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哲学いろいろ

文体―第二十九章 愛

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-02-08 - caguirofie050208よりのつづきです。)

第二十九章 愛

まず《自然》について 第十五章で概念整理した見方をふたたび掲げます。

《おおきな自然》=《世界・歴史・宇宙》=

  • 人間としての《自然本性》
    • 性の存在しない先行する《基本主観》
      • 精神・霊・理性・こころ〔の意味でのたましい〕
      • 精神の政治学主体たる《自己の内なる政府》=自治・共同自治の主体
      • 文体の主体・《なぞの〈わたし〉》=《〈わたし〉のなぞ》)
    • 性の存在する後行する 《経験領域》
      • 感性・情感〔としてのたましい。また こころでもあるだろう。〕
  • 環境としての《自然》
    • 人体環境を含む。→からだ=こころ
  • 人間関係たる環境としての《社会》
    • 第二の自然

基本主観は すべての領域に先行するも 経験世界すべてと同時一体(精神=身体)である。先行・先験という点で わたしたちは 《なぞ》をもつ。
性の存在しない先行する基本主観。そこでは 精神として 記憶がおこなわれ知解をなし意志をもつ。
性の存在する後行する経験領域。そこでは 或る組織秩序をもち労働し愛する。
精神の 記憶と知解と意志とは 同時一体である。また 異時異体を許容するかのような成り立ちの同時一体である。
経験行為の 組織(関係性)と労働と愛(関係共同)とは それぞれに時間的であって あたかも互いに異時異体である。
《自然本性》つまりわたしたちの存在は これら先行と後行との両領域を あたかもこれも なぞにおいてのように むすび合わせて 生きている。
ゆえに――これら先行・後行の両領域が むすび合わさっていることのゆえに――精神は ことば(概括的な思念)をもつし とりわけ 精神じしんの内容たる理念をもっている。すべては 《なぞをもった自然》であるが なぞは 不明瞭な寓喩だから 寓喩(または 代理)の部分つまりたとえとして明確な理念を ことばとして もつことができる。――《自由》。・・・・
つまり 《自由》:良心・信教・思想・表現等々の自由。
つまり 《平等》= 《自由》が誰においても互いに対等であるということ:経験領域における 性の区別 組織の区別 労働の行為・結果の区別 愛の区別 これらにかかわりなく 人であることの基本主観の・だから自然本性の 平等。
互いに 平等な基本主観であることのゆえに その行為能力としての 意志の自由 知解・記憶の自由。
自由な知解は 自由な意志によってこれをなす。知解の自由によって 意志は自由である。
労働するとき 愛(関係共同)をともない 組織(関係体)をもっている。社会一般も 組織体である。愛するとき 労働が基礎である。組織の基礎にも 労働がある。この経験領域の三つの行為だけを見れば 労働が まず基礎であり しかも他の二つに 優先するかに見える。しかし 優先するのは 生きることであり 基本主観が先行している。基本主観が 先行しているということは 自然本性が 社会――つまりこの意味で 組織体あるいはその結合の作用たる愛―ーに生きているということである。つまり 愛や組織行為に労働が それは基礎であるが 優先したというのではない。労働だけをやっていれば 基礎だけを固めれば その人は 自然本性たる人間なのだといえない。《衣食足る》前にも そうである。衣食足るまえにも 《労働をしさえすれば 人間だ》と言えないから 労働するのである。毎日 食事と睡眠のほかは ぜんぶ はたらかなければならないような生活をおくっていたとしても そこでは――労働が同じく基礎であるが―― 社会としての愛や組織秩序(むろん変革するというかたちの秩序をふくむ)が 同時一体である。
もしここで 理念を問題にしようとおもえば 《愛》がいちばんに来る。経験行為のだけではなく 基本主観の意志は 知解と同時一体にして とりわけ 愛である。なぜ とりわけと言うかというと 自然本性には なぞがあるからである。知解によってわたしたちは 寓喩ないし理念を知るだけではなく 不明瞭さ・つまりなぞがなぞであることをも知るのであるが このなぞにとどまる(なぞにおいて見る)のは 意志のちからだから。
もちろん 意志もなぞに包まれているのだから このなぞを超えて意志することはできない。むしろ なぞの自然の主体が わたしたちの意志を活用するのである。しかし その活用のあり方は 愛ではないか。なぞを超えてなら 人間のことばで それを 知解と言おうと記憶(それとしての精神)と言おうと その愛と同じ一つのものであるはずだが わたしたちに これが知られるのは 愛によってである。知られるというのだから わたしたちにおいても 同時一体だと考えられるのだが。
だけれども 愛さなければ 知解はとどまらない。その愛は 対象を 記憶にとどめていて この記憶の倉庫から或る視像(ことば)を取り出し 知解するのであるから また 三者は同時一体であるが 愛は 三者を・もしくは自分自身を 完成させる。あるいは 三者の中軸である。記憶は 総体的な場であり力である。
