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哲学いろいろ

文体――第三十二章 旧約聖書

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-02-11 - caguirofie050211よりのつづきです。)

第三十二章 旧約聖書

密林を切り拓く切り口として インタスサノヲイズム・民主主義だと思われた。もし理念が――民主主義は 或る理念だから――観念にもなりうるとすれば この観念としても 言っている・言ったことになるとも思われる。この観念が有力になれば あるいはそのことで 一つの新たな転轍機が 誕生したとさえ見られるのかもしれない。
けれども まずこのような転轍手は それによって人間が変わったように見えるとしても そうではなく 人間は まだ変わっていないのだと考える。それは 理念の通念化であり それとしての普遍的な有力化であろうと思われ 天使の理念体系に対比すれば けっきょく 地上の理念体系の或る鏡の国に入ることだと考えられる。ところが 転轍手というのは これが結局 しばしば 天使の理念体系を説くことから始めるものではないだろうか。かつては おおまかに言って 理念の実現をめざす段階での 上のような理念主義の転轍手が 作用したというなら そうであった。現代では いちおうその実現を見ている段階である。意志の中軸――その時論として 民主主義の理念――は このような観念の転轍手を 価値判断・主観判断するちからである。言いかえると 観念の転轍手は エートスと言っても じっさいには 知解という基礎・基礎としての経済行為べったりの中軸意志だと 極論することができる。観念の精神主義は 肉的である。
天使の理念体系は これを自己の能力として欲し その中の個々の理念――じつは 観念の有力――を相手に念観させ唱和させ おとぎの国の鏡の世界に入ることになるのであって これに比べて もし 地上の理念体系というものが ただいわゆる倫理・道徳(また慣習)だとしたら そのぶんでは こちらのほうは まだましだということもできる。ふたつを切り離して見ると そう言えるかもしれない。
地上の理念体系というのは いわば通念の弊害とか観念のデーモン(たとえば 勤勉という通念に対して ガリ勉という鬼)とかに対する 批判的な一つの合唱であって 天使の理念体系主義は 通念を超えて天使の美を見させようとして けっきょくは 現在ある通念を擁護する読経の世界なのだと 考えることもできる。ただ どういうわけか かつてのように理念の実現をめざしていた段階では 天使の理念体系を推進力として これを普及するところに 人間の生活のさまざまな局面が 物質的に技術的に 大いに変革され 軌道を新しく敷いたと見られる。だから おとぎの国の中で 一大発展があり 少なくとも普及の結果としての文明が ひろがり これは 密林を切り拓いたと見えている。そうして 新しい段階・新しい舞台では たとえば《神は死んだ》というのは もはやこの《天使理念という推進力(そういう意味でのエートス)が死んだ》ということを物語ると解釈すると わかりやすいのではないか。そこでは もちろん 経験科学の理論も 研究され 発達したのであって 生活全般にとっては補助手段としてではあるが これらにおいて わたしたちの言う文化が発展したのであるとも 考える。おおむねプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神が ともかく文明情況として 普及した今の段階では 経験科学は 特別の変身をしないで 補助手段として固有の役割りを果たしていくことを継ぐと考えた。そこで 一つの傾向として 理念体系が 新たなかたちでふたたび もちあがってくるのではないかとも 考えた。もしポスト・モダンなニュー・アカデミズムなどというのであれば。――きわめて なまぐさい議論におちいる嫌いはあるのだが。
わたしが 民主主義! と言うと それは 地上の理念の国のための――だから 観念的な――合唱になるじゃないか・合唱にしかならないのじゃないかという起こりうる一批判に対して 自己弁護するのだが それならば この《民主主義》を ここでは 一つの通念として この通念を利用して進もうと言っているのだと 受け取ってもらうように 一歩さがらなければならない。こうなると なにゆえに理念かを論証するということは 経験科学の理論的なそれではなく 経験過程の実験による過程的な論証でしかないかも知れない。そして 実験というのは 賭けのことであるかも知れないし(わたしたちは 賭けを排除していなかったが) あるいは そういったことが 精神の政治学による生活の実践(理論をふくめた実践)全般だということになるかも知れない。これは あの人麻呂の行き方であって そこで同時に――もはや かれの時代と違って――経験科学による吟味・検討を 過程的におこなっていこうという考え方である。
わたしたちは たしかに或る新しい密林を切り拓こうとして進んでいる。もし 理論にしろ理念にしろ それを第一義として・つまり根拠=目的としてかかげ それによって四角な文化形態とするために密林を切り拓くのではないとするならば こういった足踏みが 実情であるのかも知れない。
だから いまは もし民主主義を言うとすれば それは 通念として利用していくのだ 過程的に実践において 論証していくのだとまで 弁明しなければならないのかも。ただし 実証 とまでは言わない。理念としては 民主主義! と言うことは 何が何でもミンシュシュギという語をとなえることではないのであるから――《理念》というものが そういう性質なのであるから―― やはり あらゆることばの自由な展開を 単純に 言っているのみであり 論証は 自己の政府において おのおの主観〔基本〕的でしかないとさえ 言わなければならない。すなわち 経験科学による論証というのは あらゆる文体の自由な展開が そのものとしてまさに実践されていること ここに 論理的にも あると言わなければならないかも。すなわち 理論は――論理を追うだけではなく 経験現実を全体として客観認識していく理論のほうは―― あとから ついてくるものであるかも。
