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哲学いろいろ

文体―第二十八章 理念体系の美

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-02-05 - caguirofie050205よりのつづきです。)

第二十八章 理念体系の美

ここ数章までにおいて 《理念》をどう扱うかを議論し 《なぜ男女平等なのか》を提示しようとしつつ すこぶる難渋しています。いまの焦点は 《どういう場合には ただ〈男女平等>の理念を言うだけであって いかにその主張が むしろ差別の観念にあふれているか》にあります。
理念を呪文のごとくとなえる文体 これが 理念から――理念が過程的に実現されていることから――もっとも遠いのではないか。
《なんじ自身を知れ》と言われたときに 自由なら自由という理念をとなえることによって その《わたし自身》に代えた。のではないか という議論です。
また 《わたし自身》の理念内容としては 自由な意志と自由な知解とは 同時一体であるはずなのに(――ただし 異時異体へ傾くことへの自由意志を 人間は持ったとも言わなければならないが。もう一つただし 知解と意志とを異時異体のものと見るところへ傾くことは それだけなら まだ はじめの〔基本主観総体における〕同時一体に支えられているのだが――) 知解の自由を 意志の自由に 優先させた。これによって 自由なら自由という理念を知っていること だから おれは知っているぞと呪文のように唱えること をもって 《わたし自身の存在》に代えた。こんなことは ありえないのだが 実際のところ たとえば学歴が幅を効かしているとするなら そうである。
《男女両性の平等》という理念が 呪文のように 社会一般に鳴り響いている それにわたしも参加しているなら この理念は 実現しているという文体である。
人びとは まだ 魔法使いが好きである。
知っているなら 意志行為の問題は その知っているという知解に附属するのであって 何とかなるだろう つまり 魔法が わたしたちの意志に代わって なんでも実現させてくれるだろうと踏んだわけである。あるいは もっと弱気な謙虚なのであって その理念の大合唱 理念による右へならえに従わないならば さらに もっと 世間における自分の立ち場が まずいものとなるだろうという危惧からである。
もちろん このことの非現実的なことは 目に見えているのだから 理念たとえば男女平等は つまりそれとしての呪文は 一層 声高になっていく。場合があるのである。およそ すべて〔の理念にまつわる問題 または 問題に理念をまつわらせてのそのすべて〕は この呪文の大合唱にかかわっている。反核・反公害・政治倫理・教育の荒廃そして社会体制の問題等々。(最後のは 古いですねぇ。)
むしろ ものごとはよく知っているが(つまり 学識はあるが) 意志はこれをなくしてしまったほうが つまり鬼(専門への専念の)になってしまったほうが 意志が有効いや有力だという考え方であり 情況である。
なるほど 意志つまりそれの属する全体として基本主観は 無力だが それゆえにと考えてなのかどうか すべからく意志の問題は 竹槍武装でいくべきだというわけである。(竹槍武装・・・ふるいですねぇ。)もちろんほかにも 古くは 核兵器をなくすための核武装であるとか あるいは竹槍武装を 質的に異なったものとして延長させて いわゆる革命に訴えるといったやり方もあるわけである。(あったわけである。)
こういった引っくるめて理念主義(または 単純に理想主義)が 総じて 観念のデーモンに対抗するための観念の鬼の行き方であるという見解の奥に 男女平等なら男女平等の理念が 見られるわけである。むしろ先行して潜在しているとさえ見られる。それゆえに 理念 なのである。その意味では 理念も 生きている。現状維持の保守的な観念のデーモン鬼も もとはと言えば 或る理想主義だったわけだ。だから そうではなく この理念主義というデーモンを どうでもよいと見なし かつ おそれて 静かにまずは見守り 譲らねばならない場合をも経てきて わたしたちは 歴史している。そうであった・そう文化してきたゆえに 一つの結果として この理念を 明示的にも持った。ここで 舞台は新しいものとなったが 基本主観による文化・文体の行き方は 変わらない。変わったという錯覚――つまり 新しい舞台の登場によってだろうから 環境決定論という錯覚――が それじたい 新しい密林なのである。理念主義のすでに燃え尽きた燃えかすのようなものである。
基本主観の全体を 理念という部分に取って代え この理念主義のために 基本主観の中の 知解行為を意志行為に優先させる これらの二つのことによって 新しい密林(迷妄)が生じたということは 上の二つのことから見て 人間は自己を あたかも裏返しにしたということである。からだ全体の皮膚を引き剥がして裏返しにしたのである。理念が皮膚となったのである。理念主義およびこの理念の一つひとつを知っていればよいという守り神ヘルメスの音楽が がまの油なのである。あとは 魔法のみ。理念主義の鬼が邁進しているなら この運命共同体のなかで すべては 魔法がやってくれるのだと。
これは ジャングルであり おばけであり 死んだ幽霊が 自由自在となって あそんでいる墓場の理想郷である。
