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哲学いろいろ

文体―第十八章 生活の共同体

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-01-26 - caguirofie050126よりのつづきです。)

第十八章 生活の共同体ということ

ワルプルギスの夜――デーモンたちの踊り始め!?

こう言うと 世も末だという――さきの世紀末は それほどでは もうなくなったようだが――議論が出てくる。それは 有力な観念の政治のほうから 出てくるのである。
ワルプルギスの夜》――。デーモンたちの踊り!?――

将軍:だれが国民を信頼する気になれよう!               4076
   彼らのためにあれほど尽くしてやったのに。
   民衆の間じゃ 女の間と同じことで
   いつだって若い者がもてるんだからな。
大臣:今の世の中は正義からあまり離れすぎている。
   わしは善良な昔の人をほめたたえる。
   むろん わしらが何につけても権威のあったころが
   ほんとの黄金時代だったのだ。
成り上がり者:われわれも実際まぬけじゃないから
   してはならないことをずいぶんやりました。
   だが 今じゃ何もかもひっくり返ってしまいました。
   われわれがしっかりつかんでおこうという時になって。
著作家:今どき 穏健で賢明な内容の書物を
   だれがいったい読みたがるでしょう!
   若い連中と言えば
   こんなになまいきだったことはありませんな。

メフィスト:(急に老いこんだように見える)
   私はこれを最後に魔女の山に登ったんですが
   この連中は最後の審判を受ける時期が熟しているようですね。
   私のたるから酒が濁って出るのを見ると
   世も末ですなあ。
古道具屋の魔女:だんなさんがた そんなにすどおりなさらないで!
   よい折りをのがさぬように!
   よく気をつけて私の品物を見てください。
   ほんとにいろんなものがありますよ。
   でも 私の店には
   この世に類のあるようなものはありません。
   また 人さまや世間にしたたか害を
   及ぼさなかったようなものはありません。
   血を流したことのない短刀もなければ
   いたって丈夫なからだに 命とりの熱い毒を
   注ぎこまなかったような杯もありません。
   愛らしい女をたらしこまなかったような飾りもなく
   ちぎりを破るとか 相手をうしろから突き刺すとか
   しなかったような剣もありません。
メフィスト:おばさん!あんたは時勢をよくわきまえんよ!
   やったことは済んだこと!済んだことはやったことだ!
   新奇なものをあきなうように乗りかえなさい!
   新奇なものでなくちゃ おれたちを引きつけないよ。
ファウスト:自分を忘れちまうようにならねばいいが!
   これは年の市とでもいうのかな。
メフィスト:このうず巻きがみな上に登ろうとしてるんです。
   あなたは押してるつもりで 押されてるんです。           4117
(〈ワルプルギスの夜〉)

ファウスト〈第1部〉 (ワイド版岩波文庫)

ファウスト〈第1部〉 (ワイド版岩波文庫)

