研究を推進していったほうが 全体の結果として よりよく活かされるとも考えられる。つまり すでに実践している。意志中軸をじゅうぶんに自由に はたらかせて 実践しているはずである。かんたんに言えば 精神の政治学は 滞留することはあっても 待ったなしであり そのまま生活であり実践であり 文体を展開するということ自体 これにも 派閥はないのだと思われる。意志の中軸そのもの 少し具体的に民主主義 これには 派閥はなく 知解行為に 見解の相違・対立が生じる。とうぜん こうなのであり だとしたら 人びとは例外なく つねに実践しており これは 民主主義の実践である。これまでも そうしてきたが これからは 自覚して そうする。はずである。なにゆえに理念かは 消極的に ここにあると思われる。
第七に もちろん 意志の中軸は――つまり経済基礎よりも とりわけ 意志の中軸は―― いわゆる個性的であり 各自の自由意志にもとづくものなのであるから さまざまな形式をもち 文化摩擦(普遍的な同じ文化成果を普及していくところの文明形式の対立)をうみ 派閥も見られるかもしれない。この派閥・摩擦は しかしながら 普遍的なものに属するものではないであろう。先行するものではないであろう。後行するものゆえに 取り組むテーマ・問題としては 先頭にかかげられるものであろう。文化の内容つまりまた理念は 個々のものとしても すでに明確で普遍的である。なにゆえ普遍的なのかを まだ論証していないから それは 法にかかげられるほど すでに通念であるという意味で。その意味で 経験的な通念じょう 文化じたいの摩擦とか派閥とかでは じっさい なくなっている。だとすれば このことを言い自覚すべきではあっても 理念体系知をえがいて 間接的に 同じ趣旨のことを言おうとするのは 明らかに 迂回する準備作業である。この準備作業は だから 通念の上で 踊っている。
文化の内容つまり理念を さらに全体として普遍的であると証言していくことは 文化ないし理念の主体たるわたしが この証言によって初めてわたしであると言ったことになる。この準備作業は迂回する準備段階ではなくして わたしの自己到来という実践への 準備を迂回させるものである。迂回を迂回させて 自己到来にいたるものであるとするなら それは この準備段階じたいを忘れることによってである。少なくとも これは いまは準備・助走だと明示してすすむことによってだと思われる。
第八に こういった第七点までの消極的な議論において ここに立って 積極的に 理念 なのだと思われる。だから そこでは 理念を用いようが用いまいが 文体展開は自由で 派閥はありえていない。どの理念を用いるか あるいは 結果的にどの理念を その文体主張が 内容としたかは その文体の基本主観に 派閥をつくりえない。過程的であるから 文明形式(また広く様式)の対立・摩擦があるのみであり そのことは はじめから わかっている。文明形式の対立ゆえに 文化の普遍的な理念体系を描き出すのは 有益なように見えるが むしろ 意志の中軸に挫折したか それを知解基礎から分離したかの結果である。前者のほうは これも 無力の有効として はじめから わかっている。挫折しえないのなら 理念体系をわざわざ描くことも あまり ないだろうし 挫折しえたのなら 文明形式の対立・矛盾ゆえに それをえがくという順序も ありえない。だから やはりその場合は 挫折しえないという鬼となって しかもこのことを じっさいには挫折しえた意志の中軸から 知解基礎を分離させて その領域で しつように 主張している文体となる。
第九に もしそれでも 経験領域で 文体形式に派閥が――特に 文明としての・および経済体制としての 東西関係のが――あるとするなら あるのだから 法権力のもとにおける理念実現への有力過程が そのような派閥として――つまり広く国家関係として――必要だと言うとしたなら わたしたちは なんで理念か と問い返さなければいけない。つまり この問い返しが有効だとするなら 理念 法権力のもとの理念は それとして わたしたち自身に 先行していないことを物語る。
第十に だから 理念 なのであろう。そしてそれ〔ら〕は すでに現実経験的である。なぜこの――そこには 後行して やはり対立・摩擦・党派が 或る意味で つきものである――過程をもって こたえとしないのか。
日米間の経済摩擦も 《慢性的》となったと ある新聞記事は 報道している。理念の獲得をめざして その限りでは たたかわなければならなかった時代 そこでは 観念のデーモンが(すなわち 理念の実現を阻むちからが) 作用していた。新しい舞台環境の時代では この観念デーモンが 慢性化した。ただ 従来の慣性のちからで 動くのみとなった。人工衛星のように 落ちていくのであるが 落ち着くところがなく 慣性のうちに(人間の心理として 条件反射のように)はたらくというように。しかも――これによって 経済基礎だけではなく 意志中軸が 文化・文明つまり文体・生活において 同時一体であり 同時一体であることが 法のもとにおいてであっても 有効となった そのとき―- 意志中軸の文明形式の摩擦も 経済基礎の摩擦の慢性化とともに 慢性化したのだとも 考えられる。
中軸意志の慢性化は 準備段階にとどまる(つまり ありもしないかたちの実践をおこなう)猶予された文明 いわゆるモラトリアム人間のことだと考えられるが ここで 落ち着こうとして 着陸しようとして 逆噴射する・つまり 準備段階という浮遊状態に戻っていたいという現象も 見られた。のだが これは 消極的に見て 基本主観の普遍的な文化の 勝利ではないのか。そして 対立がつきものであるなら 積極的にも 勝利 つまり 文体の自由な展開の時代に入ったことではないのか。
このゆえに 理念 であるのではないか。
理念――たとえば自由貿易――をかかげて 後行する経験領域で――だから 国際関係において―― 派閥(国家の対立)ができている。それが 経済基礎としてもそして意志中軸(民主主義)としても 慢性的になった。そこで 理念。つまり これまですでに明らかとなっている理念が なにゆえにか ではないだろうか。その問いでは 派閥はない。先行していない。ゆえに これを 代理として明確に示すものは 理念である。つまり 後行する領域では 国家的な対立関係を それとして 見ている。すなわち 派閥がある。文体の自由な展開は この派閥に自由に普遍的に対処していく。そうしようとしてきた。これは そのことをとりわけ言うのは 意志の中軸 民主主義である。
自己の政府が 樹立された。すでに 樹立された。それゆえ 経験的に理念として言わば民主主義。
最後の第十一に このように 自己の政府が 樹立されている場合にも その精神の政治学たる文体の自由な展開は 過程的・対立関係的なのであるから なのであるのに たとえば東西関係が 対立を解かれるとわたしたちの生活は過程的でなくなり存続しなくなるとか 過程的ゆえにおよそ何らかの対立があってもらわなければ困るとか言って さらにたとえば 核戦争の危険が解除された状況など まったく考えられないとか 想像するに耐えられないとか言って 対立や派閥が慢性的となることさえ 現代人は おそれているのではないか。さらには 自分の基本主観のうちに 自己の政府が樹立されることをこそ おそれているのではないだろうか。わたしは 精神の政治学などしたくない あるいは派閥に支配された奴隷の自由こそ わたしたちの自由だと 念願しかつ念観しているかのように。 
(つづく→2005-02-21 - caguirofie050221)