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哲学いろいろ

文体―第二十一章 ある奇妙な和解

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-01-29 - caguirofie050129よりのつづきです。)

第二十一章 ある奇妙な和解

ファウストにおける文体行為の方程式

ファウストにおいて つぎの文章は 単純に かれの自己到来のすがた(過程)を現わしているといってよいであろう。

ファウスト:命の脈が 新たに生き生きと打ち始め         4679
      大気のほの明りになごやかにあいさつする。
      大地よ おまえは昨夜も変わることなく
      新たによみがえったわしの足もとで呼吸し
      早くも喜びをもってわしを取りかこみ始める。
      そして力づよい決心を動かし かき立てる。
      最高の存在に向かって絶えず努力せよと――
      薄あかりの中にもう世界が開かれている。       4686
ファウスト〈第2部〉 (ワイド版岩波文庫)〈第一幕 優美な地方〉)

これは 自己到来の動態を 観念的に確認するものではないと これまで読んできたのですが その文体にかんする過程のひとつの方程式だと思うのです。

ファウストにおける自己到来なる文体過程の方程式。

  1. 文体は 動態だ。
  2. 夜から始める。
  3. 日々死んでいる。
  4. 夜へは渡されない。
  5. 新しい朝をむかえる。
  6. 日々生きている。
  7. あるいは 
    1. 引用のなかで《最高の存在》といっても 《なぞの自然 / 自然のなぞ のやはり過程》。
  8. その他としては 
    1. デーモンは 正体不明のメフィストフェレスのその都度の正体だ。
    2. 夜から始めるとき あたかもメフィストと関係を結ぶかのように デーモンを食べる人(ばあい)もある。
    3. デーモンが踊り出す。→そして ファウストの死は 賭けに負けたかたちをとって メフィストに対する勝利を語ろうとしている。

などなど などなど。

人麻呂は この過程の全体つまり 或る一個人の生涯 これを ひとまとめにして 何かの作品を書いたわけでは むろん ない。かれの歌うたを 文献などで知りうるかれの歴史と合わせて 誰かが ひとまとめにして 見させてくれるかもしれない。それは 人麻呂なりの方程式を わたしたちの前に 明らかにしてくれることかも知れない。ところが 三十一文字の一個の文体それぞれをとおしてこそ わたしたちは かれの・つまり 人間の 基本主観をとらえ 全体として一存在の 自然本性の過程(社会的行為)の中味を たたえ いまに 相続していくことができる。
一近代市民ゲーテと 一古代市民(とくには 日本人としての)人麻呂とのちがいを ここに見ることができると思うのです。どちらも 《ファウスト的》であり 趣味とか肌合いの点では わたしたちは 人麻呂のほうに近いのではないかと考えます。
もしこの人麻呂とゲーテとのちがいを ことさら ふいちょうしようとすれば 次の点が 議論すべき問題であるかとも思います。
かんたんに通俗的に言えば 《最高の存在(つまり なぞをもった自然本性の 開かれた ふつうの存在)に向かって絶えず努力をせよ》(4685)とは 或るフィクションの中で わたしたちは 言ってほしくないと思っている。散文として 文体の主体がそのまま一人称で語るものとして 言ってほしい。和歌は 必ずしも散文ではないけれど あるいは逆に しばしば 或る虚構(特に或る一幅の絵の世界)におけるただ主観的な散文となるけれど 人麻呂のばあいには そこで 何も語っていない・もしくは 何もしていない自己が つまり《最高の存在》が おおむねくっきりと 主張されるかたちとなる。だから 通俗的に議論すると ゲーテに対しては ふつうの日常会話 井戸端会議として 自然過程の方程式をも のべてほしいというのが ことばの自由化のひとつの中心的な内容である。
というのは いくらか理論的に整理すれば いまここに掲げたファウストのせりふにしても 作品の中の主人公ファウストにとっては 一人称による語りではありながら 他者との関係が 薄いかたちで のべられている。独立主観であるから それでよいのであるが 相互依存的な関係の中にあることも じっさいであって いまの例だと この独立主観が やはり やや〔関係の〕動態としてというよりは 方程式ふうである。方程式が さらに客観認識となったり 〔この客観を 概念として用いるのではなく 自分で念観し人にも念観させるという〕観念的な整理・確認のほうへも 移っていったりしがちである。

(承前)
ファウスト:森は無数の声を発する命に鳴りひびき           4687
      霧は谷を出たり はいったりしてたなびく。
      それでも天の明るさは低い所にもしみこむので
      大小の枝が生き生きとよみがえって            4690
      ・・・・