デーモンが踊り出す百鬼夜行のときは じっさい 理性的であり 理性的に見えるものだと思います。そういったかたちで はじまるものではないでしょうか。なぜって デーモンがぐらついて 狂気の観念が いやされかかるところから 始まるのだから。
ゲーテのおかげで わたしたちは もう 《自分を忘れちまうようにならなければいいが!》とは言わずにすむというものです。《押してるつもりが 押されてるん》だとしても。
《押してるつもりで 押されてる》ばあいを 説明してみます。
デーモンは 正体不明です。いや 精確には この鬼たちの 首領メフィストフェレスは正体不明です。デーモンなる鬼たちは 首領がひっきりなしに変身する姿です。ころころと変わります。ころころと変わるゆえに 或るひとつのことの鬼に なれるのです。正体不明のなかのそれぞれ或るひとつの正体――人間としては 文体――。
わたしたちは じっさい その文体――ことばによる表現――を得て これをとらえて 或る人のことを 判断します。仕種や振る舞いでもよいのですが いづれは かかわりを持つというときには ことばの表現で 人を知ります。
文体は 過程的で これを高く値踏みするものではありませんが 過程的だからこそ その一つひとつの具体的な文体の内容 これを それとして 判断の材料とします。このあと さらに――かかわりが始まると その展開のなかで―― じっさいに応答するための行動に移していくことになります。もちろん 否定するという一判断にもとづく無行動の応答をふくめてのことですが。
だとしたら たしかに この行動で わたしたちは 文体どうしの関係とその展開のなかで 《押してゆく》のです。たとえば うそだと分かっていても 文体が文体として表わされたならば なんらかのかたちで このひとつの文体の内容に 次の行動は もとづかなければならない。
もちろん わたしたちは 欺かれることを欲していないから うそだと分かっている内容の文体に わざと ついていったりも ほんとうだと信じるふりをしたりすることも ありません。そんな場合の 次の行動というのは むしろ ただちに 怒っているというものであるかもしれません。この点は いづれにしても 用意周到なわけです。(もちろん ケース・バイ・ケースだと思いますが。)
ところが 要するに 観念のデーモンは ついさっきの文体の内容を つぎには変えてくるといったことで わたしたちの押した文体展開なる行動を 押し返すというか 押しずらす こういったことがあるのですが これは まだ わたしたちが《押されてる》ことにはならない。わたしたちのほうが むしろ押していて デーモンは 笑ってごまかすのが 関の山でしょう。笑いで隠さないとしたら とにかく チャンネルを変えてくるのです。チャンネルが変えられないときには じっと黙って〔時を待って〕いるか それとも 広く 泣くといった意味合いの行動で対処してきます。もちろん このような笑い・泣き・沈黙・チャンネル変換も 踊りはじめ――または その兆候――なのですが。ところが 要するに・・・
わたしたちが 《押されてる》というのは 《ついさっきの文体の内容》から変身するにあたって さらにそれ以前の文体の内容にもどっていくところに 起こります。また そのことをも 観念のデーモンが もともと前々から 用意していたという場合が それです。つまり この場合は デーモンが あらかじめ わたしたちをして かれらを押さしめた そのようにして わたしたちは 《押されてる》。
《押してるつもりで 押されてる》。これは けっこう 用心深くとも 起こります。そして そうならないために わざわざ さらに用心深くならなければならないものでも ないでしょう。つまりは――つまるところは―― これが デーモンの踊りはじめ なのではないでしょうか。
デーモンは こうして まず理性的に もしくは 理性的に見えるように じぶんを 作り変えるのです。この理性が じつは観念で 《理性》という観念が 相手に・つまりわたしたちに つたわるならば 一度ならず すでに再び 自分たちのうそつきであることが ばれていたとしても 信用を回復できると踏んでいるのです。いな じっさい 死んでいるのです。もちろん わたしたちも 押してるつもりが 押されてるとき 日々死んでいるのです。
むろん わたしたちが 日々死んでいるということは 日々生きているということにほかなりません。デーモンは ずっと死んでいる。ときどき 生きてみようかなと いな 生きている振りをし 生きていると思わせたいと 思うときがあるのです。つまり わたしたちを見たときです。そのとき わたしたちは 何らかの文体を かれらの中に 捉えるから これにもとづき 押す。押すのだが まえもって 押されても いる。
これは だが これだけのことです。わたしたちが 文体を歴史を 夜から始めるというひとつの原則の内容であるにすぎないことです。わたしたちは 夜から始めるが 夜へは 連れて行かれない。その証拠に 死ぬのです。死なしめられる。死んだとわかると デーモンは 自分が勝ったと思い もはや わたしたちを押すことはないでしょう。無力の自由主観が 有効だったわけです。
わたしたちは 《押してるつもりが 押されていた》と気づいたとき あざむかれた時 弱いとき もっとも強いのです。わたしたちの文体過程。百鬼夜行の必然を おそれるなかれ。デーモン〔じたい〕を それなりに おそれているのだから。
わたしたちの生活!
わたしたちは 一日が 昼と夜とから成っていると思うなかれ。夜となってのように夜から始めるけれども つねに つぎの朝をむかえる。夜のデーモンは 放射線をはなつ。観念の昼を なんとか作りだそうとする。死んでいるから。これも しかし 一つの文体として 受けとめてやらなければいけない。観念の文体をおそれよ。しかして 観念の文体が押してくるその必然を おそれるなかれ。
デーモンよ さようなら。しかも デーモンの夜行よ こんにちは。あるいは その逆。