自由とか平等とかの理念が 明確になり かつ 社会主義のにしろ資本主義のにしろ およそ現代社会では 経済活動という基礎の側面においても これらの理念は それぞれとして 実現されている。このような場で 民主主義と言っても そしてたとえ合唱したとしても 或る天使の国を夢見させるのでもなければ 或る観念のデーモンを放射しているというのでも すでに なくなっているはずである。理念一般の体系の美をえがいて進むというよりは どれか一つの理念を具体的に個々に 言っていく・用いていくほうが 精神の政治学にかなっているという一つの見方。自由ないし平等を 現実経験的に実現させるその過程の 議論のしかたとして 民主主義と言っているのであることは おそらくさいわいに これまでの歴史の経緯によって 制約さえされて 保証されていると思われる。
経済の基礎に対して それと同等にまた同時に 民主主義の中軸! とまずは 提案したい。そしてこれは 基本主観の代理である国政に対して つまり民主政として 言ったというよりも 《自己の政府》の民主制のこと・つまり いつでも常に 自己到来のことを 言ったまでである。そういう文体の進め方になっていると思う。だから 無力であるし 当面 無力でなければ おかしい。基礎の経済側面が じっさいには民主主義の中軸から発して そのようにして有効であるはずなのだが そうではなく どこかで無効が実効性をもち このいわば悪貨のほうが 良貨を駆逐するほど 有力であるという経験現実に対して 元の有効を回復するためには 第一の問題として 今は無力にされている基本主観の有効 すなわち 中軸の民主主義から〔も〕発する《自己の政府》の精神の政治学 これが なお無力だが 無力の中軸として確かに存在するということ これを把握してでなければ なにごとも始められないのではないか と言う。現代では 偶然に・そしてさいわいに 二つの経済体制の社会に この一つの主張は 共通であろうと考えている。このような生臭いところにまで まずは進みうるのではないか。
そうだとしたら それほど歴史の舞台環境は変わったと言えるし しかしながら 舞台の変化で人間が変わったのではなく 新しい舞台に対処する仕方で 人間は変わっていくであろうと考えられた。経験領域での観念のデーモンの有力が この段階で 慣性化した だから経験科学も 経験領域を超えた諸理念を わざわざ目指してのように苦心する必要もなくなった そう言えるほど 理念は明確なものとして 共有されるようになった。だから この新しい段階から踏み出されるべき動きとして 警戒すべきものとしては 諸理念の美しい体系の国へ旅立とうという・じつは新しいかたちの観念デーモンの蠢動が捉えられること これと 他方では 経験科学が 旧い行き方を保つのはむしろ よいとしても 法権力のもとにある社会のすみずみにわたる経験領域にかんして 観念の整理をおこない そのとき すでに慣性化した古い観念のデーモンの修理・改革をめざすような動きとである。これらは 民主主義ではない もしくは すでに有力となっている民主主義なる観念のものである。自由の民主主義とか平等の民主主義とか すでにそれぞれ経験現実となった理念主義を踏襲するかたちである。
新しい舞台に立って 或る理念体系の描出へ動き出すと なぜ民主主義的でないかと言うと それは 一方で 基本主観の中の理念を打ち出すことによって そこに民主主義も含まれているなら この意志の中軸を語っており そしてそれは むしろ理念体系の描出としては全面的に 意志の中軸に発するものであるかのようであり かつ他方で これまでの経済の基礎側面は もとのままである。つまり わたしたちも 基礎側面は もとのままでもあるのだが この基礎と中軸との両側面を 切り離すかどうかで 実質的な民主主義であるかどうかが 決定されるというかっこうである。理念体系の行き方は すでに切り離されているから その切り離したままでよい――基礎は基礎でどんどん なるようになれ 行き着くところまでたどりつけ――といって 再出発しようというものである。
わたしたちは どうでもよい領域として この意味での基礎の側面を捉えている(かつ 重視していた)のであって やけを起こしたわけではない。理念体系を故意に描き出そうという動きは あくまで 自己到来を否定する これを妨害するものであって 精神の政治学を――それと重なっているように見えつつ―― 観念のデーモンの普遍的な浮遊〔たる或る理念体系のイマジネーション〕に取って代えようという運動である。
これは これら自体が あたらしい密林であると考えられた。これらというのは この理念体系への動きのほかに 上に言った経験科学による一つの動きを含めて言う。つまり かつては理念の実現が成った新しい段階で 行き方を変えないのだが それにもかかわらず この新しい舞台そのもののために さらに理論していく したがってすなわち 経験現実となっているところの理念そのもののために こんどは 仕えることになる。なぜなら めざした理念は 目標ではあっても 基本主観の代理であるから 本体が代理に仕えることになる。代理の次元で 四角く緻密な文化理論をきざんでいくようになる。これらが 当面 新しい密林である。経済制度を扱っていないここでは この密林を切り拓く糸口として 理念としては 民主主義だと考えた。これによって かれらも 少なくとも自己到来の糸口をつかむであろうとさえ言って。
