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哲学いろいろ

文体――第三十四章 《未婚の母》は無効である。

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-02-14 - caguirofie050214よりのつづきです。)

第三十四章 《未婚の母》は無効である。

たとえば《男と女はどうして平等か》 これを 弱い基盤づくりとして その限りで 考えてきた。早くいえば 性の存在しない先行する基本主観の 精神の自治過程 これゆえであり ここにおいてである。自己到来したとき 互いに平等だと理解しなければ 人は 死んでいる。それは 人類を 男類と女類とのべつべつの生物種に区分してとらえることである。ということは 弱い基盤とことわったとおり まだ 自同律(アイデンティティ)の中味を言ったにすぎない。
ただし 天使の歌によって理念体系の世界の美を見ることによってではないと 間接的に 議論してきた。しかも 天使の存在を欲することをもおこなう精神の政治学過程。天使の能力を欲するのではなく それゆえに――能力をみずからに欲したなら その時点で 主観基本の自己到来はストップする だから ストップさせえず 天使の存在を望み欲して 過程を見守る それゆえに―― 男と女とは 平等である。しかも 経験領域で 性は そのある種の差別は 実在する。
自分の人間のちからで 平等を 最終的には 実現させるのではないと考えられる。他力本願のところはあると考えられる。基本主観のみとして 生きるのではないからである。まったき平等であるというときにも――すなわち《勝利ということ》において そうなったというときにも―― わたしたちは 基本主観のみとなるのではない。肉(経験領域)が霊(精神・基本主観)になるという仕方で 男女平等なのではない。わたしは言うが そうではない。ファウストが 《瞬間に向かって とどまれ おまえは実に美しい》と最後のことばを言ったあと 男ファウストは そして女マルガレーテは それぞれ男であり女である。
理念は それにわたしたちが仕えているのでもなければ 《理念がわたしだ / わたしは理念だ》と言うかたちで わたしたちなのではない。わたしたちは 自分たちが《男女両性の平等 / 人間の平等(ましてや 法の下の平等)》という理念そのものに いづれ なるというのでは まったくない。その理念のために これをめざすのでもない。法の上の(法を超えて・法に先行して)平等という理念に わたしたちが なるのではない。人間が変わるというときにも。変わる人間の基本主観の内容が 理念である。
わたしたちは 足を踏まれたら 痛い! と言う。痛みの感覚は 経験領域で起こっている。基本主観は これを捉えて ことばに出す。そこには 当然 むやみに人の足を踏んではならないという一理念(存在の自由を侵してはならないという《自由》の理念)が 過程的にも 内容されている。また この理念が 相手につたわるよう 言わば天使の存在を欲している。表現の問題で争わないとすれば 守り神でもある。天使の能力を欲するのではないのである。
わたしたちは 浅田氏が《性の神ヘルメス。ヘルメスは ファルスである。ただし そのファルスはうんぬん》(《リトゥルネッロ》)と述べていくのを聞くと 顔を赤らめる。そういったたぐいの反応を起こす。これは つまり感覚をとおして経験領域で起きているのである。この場合 だからと言ってただちに抗議するというほどのことでもないが この経験領域の感覚的な反応は じつは とうぜん基本主観をとおして 《わたし》がおこなっているとまず考えられる。この場合 ことばのあやであって修辞的な問題にすぎないが そのことばなりに 《守り神》とか《天使》といった概念の一つの定義に対して 潜在的に自覚している理念じょうのわたしたちの持つ定義を想起し これに異なるものを見出したならば 反応しているのであろう。この過程において・その内容として 理念の実現を見ている・見ようとしている と考えることもできるのではないだろうか。このとき――まだ いい例示ではなかったが―― わたしたちは 自らに天使の能力を欲しているのではなく 自らを超えての天使の存在を欲しているのである。
わたしたちは こういうようにして 自由であり平等であり とりわけ 民主主義であろうとして 生きている。
今朝の新聞に次のような記事がある。

《未婚の母の子供を児童扶養手当の支給からはずすのは どうして。共働きの夫婦の子供の医療保険では なぜ夫が扶養者でなければならないの》と社会党の金子みつ氏が二十六日の衆院予算委員会で厚生行政のあり方にかみつき 増岡厚相は 《ご指摘 ごもっとも》と改善を約束 一本取られた形となった。
朝日新聞 1985年2月27日)

二つの問題のやさしいほう・つまり後者の

共働きの夫婦の子供については 厚生省は原則として《夫の医療保険の被扶養者》とするよう四十三年に通達を出し 指導してきた。金子氏は《どっちが扶養者になろうと 夫婦の間で決めればいいこと。なぜ国が決めるの》と 国による女性差別を指摘。この問題でも厚相は あっさりかぶとをぬいだ。
(同上)

ということで 話は尽きるであろう。《自己の政府》の民主制の代理たる国政は 代理たる民主政でしかないと 了解されたわけである。
前者の問題は つたえられる限りでは 議論にまだ《自己の政府》の民主制のことが 抜け落ちているように思われた。