ゲーテは 上の方程式ふうの議論を語らせたあと ただちに 環境自然の動きに題材をとって その観念化を防いでいる。つまり 言いたいことは 文体をわたしたちは 現実の一回きりのその場で 押し出すのがよい 日常生活での文体過程がいちばんだとおもわれる。ゲーテが数行をついやすところを 人麻呂は 一行ですませたとも ぜいたくな批判をしうる。 

(承前)
ファウスト:夜の間にひそんで眠っていたにおわしい谷底から芽をふく。  4691
      花や葉が震える真珠のしずくをしたたらしている大地から
      さまざまの色がひと皮ひと皮はがすように現われる。
      わしの身のまわりは天国のようになる。           4694

というように 一人称のではあっても ひとり語り(soliloquy)の中に述べられるとわかりやすくなるけれども 反対に 観念化していきがちである。前章で見た人麻呂の 新田部皇子に献る歌(261・262)を思いおこして欲しい。そこでは 《天国のようになる》ところの《常世の楽しさ》が 関係の世界で かつ 独立主観として うたわれているのである。この人麻呂のうたは 明示的な方程式を軸として・補助として 解明しなければならない面があるとしても けっきょく どちらも 自然本性の明晰さを あらわすことができる。としたなら ファウスト的な人間の方程式を ただ作品の中にのみ えがきだし見出すというのではない方法 これのほうが わたしたちの本源的にもとめる文体のかたちである。

  • もっとも ヨーロッパ人にとっては 見方が ちがってくるのかもしれない。また 和歌をつくれと言っているのでもない。ちょっと奇抜をてらって言うとすれば 日常会話でふつうに 《汝じしんを知れ》とか《目覚めようではないか》と言いうることばの自由化である。《おのれ!》とか《きさま!》とかいうのは むしろ自由なことば・文体に立っており 同じ内容をあらわしたものと すでに考えていた。時代と社会とに条件があるから このような表現は 《文化的ではない》と今では見なされるから 復活させつつ 自己の新しい表現を推し出していくことが 肝要となるはずである。

要するに

(承前)
ファウスト:では 太陽よ わしの背後にいてくれ!         4715
      岩の裂け目を貫いてどよめき落ちる滝を
      見つめていると わしの狂喜はいよいよつのってくる。
      流れ落ち流れ落ちて滝はおどって千の奔流に
      幾千の奔流にたぎり出し
      空中たかくしぶくあわを吹きあげる。
      だが この水のあらしから発して空にかかる
      七色のにじの変幻不変の姿はなんとみごとなことだ。
      くっきりと描かれるかと見れば そらに 流れて消え
      におわしい涼しい夕だちをそこらじゅうに降らせる。
      このにじこそ人間の努力を映す鏡だ。
      それをよく考えてみたら もっとよくわかる。
      色彩のある映像によってわれわれは人生をつかむのだ。   4727

というように 概念を用いて《鏡= 色彩のある映像》をとおして なぞにおいて 《人生をつかむ》=《自然本性の自己を自乗していく》ことに 変わりはない。それは 一冊の本を 或る主張をひとまとめにしたものとして 必要とするかも知れないし 一語でよいかもしれない。いづれにしても 自然の関係のもとにある独立主観の動態過程。要するに この点は 動かない。
ところが 独立主観を或る観念とし(つまりそこでは 概念を通ってきている) 自然の関係をただ肉の眼で見える経験領域のものとし(つまり 観念の精神が 肉的となる) そのような《鏡において》・また なぞをなくしたかのように 主観は自己を自乗する つまり 観念的な確認をなす場合がある。
言い換えると わたしも 人も 自己が独立主観であるとおのおの観念的に知っていればよいだろう また それゆえに この観念の共同のもとにおいては わたしたちは あらゆる経験領域に対して まったく自由であると このように となえる宗教が発生する。そこでは 観念が 最大の武器となっている。
この場合は じっさいのところ 独立主観なのではなく 二人あるいは三人と人が集まって 互いの観念の共同を確認しあうなら そこで初めて おのおのが独立して自由な主体だと さらに確認しあうという社会関係が 発生している。人の顔色を見なければ また見て初めて おのれは主体となるというのである。《甘え / 幻想の共同 / 鏡の国のアリス》として 万葉集巻三の242・243番の両歌を例にあげて これを論じた。