これによって 愛(意志)が 知解に対して劣勢であるのではなく また 優勢となったと言おうとするのではない。中軸と基礎との関係として 同時一体だと言おうとするのである。わづかに これらを知解しようとつとめるのは 愛によってである。もし いわゆる頭のいい人がいて 努力しなくとも 知解が早く記憶にすぐれていたとしても 三つの行為能力の一体なる自然本性として かれは存在するのであって――だから 実際 この存在じたいを 自乗するごとく 愛している・つとめていると考えられるのだが―― かれは 知解者 百科事典マンとして 存在しているのではない。
だとすれば 理念・またそれの知解は 愛を中軸にすえて 少なくとも議論をすることができる。知解ゆえに――知解したゆえに・知解するために―― 理念をかかげたり また 生きたりするのではない。ところが 愛のゆえに 生きるとは 少なくとも表現していることができる。経験行為の愛が 基本主観の意志つまり愛であるゆえにだと思われる。ことばのうえでは。自然本性において 性の存在しない基本主観と性関係的な経験領域とをもつなぐもの それも 愛のちからだと思われる。また そこで 記憶も知解も 抜け落ちていないというところが みそである。
とりわけ 愛が なぞである。引力も愛だと ことばの上では 表現するのであり そのような物理的な結合のちから 化学的な結合反応のちから 心理的な結合のちから そしてこれら経験的な結合のあり方を超えて(それに先行して) 結合ないし連帯ないし主観が共同であることのちからを 愛と表現してみるということである。ただ自然的――ただ自然的――な結合としてのちからは やはり耕されるべき・もしくは 少なくとも自乗するようにして自覚するべき愛だとして。
自然本性がなぞを持つというのは 愛を持つと表現するという一つの行き方であり なぞにおいてわたしたちが 物事を見るというのは 愛において・愛によってと表現するやり方である。概念による文体として 概括的な表現として。
つまり――愛を 慈悲などの語にかえるなら それなりに なじみのある言い方かもわからないが ただし それでは かえって わかりづらいと思われる。つまり 商売が慈善事業などではないと言う人も なぞにおいてという意味で慈善において 商売とかものごとをかえって見ているというかれの存在ぜんたいのことを 実際には言っているといった説明が 必要となる。だが 慈悲とかは あまりにも超越的である。もっとも 《ことばをそれほど高く値踏みすることはできない》から 表現の問題・定義の問題でもあるが。ただしやはり 慈悲にも なぞがあるであろう―― 
もし 理念を問題にするのならば いまおこなおうとしている表現の行き方が 可能かと思うのである。きわめて まだ あいまいであるが 愛のあるところに自由がある・平等があるという(そう表現していく)見方である。そこに 基礎をなくしていないなら 見方として 成り立つと思うのである。じっさい そういうふうにして 商売とか研究とか日常生活を おこなっていると思うのである。つまり いまは 理念を わざと 先頭に立てて 議論するという場合である。
ほかの理念 あるいは理念主義だと 基礎の知解ないし労働行為が 時間的にだけではなく 基本主観のあり方として 後行してしまうか 観念的に先行してしまう。慈悲などというと――それは 通念上のまた定義の問題だが―― それが 経済とは別なものと見なされてしまうか それとも 経済に外から上からおおいかぶせるものと受け取られやすい。あるいは 要するに 経験領域では必然的な有力としての観念デーモンが強いから その中の基礎の側面だけが 優先されたり 全体視されたりする。つまり この場合 経済を優先し ゆたかになってこそ 慈悲を実行できるようになるじゃないか と人びとは さもわかったように 哲学を述べる。哲学をのべるのも 経済を優先させるのも 愛・少なくとも自己〔さらには その利益の〕愛によっている。
人を愛させなさい ということである。経験行為の愛(欲望)でたとえあっても つながっているから――また そのことを知解するはずだから―― 基本主観の連帯(ふつうの人間関係)に立つはずである。なにかをしたが なにもおこなっていない。基礎として知解し労働し経済的に自己の利益を求めたが 精神の政治学として なにもおこなっていない。しかも 精神の政治学として知解・労働(協働)・経済活動をとおして 人を愛させた。また 愛させるという意味で動いたが まだ なにも動いていない。しかも 互いの自由とか平等の理念も その愛において・なぞにおいて 見〔させ〕ている。
つまり これを 労働行為・科学研究・経済活動のなかで すなわち日常生活として おこなうのである。知解は基礎であり 愛は中軸である。同時一体である。特別のことをするのではないし する必要はないし また してはならない(基本主観の外に精神の政治学そのものが出かけることは ありえない)。
愛は なぞをもって 経験行為の欲求から おおきな自然のちから(すべての自然科学的なちからを含む)まで 全領域に共通し また 全領域を突き抜けている。自由とか平等の理念で これを 四角く区切るべきではないと思われる。――この章は 理念として言わば ということなのである。
(つづく→2005-02-10 - caguirofie050210)