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哲学いろいろ

文体――第三十七章 新約聖書

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-02-17 - caguirofie050217よりのつづきです。)

第三十七章 新約聖書

墨ではなく《生ける神》の霊によって 石の板ではなく血のかよった心の板に 書きつけられた手紙です あなたたちは。
パウロコリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)3:3)

なぜなら

文字は殺しますが 霊は生かします。(同上3:6)

から 《理念主義》ではありえないのです わたしたちは。

神はわたしたちに 新しい契約に仕える資格 文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。(同上3:3)

ので 新しい時代。理念は理念として明確に知られ共有される新しい舞台環境の世界。だから 神とか霊とか 契約(つまり 経験概念で 自己の政府の民主制)とか これらを《文字》として よむことはないようになるでしょう。理念主義の理念として すなわち 法権力の有力のもとにかかげ 文字理念として守らなければならなかったり 道徳とか宗教として説教すべきことば理念として売り物としたりする社会環境ではなくなっていくものと考えられる。わづかに 理念体系論が あたらしい舞台のあたらしい鬼として 力をもってくる。

そちらから書いてよこしたことについて言えば 男は女に触れないにこしたことはありません。しかし みだらな行ないを避けるために 男はめいめい自分の妻を持ち また女はめいめい自分の夫を持ちなさい。夫は妻に 夫婦の務めを果たし 同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままに扱う権利を持っておらず 夫がそれを持っています。同じように 夫も自分の体を意のままに扱う権利を持っておらず 妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません。ただ お互いが納得しあったうえで もっぱら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ またいっしょになるというなら話は別です。あなたたちが自分を抑制する力がないのに乗じて 悪魔が誘惑しないともかぎらないからです。もっとも わたしは 結婚しても差し支えないと言うのであって 結婚しなさい と命じるつもりはありません。わたしとしては 皆がわたしのように独りでいてほしいと思っています。しかし 人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから 人によって違った生き方をしています。
未婚者ややもめに言いますが 皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし 自分を抑制できなければ結婚しなさい。いつも情欲に身を焦がしているよりは 結婚したほうがましだからです。さらに 既婚者については 妻は夫と別れないように命じます。こう命じるのは わたしではなく 主です。――すでに別れてしまったのなら 再婚せずにいるか 夫のもとに帰るかしなさい。同様に 夫は妻を離別しないように命じます。その他の人たちに対しては 主ではなくわたしが言うのですが ある信者に信者でない妻がいて その妻がいっしょに生活を続けたいと思っている場合 かのじょを離別してはいけません。また ある女に信者でない夫がいて その夫がいっしょに生活を続けたいと思っている場合 かれを離別してはいけません。なぜなら 信者でない夫は 信者である妻によって聖なる者とされ 信者でない妻は 信者である夫によって聖なる者とされているからです。もし そうでなければ あなたたちの子供たちは汚れていることになりますが  実際には聖なる者とされています。しかし 信者でない相手が離れていくなら 去るに任せなさい。こうした場合に信者は夫の立ち場であろうと妻の立ち場であろうと 結婚に縛られてはいけません。平和な生活を送るようにと 神はあなたたちを召されたのです。妻よ あなたは夫を救えるかどうか どうしてわかるのですか。夫よ あなたに妻を救えるかどうか どうしてわかるのですか。
パウロコリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)7:1−16)