わたしたちの生活 ファウストの人生 マルガレーテの人生

わたしたちの生活!
夜明けならば 目覚めよう。朝をむかえたならば 起きよう。と言っていこう。ワルプルギスの夜から 墓場のらんちき騒ぎから デーモンにとりつかれた人たちよ 出て来なさいと。ことばの分かる人なら 手を差し伸べてくるだろう。わからない人は 待ってくれと言ったわけである。モラトリアムをくれと言ったわけである。
放射線がわたしたちを押すのである。わたしたちは わざわざ押さないのであるが この放射線をも受け取り 反応し 行動する。このことを《押す》と表現すると たしかに ここで 押してるつもりが 押されてる恰好にも なっている。放射線は 観念のデーモンである。観念のデーモンが 死んでいる。わたしたちに かかわりがない。人は わたしたちと同じ自然本性の人である。自己を愛するのと同じように 人じたいは 愛そう。わたしたちの負債が もはや人を愛することのほかに 何もないと言われるときまで。
デーモンに遭遇するのは この債務を返すいい機会である。デーモンが踊り出すのは 返し終わるときである。
精神の政治学過程。そして わたしたちの生活!
きみよ おそれることなかれ。わたしたちは 無力であるから。きみよ おそれたまえ。わたしたちは 生きているから。きみよ おそれることなかれ。無効の実効たる有力な観念の政治 これが つまり死が 死なないようになることを おそれよ。わたしたちは 日々死んでいる。日々死んでいるというのなら 日々生きている。

ファウスト:(大きな声で)グレートヘン!グレートヘン!          4460
マルガレーテ:(注意して)あのかたの声だったわ!
     (彼女は飛び上がる。〔デーモンの〕鎖がはずれて落ちる)
     どこにいらっしゃるのかしら?その人の呼ぶ声が聞こえたのに。
     わたしは自由になったんだわ!・・・・
     ・・・・
     グレートヘンとお呼びになったわ!敷居に立っていらしった。
     地獄のわめき声や騒々しい音のただ中に
     いきりたつ悪魔のあざけりの間に
     あのかたのやさしいいとしい声が聞き分けられたわ。
ファウスト:わたしだよ!
マルガレーテ:       あなたなのね!
     ああ もう一度おっしゃって!
     (彼をつかまえて)
     あのかただわ!あのかただわ!つもる苦しみはどこへ行ったのだろう!
     あなたなのね!わたしを救いにいらしったのね。
     わたしは救われたわ!――
     ・・・
ファウスト:おいで!わたしについて!
     ・・・
マルガレーテ:(彼のほうを向いて)ほんとにあなたなの?きっとあなたなの?
ファウスト:わたしだよ!いっしょにおいで!
マルガレーテ:あなたは鎖をほどいて
     またわたしをおひざに抱き寄せてくださるのね。
     あなたはどうしてわたしが気味わるくないの?
     ねえ あなた だれを救い出すのかごぞんじなの?
ファウスト:おいで おいで!もう夜が明ける。
マルガレーテ:わたしはおかあさんを殺しました。
     子どもを水に沈めました。
     あの子はあなたとわたしに授かったのじゃなくて?
     あなたにも授かったのよ。――あなたなのね!ほんとうかしら。
     ・・・
ファウスト:過ぎたことは過ぎたことにしよう    
     おまえにそう言われると わたしは死にそうだ。
マルガレーテ:いいえ あなたは生き残ってくださらなくっちゃ!
     あなたにお墓のことを申しあげておくわ。
     ・・・
ファウスト:わたしだということがわかったら さあおいで!
マルガレーテ:あちらへ?
ファウスト:外へ出るのだ。
マルガレーテ:         お墓が外にあって
     死が待ち受けているのでしたら 来てください!
     わたしはここから永久の憩いの床に行きます。
     ・・・ああ ハインリヒさん わたしもいっしょに行けたら!
ファウスト:来られるのだよ!その気になりさえすればいいのだ!戸はあいている。
マルガレーテ:わたしは行けません。わたしにはなんの希望もないんですもの。
     逃げたってなんになりましょう。待ち伏せてるんですもの。
     こじきをしなくちゃならないなんて みじめだわ。
     なおその上 良心に責められるのでは!
     知らない国をさまようのは とてもみじめですし
     どうせつかまってしまうんですから!
     ・・・
ファウスト:夜が白む!いとしい子 いとしい子
     ・・・
ファウスト:ああ わたしは生まれて来なければよかったのに!       4596
ファウスト〈第1部〉 (ワイド版岩波文庫) 〈牢屋〉)