内向性をもった文体行為

ところが その242番・弓削皇子の《滝の上の三船の山に居る雲の・・・》は 243番・春日王の《王は千歳にまさむ・・・》とはやや違って どちらかといえば いわゆる内向的(内攻的)である。そして このような場合の《鏡の国のアリス》の文体では その《甘え》が とうぜん内へ向かい そこで 屈折するのである。屈折すれば悩むのであるが 悩むのも考えることだから この考える行為が 主体またその自由をあかしするだろうという見解もあるわけである。この点を もう少し詳しく議論すべきである。
これは 浅田彰への批判をおこなったとき出たナルシシスムの問題にもつながるのだが あらためて おさえておこう。
浅田彰は 自身がナルシシストなのではない。ナルシシストを そのままのかたちで 元気づけようと――つまり その意味では 互いの池のまわりを一周して来たあとの 甘えあい・慰めあいであるが―― これを おこなう。《あらためての議論》としては 文体の性にかかわっている。

固定的な性の分割からすりぬけて逃走する少年/少女
浅田彰:〈少女になった少年になった少女の話〉ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)
このゲーム(上の《逃走》のゲームと読む)は 両性具有の球体(男も女も両性具有であるところの社会関係の世界)において成就されるべきバロックの劇に似ているようで 実は決定的に違っている。それは 光が向かい合った二つの性の間を揺れ動くばかりで 融合と統一に達して静止することがないのだ。

  • 池のまわりをぐるぐる回るというのである。このあと そうではないと議論がつづく。

少年になることと少女になること。この二つの生成変化のベクトルは 互いに巻きつきながら上へ上へと伸びていく蔓草のように 際限のない運動を繰り返す。性を属領化する大地の重力から逃れて 上へ コスモスの方へと舞い上る。そのとき音楽は天使になるだろう。男性でも女性でもなく 両性を融合したものでもなく 無性でもない天使 両性の《間》にあって軽やかに振動するものとしての天使の歌に。
(同上)

はっきり言って この種の文章は わたしたちには もはや 読みづらいのであるが 問題点は これによって よく明らかになる。
ナルシシスト・《鏡の国のアリス》が 内へ向かい内攻しつつも もはや――観念としては 自由であり平等である独立主観のことを じゅうぶん知っているゆえ―― ふたたび外へも 向きなおる。このとき ここで 浅田は じっさい ありもしない存在または人間の性を 設定しようというのだ。見ているというのだ。――これは あらかじめ 想定するとすれば 観念が 理念を じぶんの中に取り込んで 活躍しようとする動きである。理念とは 概念一般のなかから 基本主観にかんする内容を取り出して言うときのことばである。つまり 理性的な概念 または 理性という概念。《精神・こころ // 記憶の行為能力→秩序・平和・民主主義 / 知解→知性・知識・自由・平等 / 意志→意志力・愛・慈悲》などなど。
《天使》は ありもするかも知れない。人間の自然本性が なぞをもって 《天使でもなく獣でもない中間的な存在だ》と言われるようなとき その意味での天使は想定されている。。そうだとしても 人間が天使ではないのだから この上のような ナルシシスムからの一つの帰還 これは いったい どう捉えるべきだろうか。
《理念》の中に 《天使》をとらえようというのである。《観念》を理性的なものにしようということであるらしい。と見られる。言ってみれば 内向した鏡の国の中で ファウストの《最高の存在》をとらえ これを念観し この観念によって武装し わたしは天使の音楽を聞いたと言いはやして 帰還するかたちをとる一つの文体。
《わたしは天国のようになる》ということばを 取ってきて 理念の音楽をかなでようと。《雪にうぐつく朝 楽しも / いやいや 常世まで》を かれは 確認した これを 理性的な観念(?)として もういちど 奏でようと。ここでは 新たな問題が 発生している。言いかえると かたちとしては もはや新しい問題もないかのように 旧い問題が終息しようとしている。
《固定的な性の分割》《性を属領化する大地の重力(これは 経験領域の男とか女とかという観念デーモンのちからである)》 これから《逃がれる》というのであるから ありもする基本主観のことを 言おうとしているというべきである。だが なぜ これを 《人間》《わたし・自己》と 言ってはいけないのか。そして わたしたちは 基本主観には性が存在しない かつこれは 性の存在する経験領域に先行しつつ それと同時一体であり この一体なるものが 自然本性たるわたしだと考えた。
もし ここで わたしたちの言い分のほうが 《意味の構造》に捕らわれた見方に映るのだとすれば こんどは このような《天使の歌である音楽》から離れて 浅田の言う《ヘルメスの音楽》を聞かなければいけない。