この文章は 経験領域のことばで書かれており また 経験行為じたいを 論じています。《神》というのは 自己の政府のなぞの主体を表わすことばであるから 精神の政治学としての議論であり 信者というのは 宗教組織としての教会のであるかどうかを問わないで 精神の政治学者という意味だと 考えます。
そして 夫とか妻とか権利とか離別とかは 人とか中軸の意志とか平和とかより そのことばの指し示す内容が いっそう明確である。だからといって(あるいは それにもかかわらず) 一方で 一つの言葉を文字理念とするなら――《墨で書かれた法律条文の有力として 従うべきもの》とするなら―― わたしたちは《殺される》 それと同じように・ただしやり方を変えて 他方で 個々のことばではなく全体の理念内容を――つまり男女平等とか 民主主義とかを―― 或る一定の体系(開かれたそれとしてでも)にし そこでおのれを省み 一個の行為規範の有力とするなら そうするなら それは 前者の欠陥を乗りこえつつ かつ 自己が天使の能力を欲するという新たな欠陥に立ったことを意味する。新しい舞台つまり外の社会環境を 自己そのものとしようとしたことにもなります。かつ この舞台を 或る美しい世界として描き出し 自己や社会を飾ろうとしているのですが。要するに 理念体系論者は 理念主義――個々の理念を立てて その実現へ向けて 運動することこそ 自己であるとする活動家――とは違って その理念体系を ことばで たしかに展開していくのです。ところが この文体展開で いってみれば説教することこそ 自己であるともしている。理念を 文字理念とはせずに 理念体系の美とし これを開かれた体系として描き出すことによって 理念を 幅のある 自由な 実現過程だと示しつつ 説く。けれども わたしたちは 理念を 基本主観の代理だと見ている。
代理たる理念を 理念主義者(そういう理論家=実践家)は 外の代理次元・国政の世界で 実現させようとするそのことこそ 自己であると考えた。理念体系論者は 理念が 自己の内部世界の代理であるとさえ 知っている。ところが 代理でないところの本体つまり自己は その内的な代理たる理念が 血のかよった心の板に書かれたところのその心・基本主観・つまり人間=わたしであるとは 言わない。理念の美をたたえること ともに讃えうるように説教していくこと これこそ 自己だと考えた。
これは つよい誘惑です。経験概念が そこに 或る理念をふくんでいるなら そのことばのとおりにこれをおこなう一つの誘惑があります。これが 単純に 理念主義 またはいくらか古く 理論=実践主義。《文字によって殺される》やり方。もう一つに 経験概念が あまりにも明確であるために・かつ 実際のところ経験領域はわたしたちの存在に後行するものだということを知っていてそのために 神の世界を詮索し天使の世界をとらえ 経験概念を超えて 一つの理念体系(非体系)の美をえがく方向にむかわせる誘惑があります。幾何学的な知の体系でもあれば 芸術的・文学的な一個の世界でもあるかたちで そこへ誘惑されつつ 人をも誘惑しようとするやはり観念の有力。
この人たちは経験領域の必然の世界――夫があれば必然的に妻がいて 権利があれば必然的に義務も生じ またその法的な有効・無効が 結果される世界――を たしかにわたしたちの存在じしんに後行するものだと知っており これを貶め嫌い超えようとしたのです。《自由の王国》――あるいは《平等の王国》でもよいわけですが――と言ういくらかの種類の理念体系の世界 これへと進んでいく。《民主主義》を 或る理念の国として えがきだす。さらにこの後 外の世界へ向けて 運動するかどうかを別として まず これ。だから どちらにしても 経験デーモンの観念を乗り越えたところの理念で 体系(つまり精神の政治学の)をえがくやり方 これは 観念の有力に対抗するところの 別種の観念であり 裏返しの観念である。理念の裏返し(転倒)でもあるから 念理ということばが ぴったりするかもしれない。

《自然の人》――この場合は 経験領域そのもの・それのみの 自然の人――は 神の霊に属する事柄を受け入れません。

  • 自然そのままでよい なぞのない自然経験の過程じたいであってよいと 考えるということ。

その人にとっては ばかげているからです。また 理解することもできません。そのようなものは 霊によって初めて判断できるからです。《霊の人》――なぞを持った自然本性の人――はいっさいのことを判断しますが その人自身はだれからも判断されることはありません。
パウロコリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)2:14-15)

といった内容のことがらを その人たちは 知っていて――理念主義者などの人たちは 知っていて―― 別種の観念の有力で その有力を天使の能力だと言いながら 実行しようとしているのだと思います。