離婚や夫の蒸発で母子世帯となった家庭を支える児童扶養手当は 受給者が急増したため 厚生省は 未婚の母を支給対象から外す法改正案を前国会に提出し継続審議になっている。厚生省当局はこの日 《夫と離別し収入が途絶えた家庭を救済する制度にしたので未婚の母は対象外》と説明したが 金子氏は 《母子家庭の苦しい生活は 離婚だろうが 未婚出産だろうが同じ》と譲らず 厚相も法案修正を事実上認める答弁となった。
朝日新聞 1985・2・27)

わたしの しつこく 問題とするところは 一つに 《未婚出産の母子家庭の苦しい生活》とは 別である。だから二つに たとえその苦しいゆえにかどうかを問わずとも 児童扶養手当を 国政の上で(現在は一般に 国政が主導するから) 支給するかしないかは どうでもよい経験領域に属する。したがって これとも 別である。問題は 《未婚出産》が はたしてその当事者すなわち事実上の父と母とにとって おのおの《自己の政府》の民主制を 過程的な内容としているかどうかにかかっている。
結婚と言わずとも――結婚と言わずとも―― ただし次の理由でやはり結婚という 民主制的および社会一般の民主政的な 特定の生活共同の形態におちつくのだとは思われるが 自分たちの子どもを ふたりで養育しないような愛が はたして 自己の政府の民主制でありうるだろうか。この問題は 精神の自治過程として・つまり無力の有効の議論として 起こされうるし おこなわれていなければならない。既成事実ゆえに!というのは 経験領域での施策としては どうでもよいものであり だから これをおそれるから いろんなかたちの共同自治としての対策はありうるし 一般に採られるのだが 精神の自治過程にとっては 既成事実たる観念デーモンの有力にただ屈服することは 可能ではない。
もし国政も 人間としては この基本主観の民主制を代理すべきであるとしたなら その生活が苦しいという既成事実のゆえにという理由づけが まちがっているだけではなく 施策も 男女平等の理念に反していると言わなければならない。
だからわたしの言いたいことは 事後的な(後行する補助手段の 法的な措置という後衛の領域での)対処策としては いろいろありうるわけで ただしこの代理でありかつ後行する領域の福祉が 精神の自治過程の福祉に 先行することは ありえない。未婚の母(また 父?)というのは 母とか父とかの概念でとらえて 性の存在する領域で言っているのだから ここから出発する議論は かれらを 性差別しないで人間として捉える(かれら自身も 人間として考える)ところに立って 有効であり 法的な措置は この有効な議論の補助手段であり かつ 後衛としてその役目をはたす。もし この文体過程が抜け落ちていたならば 性の存在する経験領域そのものの議論は どこまでも性は存在するし それを根拠にするなら 男女を差別したことになる。未婚の母は ここで 女として 男に対して差別されたし 人間として じつは 人間に入れてもらえないかたちで 差別されたことになる。
これは 人情で言っているのではないことは そのとおりであり かつ 義理(道徳)で言っているのでもない。理念を立てて 倫理(反省的な理念・理念的な反省としての)で 言うことはできるが それでもない。無力の有効 すなわち だれにでもそなわると思われる基本主観の 自乗過程として こう考えられるのである。このような井戸端会議は 必要であり有益であると思われる。
同じ日の新聞記事。

ジュネーブで開かれている国際労働機関(ILO)理事会のレオニード・コスチン ソ連政府代表は二十六日記者会見し ILOの運営が《民主的》でないとの理由で 《拠出金カットの可能性もある》と発言した。・・・東側諸国の主張が通らないことへの不満の表明とみられる。
ILO理事会は現在 八六‐八七年の事業計画と予算審議をおこなっているが 同代表はこれと関連して ILOの活動が社会主義諸国の主張を無視する《非民主的》なものであり さらに失業 インフレ対策 社会サーヴィスの向上など 重要な問題を無視しており 《現在の状況は とうてい受け入れられない》と述べた。
・・・ILOでは昨年ポーランドに関して国際労働規約違反についてのILO調査結果の公表をめぐって紛糾 これを不満としてポーランドが脱退を表明している。
朝日新聞 1985年2月27日)

