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哲学いろいろ

文体――第三十三章 旧約聖書つづき

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-02-12 - caguirofie050212よりのつづきです。)

第三十三章 旧約聖書つづき

《先験的な》領域にかかわる話を いくらか つづけようと思います。
テシベ人エリヤが来て 《理念》が完全にと言ってよいほど知られるようになったなら いまの精神の政治学は すでに 過去のでもなく また未来のでもなく 現在の過程である。ただし無力の そして 文体として弱いそれであるところの。わたし個人は このように前章からのと少しちがって 表現の方針を 転換しているかたちではある。
民主主義を言うことは じっさい そういう自己の政府の民主制に発しているし まず始めに――ただしもちろん 方針は いろんなかたちがあり 人それぞれである―― そういうものとして 起こって来ることなのだと思われる。ここでは 文体の基盤として もっとも弱いと思われるところの 一つに 旧約聖書を取り上げている。べつに キリスト教の歴史とか それにまつわる特にヨーロッパ社会の歴史をながめてみようというのではない。しばらく きわめて弱い基盤にかんする文体を 例に採る。陰の声としては これが 文体の・または自己の政府の もっとも弱い基盤をつくってくれる そして 民主主義のなにゆえにかも おしえてくれると思われるからである。
つまり つづけて

ゼカリア(旧約聖書の)には 全能者が全能者をつかわすことを明らかに示す・・・箇所がある。ではだれがだれをつかわすのか。むろん御父が御子なる神をつかわすのである。

  • わたしたちの《なぞの自然の主体》が こういうことばで表現され 書き記されている。

すなわちそこにはこう書き記されている。

全能の主は言われる。栄光ののち そのおかたはあなたたちから略奪した諸国民へわたしをつかわす。なぜなら あなたたちに触れた者は そのおかたの眼のひとみに触れたも同然だからである。みよ わたしは彼らのほうへ手をさしのべ 彼らは彼らに仕えた者たちの捕虜となるであろう。そしてわたしをつかわしたのは 全能の主であることを知るのである。
(ゼカリア書2:8−9 小型聖書 - 新共同訳

みよ 全能の主が全能の主によってつかわされたと言う。ここで語るのはキリスト すなわちイスラエルの家の失われた羊に語るキリストであることを だれがあえて理解しないか。
アウグスティヌス神の国〈5〉 (岩波文庫) 20:30〔・2〕)

わたしたちは 《なぞの自然》の過程にあるが このなぞが こういった表現の文体をとおして さらになぞにおいて 見られるという今は 弱い基盤を わたしたちの自己の政府に与えているのである。もしくは そこから 取り出してきているのである。キリスト・イエスのことは知らないが わたしたちの自己の政府の内実またその根拠のことを・つまり《なぞの自然の主体》のことを 弱い基盤づくりとして アウグスティヌスは 精神の政治学のうえで 語りだしていると思う。旧約聖書新約聖書もそしてアウグスティヌスも その歴史的な時点がそれぞれ 決まっているのだけれど 精神の政治学は 基本主観として 共同である。として 読むことができる。

キリストには聖霊が与えられたが それは福音の証言によれば鳩の形でも示された。キリストは諸国民に審きを告げ知らせた。というのは 彼は諸国民にかくされていたことが起こるのを予告したからである。

  • つまり これに従えば わたしたちの現在の 基本主観の過程として すでに検討していた《勝利ということ》を含めて いまは 自己の政府の内実へと精神の政治学することができる。

キリストは柔和で叫ばなかったけれども また真理を公言することをさしひかえもしなかった。しかし彼の声は(――これについては 《天使のうた》かどうかが 問題となるであろう――) 外で聞かれなかったし また現に聞かれない。それでキリストの身体から切り離されている外にいる者たちによっては 彼は従われないのである。キリストは彼の迫害者であって 健全さをなくしているゆえに傷ついた葦にたとえられ また光を失っているゆえにくすぶる灯心にたとえられるユダヤ人たちを 折ったり消したりはしなかった。なぜなら キリストはまだユダヤ人たちを審くために来たのではなく 彼らによって審かれるために来たので 彼らをいたわったのである。