なにゆえ民主主義か 男と女はどうして平等か 一般に理念はなにゆえにか これらについて 最後の一般論としては いくらかすでに議論したとは思うが 個別的な理念については 論証をあきらめたいと思う。適任者にまかせたいと思う。言いかえると わたしとしては 次の方法によりたい。その論証を 過程実践的ににおこなっていくような 日常生活での(だから その代理たる国政の次元でも) 文体の自由な展開として。知解基礎と意志中軸との同時一体性からみれば それなりに個別具体的な意思 の論理があるであろうから そういうかたちの論証。そして 客観認識としての理論は あとからついてくるものであって しかも 実践課程とそこにおける論証の歴史 これを 客観理論することはできるが それを超えて・言いかえると なぞを超えて なぜたとえば民主主義かを立証することは むずかしい。もういちど言いかえると 民主主義・男女平等・思想行為の自由などの理念は 基本主観の代理ではあっても 本体ではなく 《わたし》でもないのだから 平等をかかげ差別を批判するときには わたしたちは すでに《わたしがわたししている》人びとに対して 表現しているのだと。理念をすでにわかっている人びとに対してこそ 文体を展開しあっているのだと。
たとえば こうである。はなはだ素朴に 経済活動の基礎側面で あなたはこの基礎知解(たとえば ホモ・エコノミックス)のみではないか もしくは たしかに意志の中軸をもったあなたは 基本主観であり 自然本性であり人間であるとお見受けするが この経済行為〔の仕方〕では その中軸が切り離されているではないか つまり わざわざこのようなことを言わなくとも(言ってもよいが) わたしたちは そういう意味合いで 怒るべきであると。無力の有効を 表現すべきであると。精神の政治学の 無力の であり 自己の政府の 有効を である。
この怒りは 民主主義の理念をあらわさないとは 誰が言うであろうか。という考え方・行き方である。民主主義的であるなら 怒られるべき行為をした相手にとっても 自己到来の糸口でないということが あろうか。この怒りは 容易に赦される。理念体系のおとぎの国のためでもなければ 経験科学のめざすべき星のためでもなければ 要するに 非民主主義的な人間による人間の支配のためでは ないからである。生活のためだからである。わたしが生きているという一内容・一過程でしかない。しかし これは 本気で怒るのである。ほんとうに憤るのである。わかる人はわかる。わからない人はわからない。それでもわかる人なら かれは自分の旧いデーモンで 踊り始めるであろう。
憤っても 無力である。また 無力のゆえに――基本主観は経験領域の法律とて もちろん 侵さないかたちで―― 憤る。けれども いまでは わたしたちがその怒りで言わんとするところは つまり理念は そしてその根本が基本主観の自己到来であることは 相手にも 明確に知られている。たいへん幸いな新しい舞台が できあがったわけである。これで 相手が怒り返すなら かれは 発狂したことになる。さらにわたしたちが弱い立ち場で これによって 追放されたなら 観念のデーモンの 方程式どおりの 踊りはじめととらえて わたしたちのほうも踊りあがってよろこぶべきである。無力の有効の証明でしかない。ここに論証は実現していく。理論は ついてくる。これが 実質的な 民主主義の――はなはだ まだ消極的な側面ながら――関係過程なのである。この勝利も 経験領域そのものの現実としては この経験現実たる鏡の中ではなく 鏡をとおして謎において見なければならないものであろうが。わたしたちは 鏡そのものを見つめてはならないという教訓。
わたしたちは 確信をもって――言いかえると 或る理念をめざさんがために それの鬼となってではなく 無力の有効の基本主観の確信をもって―― この文体展開をすすめるべきである。べきというのは 自由に可能ということ。わたしたちは 無力ゆえに(また 社会的な約束事としての権限をもった場合には それなりに 有力でもあるが) 観念デーモン一般の有力に対して 子どものごとくであってよいが 考え方においては おとなにならなければいけない。それだから 文体を 日常生活において 経験科学的な論証を内容実現させるようにして 展開しなければいけない。また そのために 経験科学者は 学問する。――こう言うことは すでに勝利はあたえられているということだ。そうでなければ しちめんどうなことを おこなわない。
自己の政府のこのような生活過程を代理する国政次元の民主政は 早晩 人間が変わることによって 観念デーモンの捕縛 いや それはすでに慣性化したのだから 理念体系の世界へ飛翔していく新たな観念デーモンの有力 これに対して きよらかな――本質的なまだ無力ながら――自由を享受していくようになるであろう。
未来にかかわって つまりあらかじめ ものごとを 議論するのは わたしたちは好まないし 文体として基本的にすべき(可能)ではないし 弱い。あらゆることばを解放しよという一つの線にそって 言っている。経験科学による論証のための――わたし自身が 今の時点で あきらめたことは そうは言っても 期待していないのではないから―― 基盤づくりである。はなはだ弱い基盤は むしろその存在が かえってわたしたちの存在のたしかに自乗過程の一環でありうると見る限りで。自己弁護をここでも繰り返すなら 上のように《こうこうであるだろう/これこれになるであろう》というのは 実際のところ 現在の基本主観過程である。これは 文体として基本的にすべきでない事柄には属さないと思う。現在 鏡をとおして見ることと 未来を展望することとは 別だと思われる。あやうい議論だが これが 弱いけれども 基盤(生活の・だから 知解基礎と意志中軸との)をかたちづくる文体の一環である。
無力なだけではなく 弱い基盤の議論は こう言う。