エスは・・・サマリアの町に来た。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて そのまま井戸のそばに坐っていた。正午ごろのことである。
サマリアの女が水をくみにやって来たので イエスは 《水を飲ませてくれませんか》と言った。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていたのである。すると サマリアの女は 《ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに どうして水を飲ませてくれと頼むのですか》と聞いた。ユダヤ人はサマリア人と交際しないからである。イエスは答えた。《もしあなたが 神が何をくださるか また 〈水を飲ませてくれ〉と言ったのがだれであるかわかれば あなたのほうからその人に頼み その人はあなたに生きた水を与えたであろう》。
かのじょは言った。《主よ あなたは水をくむ物を持っておられないし 井戸は深いのです。それなのに その生きた水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは わたしたちの先祖ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え かれ自身も その子供や家畜も この井戸の水を飲んだのです。》イエスは答えた。《この水を飲む人はだれでも またのどが渇く。しかし わたしが与える水を飲む人はけっして渇かない。そればかりか わたしが与える水は その人の内で泉となって 永遠の生命に至る水が湧き出る。》その女は 《主よ のどが渇くことがないように またここにくみに来なくてもいいように その水をください。》と言った。
エスが 《戻って ご主人をここに呼んで来なさい》と言うと かのじょは 《夫はいません》と答えた。イエスは言った。《〈夫はいません〉とは まさにそのとおりだ。あなたは五人の男と結婚したが 現在つれそっているのは夫ではない。ありのままを あなたは言ったのだ。》かのじょは答えた。《主よ あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこのゲリジム山で礼拝しましたが あなたたちは 礼拝すべき場所はエルサレムにあると主張しています。》イエスは話した。《さあ わたしを信じなさい。あなたたちが この山でもエルサレムでもない所で 父を礼拝する時がやって来るのだ。あなたたちは知らないものを礼拝しているが わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし ほんとうの礼拝者たちが 聖霊と真理に導かれて父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら 父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから 神を礼拝する者は 霊と真理とをもって礼拝しなければならない。》かのじょは言った。《わたしは キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。そのかたが来られるとき わたしたちにいっさいのことを知らせてくださいます。》するとイエスは 《あなたと話しているこのわたしが そのメシアだ》と言った。・・・
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書4:1−26)

このあと 後半(4:27−42)がつづきますが ここで引用をうち切っておきます。F.モリアックは この物語を次のように解釈している。要約して示すよりは 直接 引用したほうが とうぜん よいと思われる。

エスが ちょうどサマリアの収穫期にあたるこの道を通ったのは 一つの魂に たしかに 大部分のほかの魂にくらべて汚れ方が少なくもなければ 福音を受け入れるよき備えができているわけでもない一つの魂に 出会うためだった。とはいえ その魂のために そして 別の魂のためにではなく イエスは敵地に足をふみいれたのである。・・・
最初に来た魂・・・はからずも それは 女だった。この女に言葉をかけることをつつしむのに イエスとしてはたくさん理由があったはずである。第一に 往来で 男が女に話かけるということはふさわしいことではない。それに 彼はユダヤ人であり 女はサマリア人である。最後に 人間の心のことを知っており 肉体のこともよく知っている彼として この愛らしい女が何者かということを知らないわけはなかった。
この牝である人間にむかって目をあげたのは 神である人間であった。彼 無限の純潔である彼 低劣な忌まわしい形における欲望を殺す必要のない彼は しかし それだからといって 肉の形をとった欲望がないわけではない。彼は肉の形をとった愛そのものであるから。彼はこの女の魂をわがものにしようと激しく望む。待てしばしのない性急さで即自 即刻その場で 手に入れようと望む。
《人の子》はこの被造物の領有を要求する。この女がいくら 現にあるとおりのものであっても だめである。ひとの妾であり 泥水の中をさんざん這い回った女 六人の男が彼らの腕の中に抱いた女 今彼女がその持物になっており 彼女と共に快楽を味わっている男が彼女の夫ではない女 そういう女であっても 人の子をしりごみさせることはできない。イエスは みつけしだいのものをとりあげる。誰でもかまわず拾い上げる。彼の支配の時代の到来のために。彼は女の姿を眺め 即座に決定する この女が今日にもスカルの町を彼の名において占拠し サマリア神の国をうちたてるであろうということを。一晩じゅう 彼は律法の博士に福音の手ほどきをするのに 死ぬこと 再び生まれることが何を意味するかを理解させるのに 苦労した(ヨハネ3:1−21)あとである。六人の夫を持ったこの女は この神学者がとらええなかったものを 一挙に理解するであろう。イエスはしげしげとこの女を眺める。彼は愛が重大事である女の前に出て 道徳堅固な連中の感じる萎縮や本能的反発を知らない。むろん いたずらな寛容も 罪を知って目をふさぐ態度も なおさら彼の知らぬところである。それは 一つの魂 最初に来た魂であり 彼はこれを道具に使う。太陽の矢が汚物の中の壷のかけらを貫いたと思うと 炎がほとばしり やがて森全体が火に包まれる。
時刻は第六時。暑い。女は自分が呼ばれているのを聞く。このユダヤ人が自分に言葉をかけるとは?いや たしかにそうだ。彼はこう言ったではないか。《われに飲ませよ》 即座に からかい好き 男たらし の本領を発揮して 女は汗をかいているこの見知らぬ男に答える。
――なんじはユダヤ人なるに いかなればサマリアの女なる我に 飲むことを求むるか?
――なんじもし神の賜物を知り また《我に飲ませよ》と言う者の誰なるを知りたらんには これに求めしならん。さらば汝に活ける水を与えしものを。
キリストは途中の手続きをとばして急いでいる。この言葉はサマリアの女には 解すべくもない。しかし 彼はすでにぬすびとのごとくこの名も知れぬささやかな魂の中にしのびこんでしまった。この魂がやがて経験することは それは自分が八方からせめられているということであり 汗にぬれたその顔を彼女が見ているこの見知らぬ男が その足の埃のために灰色になっているこの見知らぬ男が 彼女の内なる世界を占拠し 彼女の中に侵入してきているということであり この生ある潮には抵抗できないということである。毒気を抜かれたこの女は 相手をからかうことをやめ そして すべての女がそうするように 突如として 子供らしい質問に身をまかせた。
――主よ なんじは汲む物を持たず 井戸は深し。その活ける水はいずこより得しぞ。汝はこの井戸を我らに与えし我らの父ヤコブよりも大いなるか。彼も その子も その家畜も これより飲みたり。
エスはもはや一刻も空しくはできない。彼は苛立つ一突きで この女を真理の真ん中へ投げ込もうとする。彼は言う。
――すべてこの水をのむ者は また渇かん。されど・・・
〈7.サマリアの女〉