性の神ヘルメス。ヘルメスはファルスである。ただし そのファルスとは 意味性(シニフィアンス)の構造を吊り支える特権的なシニフィアンなどではなく〔――そういう意味での《観念》ではなく――〕 むしろ 独立の〔――《独立》の――〕いきもののように 男と女の《間》を往き来し 閉じたようで開いたヒーメンの秘密と戯れる やんちゃなチビなのではなかったか。そういえば ヘルメスはつねに幼児であり ヘルマフロディトスでもあるのだ。
浅田彰:〈リトゥルネッロ〉Ⅵ ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)

この難解な文章は わたしの理解では まず この《神ヘルメス》は とうぜん 《人間》ではない。いわゆる人間 人間としての存在そのものと同じではない。《交通》つまり 生活共同の関係過程において だから ある種のデーモンとして 人間いな男女の《間》に はたらくと言おうとしているのだと。それは はなはだ素朴な意味で善良な神・善良なデーモンとしてのヘルメスなのだと。
この限りで――この解釈の限りで―― ここでは 内攻するナルシシストがいるのでもなければ 二人や三人が寄り集まり甘えあって初めて 独立する人びとがいるのでもない。しかも それらの人びとに対して 《守り神》を立てたのである。これは 新しい宗教を創めたということで済むが――つまり 信教は自由であるから―― そうではなく 気になるのは この《ヘルメスは ヘルマフロディトスでもあるのだ》という部分である。(ヘルメスと美の女神アフロディーテとの合成で 性は 男性形となっている。)
先の議論――つまり 《天使の歌》を聞く 性から自由な 人間の――と考え合わせると その《天使》は《男性でも女性でもなく 両性の〈間〉にあって軽やかに振動するものとしての歌》をもつと言う。ここの議論では 神ヘルメスはまず同じく《独立の生きもののように男と女の〈間〉を往き来し》 かつ 他方で 《ヘルマフロディトスでもある》と言っている。ヘルメスは 《両性の融合したもの》であると言ったのだ。ヘルメスは 男でかつ女アフロディテと融合した存在なのだと。つまり 先の議論でも 《天使は無性でもない》と。
いな このいわゆる両性具有者《ヘルマフロディトス》は そうではなく ただ《両性の間にある神》だと言っていると 解釈しようと思えば出来る。そういった《守り神》なのだと。
わたしは これ以上 浅田の議論におつきあいすることはできない。能力によってか あるいは 能力のないゆえにかは知らない。能力のないゆえにだと思う。このようなヘルメスを 理解できないからだ。出雲の縁結びの神とでも 言うのであろうか。