ところでマラキエル(旧約聖書で)は モーセの律法(《理念》である)を思い起こすよう警告したあとで 

  • 〔彼は 彼ら(人びと)がこの律法を霊的に受け取るべきであるのに(――《理念》は 《自然本性の基本主観の内容概念》であると受け取るべきであるのに――)長い間 そうしないであろうと予見したので(――《理念》主義に走るであろうと・また その以前には 理念じたいの明確さを獲得しなければならなかったが そのあとには 理念主義に走るであろうと 予見したので――)〕

ただちにこう付け加える。

見よ わたしは王の大いなる輝く日が来る前に テシベ人エリヤをあなたがたに遣わす。彼は父の心を子へ また 人びとの心をその隣人へ向けるが それはおそらくわたしが来るとき 地を完全に撃つことのないためである。(マラキ書4:5−6小型聖書 - 新共同訳 )

・・・それゆえ エリヤが来るときには ユダヤ人たちがいま肉的に理解している律法を 霊的に説明して 《父の心を子へ向ける》・・・。

  • 経験領域のことばとして理解している理念すなわち 理念主義を なぞを持った自然本性の基本主観 その精神の政治学として 説明する。

その意味するところは 子どもたち すなわちユダヤ人たちも父親たち すなわち預言者たち――モーセ自身もそのうちの一人であった――が律法を理解したのと同じように 理解するであろうということである。

  • 法権力の有力のもとに共同自治する経験的な理念主義が その理念は理念だと理解される。理念体系論は この霊的な・精神の政治学の 理解の上に じつは 立っている。もしくは それに触れている。

・・・《それはおそらくわたしが来て 地を完全に撃つことのないためである》。実際 地上の事柄を味わう者たちは 今までの肉的なユダヤ人のごとく 地なのである。こうした悪徳から神に対するあの不幸が生じてくる。《悪人たちは神に気に入るから》(マラキ書2:17)。あるいは 《神に仕える者は愚かである》(マラキ書3:14)。
アウグスティヌス神の国〈5〉 (岩波文庫) 20:29)

要するに エリヤが来るとき《父の心を子へ また人びとの心をその隣人へ向ける》というのは 理念が明確に知られ共有されるようになったいまわたしたちの言う新しい舞台のことなのだと考える。エリヤは すでに来ていたわけである。いまは 精神の政治学の無力の そしてさらに弱い基盤として そのあたりの文体を見てみようとしている。カントを引くと 観念論だと言われるし だからむしろ一面では それが有力だと見られかねないから アウグスティヌスを引き合いに出させてもらった。預言しようとか せよとか 言った覚えはない。あらゆることばの自由な解放に含まれるとしても。 
(つづく→2005-02-14 - caguirofie050214)