けれども 魔法でさえはたらくとき それは なぞである。だから 人びとは 目覚めなさい。墓場から 起ち上がりなさい。なぜなら すでに理念は 明らかになっているから。理念のために たたかってきた歴史は 或る意味で終えられているのだから。
この文脈では 人間が変わると言ってもよいであろう。すなわち 理念としての過程を捉えて たとえば 男女両性の平等。旧い闘争をたたかわずして そうであるし 同じく これまでの意志を相続して 文体過程するところに そうである。
世の中のあべこべを 理念主義でやっつけることによってではない。自由に文体を出していくところに 過程的な 理念の実現を見ている。
このように言うことは これまでの議論といくらか違った見方をすれば ここで 天使は必要である。ここで わたしたちは 天使の存在を欲する。理念をほとんど直接に言わない・理念主義のもとには言わないことによって 自由に文体を展開しているなら その相手に 自由に――つまり良心・思想の自由を侵さずに―― 理念の確認(あるいは 想起)を せまっている。せまること(議論しあうこと)までは 自由であり わたしたちの自由意志がなすことである。わたしたちが 理念をおしつけるのではないから。
ところが 理念主義なるものは この同じ場で 言うとすれば 天使の能力を欲したのである。《わたしは 天使だ》と。《なぜなら わたしは 男女平等ということばと理念を知っているから》と。つまり これは 天使の存在を欲するのではなく 魔法の存在を欲して 呪文をとなえたことになる。天使の能力をみづからに持ったと言ってのように。これが もっとも新しい人間の最高の文化的な文体なのだと言って。そういう新しい暗い密林と化して。《チベットモーツァルトを聞け》と。
理念主義なるあべこべの・さかさまの・転倒し倒錯した或る暗い《文化的な》怨念の鬼は 全体を部分に代えたから 理念が理念として明確になっているゆえに わたしたちは明るい(ネアカだ)と言う。知解を意志に優先させたから 或る理念体系の構築作業をもつ。もっとも この体系は すでに天使の能力を欲したことのゆえに いわゆる理論体系であるのではなく 軽やかな呪文の経典といったところである。この理念主義かつ知解優先主義によるところの理念体系(あるいは 理念知の体系)は ある天使の音楽とともに もう一つの精神の行為能力たる記憶によれば 個々の理念は それぞれさも美しく配置された精神の秩序としての組織をもつと 言い出すであろう。(現在―― 一九八五年二月――のところ ここまでは 言い出されていない。)現在のところ まだこのことは 語られていないけれど 文体の中の論理としては 明らかであり したがって 潜勢的である。
男があるいは女が 人間として 平等かそれとも自由か こういった具体概念の相互の秩序体系を ある固定的なものとして 言い出すであろう。固定的というのは 時代とともに 可変的なのであるが その時点の呪文の大合唱としては 明確にされるであろう。
理念として 平等が優先されるか 自由が優位に立つか それは 部分概念たる理念どうしでは 決められない問題である。それでも 理念明確主義かつ知解至上主義においては これを知らなければならないというわけである。個人の自由か公共の平等(福祉)か 男(あるいは女)の自由か両性の平等か 個人や男や女やの勝手か公共の勝手か 自由の平等か 平等の自由か 法の下の自由か法を変革する自由か こんなところまでつまりすべての経験行為に対して 理念の秩序体系の中での明確な配置をおこなう。
コンピューターの論理は どうであろうか。まずコンピューターじたいに 罪はない。その上で 人は コンピューターに 天使の存在を欲するか 天使の能力を欲するか。おそらく ふたつともであろう。論理は論理ですすむから。知解の自由は どこまでも自由だと まず 見るほかにない。自由意志は 自由ゆえに 記憶(組織秩序)の愛とともに 自由知解の或る調和を欲する。 
基本主観にあっては 理念の あれかこれかは なじまない。言うとすれば――哲学者がじゅうぶん考えつくしたように―― あれもこれもである。特定の情況で あれを採ったか それとも これを採ったかは どうでもよい領域に属している。だから 好きなほうを採ればよいのだが 基本主観は 生きた存在である。ゆえに どちらの場合でも そこに――基本主観が その人のわたしとして生きているならば―― 理念は理念も 生きてはたらくであろう。
経験領域では この現実を 或る理念体系のもとに取りおさめようとしても こちらを押せばあちらが膨らむ あちらをへこませばこちらがふくらむといった経験現実なのであるから この理念体系の中の経文語句では 無理である。人造人間・ロボットなら可能である(そういう分野でなら 可能である)。いわゆる理論体系 これは これらの経験現実を 生活全般の補助手段として 概念的に整理するものである。理論体系を目的とするならば ウェーバーのような――ウェーバー自身は 反対したにもかかわらず そうであるような――学問至上主義におちいる。理念体系――ニュー・アカデミズム――は 補助手段の領域を超えたわけである。従来のアカデミズムも 理論作業で 理念の確立をめざしてきた。これが明確となったところで 理念主義が出てきた。燃えかすのような理念体系論者は 或る美しい理念秩序の世界にしようというわけである。権力の有力を そのとき 用いるかどうか。あれかこれか それは 一義的に決まらないのだから しかもこれを明確にして知っていなければならないといって 最終的には 権力の有力を利用するかも知れない。