  • わたしたちは いたわることには無力だが もし民主制をもって相手にあたれば やはり無力でかつ観念のデーモンの踊りのはじめを促したかたちとなり このデーモンの有力のもとにある相手によって 社会的に追放されるということは 経験的に体験するのであろう。そういった精神の政治学過程のことが 言われている。理念の 経験科学による論証のための 弱い基盤として これらを読み語ることができる。

もしユダヤ人たちがその悪意をもち続けるならば 罰せられる時のあることを彼らに予告しながら(――つまり 精神の政治学過程としては 現実経験的である――) キリストはたしかに真実に審きを告げ知らせた。

  • 《勝利ということ》を問題にするなら 《審き》ということも そこで・すなわちおのおのの精神の政治学過程として 必然である。定義じょう そうである。もちろん主観の問題である。そして こういう場合の文体は もっとも弱い基盤を語ろうとしている。

キリストの顔は山上で輝き その名声は世界に輝いた。 

  • 基本主観の問題 少なくともその内容である理念は 人類が 明らかに獲得するようになった。これは ただ予告したというだけでいいわけである。神がそうしたかどうかは わかるわけはない。

彼は砕かれず すりつぶされもしない。というのはキリストは自分自身においても またその教会(――《ファウスト的人間》の系譜――)においても 迫害者たちに屈服せず そこで彼らが存在しなくなるからである。
アウグスティヌス神の国〈5〉 (岩波文庫) 20:30〔・2〕)

民主制の経験的な過程をとおしても 精神の政治学のうえで これらのことが しかも今 起こっていると――民主制なる自己の政府をいうからには―― 考えられる。《〈わたし〉の自乗過程》そのものを アウグスティヌスは 文体しているのである。これは 文体展開のもっとも弱い基盤であり この基盤づくりは 社会的に人間関係的に すなわちデーモンに対処するいわゆる倫理的な文体の〔だから 分ければ外への〕展開と じつは 同じものである。

したがってあの審判において

  • ――とアウグスティヌスは 自己の精神の自治過程を文体に展開する。外に対してでもあるが 外のデーモン関係に対処してであって 外へ出かけてではない。なおかつ 外のデーモン関係に 先行してであっても それを超越してではないから 審判がそこに含まれるであろうところの勝利ということは とうぜん 経験的な存在であるわたしたちに 起こることがらである――

あるいはあの審判に関して わたしたちはこれらのことが起こるのを理解する。つまり 

  1. テシベ人のエリヤ〔の到来〕 
  2. ユダヤ人たちの信仰(律法の理念主義) 
  3. 反キリストの迫害
  4. 死者の復活
  5. 善人と悪人との分離
  6. 世界の炎上と更新。

これらすべてが確実に起こることを信じなければならない。

  • すなわち きわめて弱い文体で 自己を無限に 自乗する形式。また そうするときに その過程は 先験的ではあるが 超越的。観念的ではない証拠に すでに見た自己の主観確立の過程の中間段階とおなじように 上のような段階過程があると アウグスティヌスは語る。しかし・・・

しかし いかなる仕方でいかなる順序で起こるかは いま人間の認識によって 完全に捉えることができるというより むしろその時 できごとの経験によって教えられることであろう。

  • これが 真理であるならば もっとも弱い文体は もっとも強いであろう。ただ 精神の自治学は いま現在の過程のものであるから 無力である。次のように言うときも 変わらない。

しかしわたしは それらはわたしのあげた順序で起こると考えている。
アウグスティヌス神の国〈5〉 (岩波文庫) 20:30〔・5〕)