そういえば最近 ユネスコ(国連教育科学文化機関)にも 同じような問題が 問題提起者を別として 起きている。アメリカの正式脱退 イギリスの脱退通告などの後 日本も 脱退を示唆する発言をもって ユネスコの おそらく《民主的な運営》への改革をせまる議論をしている。二月二十五日 日本記者クラブでの記者会見におけるニューウェル米国務次官補の発言によると 《?ソ連の後押しする平和・軍縮に関する教育に約九十七万八千ドルが使われる一方 世界で一千万人もいる難民の文盲解消には六万二千ドルしか使われていない ?米連邦議会会計検査院の調査では 予算決定の過程が不明確で使途不明金が七百万ドルあり 予算の八割が本部のあるパリで使われている》(朝日新聞同年2月26日)というのが 批判の具体的な内容であるらしい。
ここでは問題をひろげようとは思わないから 次の一点を 見ておくためのものである。
《国政》は 一人ひとりの基本主観の代理である。国政間の関係つまり国際関係の次元でも 国際連合ないしユネスコILO等の補助機関 たる代理が つくられている。これは 各国の国政を ひとまとまりの特に《経済的な 基礎側面》だと考えると 国際機関は それに対して 《意志の中軸》であるかたちでの大きな仕組みだとも考えられる。しかも この《中軸》は 第一次的な中軸をもつ人間一人ひとりの基本主観の 代理者次元でのそれである。《基礎》と《中軸》とが切り離されているのは よくないとも言えるし 代理者次元では――国政では 三権分立であるように―― 便宜的な分業=協業の形態だとも考えられる。
そして 《中軸》では とうぜん とりわけ《民主主義》が語られるのである。だから 一人ひとりの基本主観にあっては 三つ目の《場ないし行為能力一般のちから(狭義の精神)つまり記憶》とともに 中軸(意志)も基礎(知解)も 三つに分別されつつ 同時に国際機関―― 一般的に言うと 法とか理念―― これらのゆえに 基本主観の自由・平等また民主制が実現するということではないのだから とうぜんのごとく 人間が 理念を用い代理機関を運営するという生活であり そうであるしかない。
だとしたら 精神の共同自治過程――ヴァレリーの言うには 《精神の国際連盟》――の観点に立っては やはりまず ことばの自由な解放がよい。議論をつづけることであり 議論の経過を人びとに明らかにしてつたえることである。

中曽根首相は二十六日 首相官邸自民党最高顧問を招いて開いた定例昼食会で 当面の外交課題・・・について説明した。この中で首相は ユネスコの改革問題について 《ユネスコの職員や事務当局はパリで優雅な生活を送り ユネスコ精神がなくなっている。厳しい姿勢で臨みたい》と 抜本的な改革が望めないなら脱退も辞さない構えで取り組んでいることを強調した。
これに対し三木元首相が《ユネスコはこれまで発展途上国のために貢献しているのだから よく話し合って適当な解決策を見いだすべきだ》と注文した。
朝日新聞 1985年2月27日)

これは 代理者の次元では 経過が明らかになっているということである。(もちろん そのことがわるいわけではない。)中軸は 基礎の知解を別にしては 発動できないのだから どうして 政府も報道機関も それぞれの国の立ち場のだけではなく 現場での互いにかみ合った議論を 明らかにしようとしないのだろうか。民主主義を 理念主義の一理念としているからではないか。そういう批判の出る側面もあるのではないか。ユネスコに対するアメリカのや ILOに対するソ連のや それぞれ怒りは伝えられているし――つまりこの経験領域の感覚的な反応が きわめて第一次的なものだとして―― 伝わってくるのだから 民主主義が 実質的・過程的に 内容となって 問われているようだと考えられるのだけれど 代理次元で処理されてはいないか。そして 中軸は とりわけ中軸は 代理次元によってのみは 解決されない。なぜなら 代理すべきところの基本主観において まだ 発動されていないのだとしたら。そして このように問う余地がもしあるとしたなら これは それぞれの国の市民の全体的な議論と直接的な意思表示(投票)を 要求するには及ばないだろうけれども 代理者たる政府の意思表示だけではなく ――基本主観の中軸の発動は 過程的なのだから――経過の発表・報道をのぞむことは できると思うのである。
一般論――きわめて抽象的な――になると思うが 次のような一面が 問題としてあるのではないか。国政や国際機関で その代理者たちは あたかも《未婚の母》となってのように その《子ども》の養育にのみ腐心し専念しているかのように思われるという一面。すなわち 経済また知解の基礎側面〔の結果〕がひとり切り離されて《子ども》つまり 誰もがそれに従わなければならないと主張するところの既定(既成)事実という子どもと されがち。代理者としても 主権の存する国民としても それぞれ当事者の 意志の中軸は すでに生まれたと言い張られてしまうところの子どもの養育が 先決であるだけでなく 原理的に先行しているといったような行為関係の流れの中で。子どもはすでに生まれていると言い張るその本人は 意志の中軸が 知解基礎と同時一体で 自由に 実践されているということにもなるが ただし実際のところ この《未婚の母》は その本人にとっても 民主制による過程的な文体として 無効である。意志の中軸が発動していないとしたなら。中軸として 両性の共なる養育についての合意 これが発動されていないとしたなら。しかも これが 実効性をもって さらには たしかに社会一般では 一方で民主主義の理念は既にかかげられており もう一方で外形的な民主政は既に守られているとすれば その代理者たちの主導による政治‐経済‐社会的な文体(文化・文明)は 有力であるかも知れない。有効でさえあるかに見える。だが それは――意志の中軸の発動が欠けているとしたなら―― 差別であり 自由でもなく 民主主義でもない。
(つづく→2005-02-16 - caguirofie050216)