必ずしも 理念知解主義が ここまで進んでいるというわけではない。また わたしたちは――部分的なことがらについての判断で あやまたないとしていいとするならば―― 進んで欲しくないのであるから ちょっとあそんだわけである。
しかし 想起してもみたまえ。たとえば 《ダブル・バインド》といった概念を持ち出してくる。あれかこれかの選択をせまられたとき どちらを採っても うまく行かない つまりあちら立てればこちら立たずの情況 にあるその人の主観判断のおかれた状態を言う そうだが そんなことは もとから わかっている。わたしたちは 理念かつそれの知解のみによって 連帯する(共同主観を形成する)のではない。おのおのの基本主観どうしにあって 自己到来が相い照らしあうことによってである。そのとき ダブル・バインドの情況を 脱け出るであろう。どちらかが立たない どちらかが負けるといった勝負は 経験領域に つきものである。だから 基本主観は これを超え得ないけれど超えている。つまり 先行している。先験的である。お互いに 勝利がある。基本主観の自己還帰 精神の政治学がある。このとき 理念も活かされていて 見られ それを見て うつくしい。理念体系主義は その逆を行こうというのである。
もはや 理論の客観的な緻密な知識などとしてでは必ずしもなく 理念の美を まず始めに 製造する。その音楽を聞けと。それには 権力の有力 いな そうではなく 権力には逆らってでも なんらかの観念デーモンのおにの有力を 前提し期待しているのである。もしくは それとならば あらゆる人が 天使の能力を欲し これを実現させたかにある世の中 これを 理想としているのであろう。
これは ありえない。うそである。つまり無効である。無効が実効性をもったものとして ありうるではないか。だから それとして 経験的に起こりうる。《人間》が 衣服のように 裏表兼用の存在となるというわけである。そういえば 男女両性の具有ではないと言いつつ 守り神ヘルメスは ヘルマフロディトスとして 男女兼用の天使のうただということであった。おそらく その世の中は この世でもっとも美しい世界が現出することなのであろう。墓場のゆううつを感じる人など ひとりもいないようになるというのであろう。
ここで言えることは この ありもしない人間存在のすがたを 理念知解主義によって もっと自由に もっともっと自由に えがきすすめていくべきだ 途中で立ち止まることなかれ という助言をあたえることである。中途半端は よくない。とにかく 密林を切り拓いていくべきだ。人間が あのなぞにおいては 損傷を受けるということは ない。人間は しかるべく 対処するであろう。
そして人間は 損傷を受けた。無力となった。そして 無力ながらも 自然本性の有効性は 生きた。生かされていた。ゆえに まず 理念を明確なものとしており これを 共同自治の手段としては 立てた。客観認識の補助手段としては 経験科学。その応用として 自然科学・その技術一般。同じく 倫理学・道徳(思想)が 共同自治の手段の前衛であり 法学・法律が その後衛である。その他その他。この一つの段階・それとしての確立である新しい舞台 ここで たましいが癒される健康〔を問い求める場〕を得た。補助手段としていえば そうであろう。
観念のデーモンの呪縛つまりそのとげがささったという損傷は ひとまず いやされた。とげが抜かれた。または 抜かれうる・もしくは抜かれうるような場が確立したと 基本主観は 判断した。その患部が治癒されていくのは べつのことであるかもしれない。あたらしい舞台で つづいて 文体展開していく。観念のデーモンの捕縛を解放するひとつの段階として 理念を明確に知るようになった。この理念を主義とする・あるいは《わたし》そのものとするというのは 別のデーモンだというわけである。
デーモンは 死ぬことができない。その死が死ななくなっている。ゆえに わたしたちの 損傷を受け無力にされたときのほろびの死にまでは やって来ることができなかった。ゆえに デーモンによって わたしたちは その自然本性が 損傷を受けることはない。ゆえに 文体は自由に展開すべきである。あらゆることばの自由化。そして このことを 理念主義の理念とせずに。
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  • 理念主義の将来についてなどと言って へんな予測をおおきな顔をしてほざきましたが 現在(この日記の現在)そうはなっていません。可能性をそのようにかんがえました。ご容赦あれかし。orz
  • なにゆえ理念かは 依然として 課題でありつづけます。
  • 悪魔は死なない。すでに死んでいる。その死が死ななくなっている〔ところの《すべてを否定する精神である》Goethe〕。ゆえにわたしたちの死の床にまでは よう来なかったといった議論の展開は アウグスティヌスからのものです:アウグスティヌス三位一体論。もともと わたしの議論は かれを現代人に紹介したいというところから出発したものです。

(つづく→2005-02-09 - caguirofie050209)