この部分は いわゆる予言である。予言に興味はないが 主観の政治学に経験的な出来事がかかわって 自己到来が過程するとするなら ひととおり捉えておこう。
こういう弱い基盤づくりの文体は あらゆることばの自由な展開のもとにあっても やはり予言であると言わなければならない。もっとも わたしたちの議論に沿ってみても これらのうち(1)から(3)までの事柄は 人間の歴史において経験的であるとも考えられる。どういう人物として《エリヤ》が来たか わたしは わからない。けれども 観念的な精神であることによって肉的に経験的に理念を実行すること これは 理念のうえで 揚げて棄てられた。諸理念が 国政の有力のもとにであれ じゅうぶん明らかになって たしかに理念として 共有されるようになった。その後に――そしてその前にもだと考えられるが―― 《ユダヤ人たちの信仰》すなわち なおこの理念を 霊的にわたしたちの性の存在しない基本主観のなかに見ようとするのではなく 〔なお〕肉的に経験的に捉える生活態度 もう一度すなわち 或る理念体系の美の世界の中にかかげつつ そのじつ それら理念を用いようとする行為は 経験的な生活そのものであってよいとする考え方 これが 起ころうとしていると思われる。逆にいえば きわめて現実的とも見られるように 美と醜 聖と俗 あるいは理論と実践などなどを それぞれ切り離さないという見解を 理念として 或る理念体系の美の世界として 主張していく文体のやり方である。俗のデーモン関係から歴史を始めて主観の確立=聖を 中間段階をとおって 文体していく精神の政治学がではなく すべてを引っくるめて 天使――これが 聖と俗という二分法を越えていると見えて――の理念の政治学 だから観念の政治学が まだ そこには ある。そして これは じっさい 凍りついた理念 予言の凍結 つまり凍結の美の予言なのである。この観念の作用するちからは じゅうぶんに 肉的なのだと言わなければならない。そういう《ユダヤ人たちの信仰》。予言するアウグスティヌスは まだ むしろ価値自由である。
わたしたちが 価値自由であることによってむしろ これら《ユダヤ人たちの信仰》〔の文体形式〕に対して 怒るとき つまり 理念がただちに経験有力でなければならないと主張していく生活態度に対して 怒りをあらわすことをちゅうちょしないとき わたしたちは無力ゆえに かれらは有力ゆえに わたしたちを社会から追放しようと かれらは 動く。精神の この場合観念の 政治学が 主観のうちにあたかもデーモン作用として動く のである。つまり そういう意味での(3)の《反キリストによる――〈なぞをなくした経験有力者〉による――迫害》 これも 体験済みである。もしくは 現在の経験過程で じゅうぶん 理解できる。わたしたちは 《勝利ということ》に関する《その審判に関して これらのはじめの三つのことがらが起こるのを理解する》。
なにゆえに理念かは この文脈で――つまりアウグスティヌスのあげる残りの(4)から(7)までの四つの事柄は わからないとしても これまでの文脈で―― 精神の自治制の弱い基盤のうえでとして 問われているのを見る。字面のこたえとしては アウグスティヌスの文体に従えば 《それはおそらくわたしが来るとき 地を完全に撃つことのないためである》。この《わたしが》というのは わたしたちの《わたし》とは別だが 《なぞをもった自然》の過程にあるわたしたちの自己の政府つまりわたしたちの《わたし》から 切り離されているのではないと かんがえている。《自分が自分に到来するとき 自分を完全に撃つことのないためである》。
これは (4)の《キリストの審判》という表現で言われたことがらである。これは なお現在である。《(5)死者の復活――わたしたちの無力という死の有効――》そして《(6)善人と悪人との分離――無効という死が死ぬこと(善) あるいは逆に 死ななくなること(悪)――》 これらを 理解する。わたしたちは ファウストのように デーモンと関係をむすび 日々 死んでいる。しかも夜へは渡されずに 次の朝をむかえる。わたしたちは 自己の意志の証明・保証を受けるにいたる。悪人は 自己が回復されたとき 有罪宣告を受けるにいたる。《火の中を通ってのように すくわれる(――自己の基本主観が確立されていく――)であろう》と言われた。
そうでない人は 永遠の火の中へ行く すなわち 無効の意志の死が(おばけになり鬼になったデーモンが) すでに死ななくなる。最後の《(7)世界の炎上と更新》は 《炎上》がどういうかたちで起こるか――はたして 本当かどうか――は分からないが 《更新》は わたしたちも捉えてきたように 《舞台が新しくなり その舞台環境の変化をもってではなく これに対応していくところの人間が変わる》というかたちで 精神の自治過程の一文体として 堂々と展開してもよいと理解する。
経験科学による論証ではないが ここまで 現在のこととして まず弱い基盤づくりとして 言えるとおもうのである。わたしたちは 経験科学による論証をもって 起こるべき事柄については すべて確実に起こることを明らかにしなければならない。自己の政府の内実のほかのことではないのだから その点で 主観真実として確かである反面で 客観認識がどのように及ぶか むつかしい。いまわたし個人に その論証の能力はないと見たが 理論はあとからついてくるとも思える。
(つづく→2005-02-15 - caguirofie050215)