イエスの生涯 (新潮文庫)

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やはり中断したかたちとします。わたしたちは キリスト・イエス――《神である人間》――ではないから かれのものであるから 《人の心を占拠》しない。このモリアックの《自己の政府》の精神政治学が わたしたちの心を占拠しないのと同様である。むしろ 観念のデーモン 理念体系の天使の鬼が 観念の放射線を放って 人の心に侵入するのです。《サマリアの女》も かのじょが初め そうしたのだと思う。それは じっさいには 人間の観念や理念でもない・また天使でもない真理に 自分が占拠されることを 欲したからだと考えられる。そうして 自分は天使の能力を欲する鬼です ここに貧しいひとつの魂がおりますと わたしたちに訴えていたのだと思う。わたしたちは イエス・キリストではないから かれらにかかわりあいがない。また 不法侵入に対して いかる。つまり 自然本性・基本主観が 類として同一であるならば その共同性・関係性は 泣いても笑っても いくらもがいても はじめに 生じている。また そこで 人間は自由 男女は平等だと 知っているし 法の有力も そのことをすでにうたっている。かかわりを持つためにではないが 不当な行為の害をこうむったなら 怒る。理念は ここにある。ここで 天使の存在を欲して そしてその能力を欲しないゆえ 無力の有効で 理念は実現されていく。

《しかし 先にいる多くの人があとになり あとにいる多くの人が先になる。》
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書19:30)

《〈人の子〉は 大きなラッパの音を合図に天使たちを遣わす。天使たちは 天の果てから果てまで(――ブッディズムも 仏性の遍在性をいう――) 四方から神に選ばれた人たちを呼び集める。》(同上24:31)

しかし わたしたちは皆今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパ(――歴史経験的に 人間の差別もしくは男女の差別の《最期を告げる鐘》と言った人もいる――)が鳴るとともに あっと言う間に一瞬のうちにです。

  • 性の存在しない基本主観ゆえに 《一瞬》もしくは《現在》です。ファウストは やはり経験的な過程でのかたち・《時よ止まれ おまえはじつにうつくしい》と言うというかたちをとる。

ラッパが鳴ると 死者は復活して朽ちない者とされ わたしたちは変えられます。
パウロコリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 15:51−52)

(つづく→2005-02-19 - caguirofie050219)