和解?!わたしたちは 天使をも 自分たちに 仕えさせることが出来る。

縁結びの神とか・つまり天使――ただし そこには 性は存在しない――とかは 自然本性のなぞのことを 示して語りうると思われる。自然本性の人間の意志が すべての行為を制御し 思うとおりに生きることができるのではなかったから。《かみ》といった表現の問題で争わないとすれば そうである。このことを 語ろうとしたのであろうか。ことばの自由化にあたって さしづめ 天使のことばを聞けと。
もしそうだとしたら この天使をも――あるいは 浅田の言う《神ヘルメス》を―― わたしたちは 自分たちに仕えさせることができると考えるわたしたちの主張と おなじである。だとしたら わたしたちは 浅田彰と 話し合える。
議論を打ち切ったところで 或る奇妙な和解が成り立った。
天使をもわたしたちは 自分たちに仕えさせることができるというのは なぞをなくしてではなく 事後的に 天使がわたしたちに仕えてくれたと分かって――もちろんはなはだ主観的なのであるが―― なぞが その意味で解けたかたちである。しかも 天使などということじたい じつは どこまでも なぞである。いや わたしたちは もっと積極的になって言うことができる。つまり 事前にも このなぞを しかしながら やはり なぞにおいて 知ってのように 意志し文体行為していくことができるのだと。すなわち ほかでもなく 無力の有効の自由のことである。
わたしたちの意志が すべてを成就した 成就できるというのではない。依然として なぞがある。つまり 成就しうるという有効と自由とが 経験領域において・あるいは 基本主観においても 無力であるということだ。
わたしたちも ここで 堂々めぐりをしはじめた。けれども 重要なことは 天使〔一般〕が なぞを示し語りうるとは言うものの 天使の使いの内容が なぞなのではないということだ。天使の語を 天の使いまたはなぞの自然とのわたしたちの対話といった意味で 用いているのだが なぜなら 目下の或る特定の問題に対して 天使はそれについての或る(または いくつかの)歌をうたうであろう。わたしたちは これを聞くことができる。それは だから ありもしない歌ではない。こういうふうに天使の語を 文体の表現に用いるということは むしろそうせずに わたしたち人間の思考が 閉じられていず開かれている――また 過程的である――ということを言うために 用いる。だから こうである。わたしたちは 成就しうることがらを欲するし その意志を発揮する。経験領域では 事は 成就したのではない。少なくとも 意志が事を成就させたのではなく 《わたしが成就した》という事態のうちに或る事がし合わせられたのである。しかも わたしは 無力である。しかも ものごとの成就へと 意志で 走ることができる。もしわたしが 有力であるとするなら それは 経験領域の必然的な過程〔の有力〕を利用しえたということである。さらにこのとき もし わたしの相手も 同じようにそのように有力であったとしたなら しかし かれを(かのじょを)わたしが 有力にしたのではない。わたしは また かれらも じつは 無力である。ここで わたしたちは 天使の歌を聞く と表現したりもするし あるいは その事に先んじて前もって 天使をわたしたちに仕えさせた とも表現して考える。
つまり もう一度 こうである。天使の具体的な歌じたいは 人間の思惟とほとんど同じであって これに対して わたしたちは 有力である。思惟の能力をもつ。思惟の内容・わたしたちの意志 これを相手につたえるのは 同じくわたしたちが意志でおこなうのであるが 伝わるかどうかに対しては わたしたちは無力である。しかも わたしたちは この天使を自分たちに仕えさせることができる。とわたしは 考える。
そもそも 《ファウスト》は このことを 語ったのではなかったのか。このゆえに 人麻呂は 経験的な観念のデーモンとの関係において その場その場で――まるで変節漢のごとく――いろんなかたちで 文体したのではなかったのか。無力だが 有効で自由であったとしたら わたしたちは 天使をも わたしたちに仕えさせることができる。《天使の歌を聞く》ということの意味は わたしたちにとって このようである。
そういうような主張の内容なら わたしたちは 浅田の《ヘルメスの音楽》と和解できる。かれと あいたずさえて 話しあっていくことができる。
ゲーテも 人麻呂も ヴァレリーも スミスもマルクスも あるいは ウェーバーも ドストエフスキーも けれどもプーシキンはわたしたちの友がらであり さらに 魯迅も ソ連邦《経済学教科書》執筆者も ド・ボーヴォワールもJ.S.ミルも みんな ここで 一堂に会するであろう。
わたしたちが このように恥づかしげもなく言うのは 浅田の議論のおかげである。だが 守り神ヘルメスのおかげであるかどうか。
次のように言うと 矛盾したことを語ると受け取られかねないが じっさい 守護神とか縁結びの神のおかげでは ないのである。天使のおかげなのでもない。経験的に言わば――また 経験的に言うべきだが―― 浅田が 経験的に 自由に 文体を表わしたそのことのおかげなのである。そして ここには なぞがあると わたしたちは 言いたいのである。だから 依然として 無力の 自由で有効な 基本主観(いまは 特に意志行為)なのであって 矛盾はしていないのだが このことを 特に 浅田氏には 言いたいわけなのである。
わたしたちの堂々めぐりは こういうふうに 池のまわりをめぐる。自己到来の自乗の過程だと言いたいのであるが 池のまわりを一周したあと 鏡の国での反射を 天使の領域へ上げていったあと ではなく いま堂々めぐりする此処にいて 此処で 文体を発する。それは 《わたし》の行為だということ。どうして 逃走の線を走らせなければならないのか。
どうして その逃走線じょうに ヘルメスの音楽がかなでられるのを聞かなければならないのか。なぜ 天使なのか。わたしたちは なぜ 天使に仕えなければならないのか。なぜ 縁結びの神に詣でなければならないのか。天子の声を聞いたゆえに 文体するのでもあって 天使の声を聞くために ことばを発するのではない。縁結びの神というものを 概念としては 知っているゆえに そのことばをも 用いる。なぜ それが 一つの絵の世界あるいは詣でるべき神社でなければならないのか。神社は 人びとをして その守り神に仕えさせるためにあるのではなく 守り神を人びとに仕えさせるために 人びとが しるしとして こしらえたものである。天使の声をすでに聞いている人にとってはどうでもよい(経験的な)ものなのである。
ある奇妙な和解。
(つづく→2005-01-31 - caguirofie050131)