このあと 《メフィストフェレスが外に現われ》

出かけるんです!でないと あななたがたは おしまいです。        4597

ファウストに言いきかせて マルガレーテを置いて――マルガレーテは 

ハインリヒさん わたし あなたがこわいの。               4610

と述べて―― マルガレーテの牢屋から 立ち去っていく。
マルガレーテのばあい ゲーテによれば その観念のデーモンによる死が このあと 死ぬことになる。かのじょの《自然》が 復活するという観想(テオーリア=理論)です。
ということは――この文体の性関係の自治の問題は とうぜん 広く政治関係たる共同自治の問題と 根はおなじなのですから―― わたしたちは 《押してるつもりで 押されてる》とき これに気づくとき 死ぬ しかも 夜へは連れていかれずに つぎの朝をむかえ 日々生きている。すなわち 以前のように・いつものように 文体を押していく。《押してるつもりが押されてる》死を この意味で おそれないというか もともと かかわらせていない。言いかえると むしろわたしたちは いたるところで このように欺かれるが 欺かれることを欲していないという自然本性〔の意志〕は無力ながら あざむかれ得ない。この生活をすすめていく。
自然本性が 観念へ傾き 観念のデーモンとなって 停滞する つまり 死ぬ この無効の文体が 実効性をもって 観念の放射線で 有力な政治の王国をきづく このとき かれらは 或るファウストに出会うと そのデーモンが 踊り始める そこで 観念の自然本性たる〔そのものが死であるという〕死が 死ぬ人と 死なないようになる人とが いることになる。精神の政治学過程において 肉の眼でではなくこころの眼で このことを わたしたちは 直視しなければならない。
デーモンの踊りも再発狂も おそれないが デーモンじたいは それとして おそれる。おそれるかぎりで その新しい展開を 直視してみなければいけない。デーモンによる死が 死ぬ人と 死なないようになる人とが いることを。
わたしたちの生活!このように――だから むしろ 何もしないで―― すすめていくわたしたちの生活。概念を用いるとき 観念へ停滞していかない・停滞することを知らない それゆえデーモンの停滞をおそれる ところの自由。無力の しかも 有効な 自由。
マルガレーテの観念の死が 死ぬことは だから デーモンがほろびることは その人にとって 有益である。自己の《自然》の一たんの死が 死なないようになる人 かれらは その観念の死が 死んだというように 自己の姿を見せかける。つまり 生きていると見せかける。自己にとって有益な精神の政治学〔関係〕の過程が そのように 生起したと見せかける。これが 観念の政治学の有力な 迫害なのです。《わたしの死は 死んだ とにかく わたしは死んだ》と 正体不明の人メフィストフェレスのちからを借りて 或るひとつの見せかけの正体をあらわす。これで 人びとを 迫害するのです。いわゆる政治家の仮病とか 抽象的に一般化すれば あのアマテラスの天の岩屋戸への雲隠れ。これが 迫害のひとつの正体だと考えるべきでしょう。
わたしたちは 迫害されたら どうなるか。観念の政治家が再発狂したら つまり 天の岩屋戸への雲隠れといった奥の手を使ってきたら どうなるか。それは 観念の政治家にたずねなければいけない。その意味で――その意味で―-もともと《自然》が《なぞの自然》として 人びとに普遍的であり その限りで すべての人びとは 互いに デーモンをとおしてでも かかわりあっているのだから(人・基本主観は たがいに かかわりあっているのだから)――その意味では―― わたしたちの 《自然本性が 環境自然および社会環境において 存在する》ということは 〔その意味では〕或る運命共同体なのです。ファウストとマルガレーテとの 性関係における文体の自由な展開過程 たる生活共同体。     
(つづく→2005-01-28 - caguirofie050128)