文体―第二十二章 勝利ということ
全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
(2005-01-30 - caguirofie050130よりのつづきです。)
第二十二章 勝利ということ
前章では 政治を論じたつもりである。政治したつもりである。この政治ということばで 文体の性の問題――とくには いわゆる女性論――を ふくめて いうことにしよう。わたしたちは 精神の政治学にかんしては 節制する必要がないし 節制してはならないと思うのである。
印章(または書板)と文字とを超えて なぞがあるであろう。
なぞとは ふたたび言えば 不明瞭な寓喩である。たとえ寓喩であっても 寓喩として明瞭な部分は じっさい ことばである。つまり 文体行為としては あたかも わたしたちが 一個の印章(はんこ)であって そうして これを紙なら紙に押す。押されて出来た紙の上の文字は それとして ことばであり 明瞭である。印章本体は 通常 その文字ないし紙から 離れているし 離れながらも ここにいるのだけれど 離れている(本体とその図案の現われた形とは 区別されて)という点では ある種のなぞがある。この場合は まだ 経験領域のことであるゆえに この区別ないし離間は その本体=主体が 肉眼に見えているから あまりなぞではないとも言える。
そうすると 今度は わたしの自然本性 その殊に 性の存在しない基本主観について見てみる。この基本主観(つまり《わたし》)が 或る一個の書板であって つまり こころ(精神)が書板であって そこで 記憶しており 知解しており かつ 意志しようとすることば=概念が この書板に書かれていると考えてみた場合に どうであろう。この概念=ことばは なるほど わたしの上に(または 内に)書かれているのだけれど それは それのみで じっさいのところ 《わたし》ではない。少なくとも 書板と書かれたことばとで 《わたし》である。
だれが書いたかは 経験的に この場合 わからない。経験的にだから 《わたし》が書いたということは まちがいない。だが そう言うときにも これは とにかく広く自然の存在として 狭義の自然と社会という環境の中にいるわたしに起こったと考えるべきであって ただし このように起こったことば=概念を 受け取り 何らかのかたちで わたしの意志をもって これを表現するというのは その主体は わたしだということが わかっているのみである。
ここには 寓喩として明瞭な部分(印章が押されてついた文字とか 心の書板に書かれたことばとか)があり かつ この主体を問題にするとき――問題にしなければならないから―― 不明瞭な部分がある。つまり わたしたちは なぞをもった大きい自然のなかで なぞを持った自然本性として 存在している。ここに 文体が展開されるし ことばの自由化の問題がある。
すなわち 精神の政治学がある。つまり それとしては(内的な行為としては) 経験領域の文体行為に 先行して 起こっている。このとき この精神の政治学を わたしたちは 抑制する必要は ないし 抑制してはならないのである。――不明瞭な部分(未知の部分)は 当面 放っておくというというのも 一つの行き方だが それに ふたをするということではあるまいから。
かくて 精神は 《なぞの自然(=おおきな自然)の主体》――つまり 概念としては 《真理》のことだが――を想起しうるのである。それは 精神が人類の最初の人においてか この肉体の以前の或るところでか(プラトン) あるいは この肉体に結合されるために最初に造られた(誕生した)ときに このなぞの自然の主体を知っていたことを想起するからではない。精神は これらのことはみな全く想起しない。これらのことは みな忘却によって抹消されている。
〔14・15(21)〕
- 作者: アウグスティヌス,中澤宣夫
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 1975/01
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 5回
- この商品を含むブログ (66件) を見る
そしてなお わたしたちが 精神の政治学を抑制しないで すすむとき なぞにおいて この《なぞの〈おおきな自然〉の主体》(これは 神のことを言っている)を わたしたちは 想起せしめられるのであると思う。
精神は 永遠なもの=なぞの・おおきな自然の主体を志向すればするだけ なぞをもった自然本性(つまり 自己到来すべきその自己)によって形成されるのであるから 自己を節制し 抑制するように引きとめられるべきではない。〔したがって 男は頭に蔽い――観念の蔽い――を被ってはならないのである。〕
(アウグスティヌス三位一体論 12・7(10)
男は男として 女は女としてだが 女性も同じくこのように 文体していくものだと思われる。女も男も この自然本性として 同じ一個の存在であるが いな そのような存在であり かつ 性の区別は これも 存在するというように思われる。性の存在しない基本主観は 性の存在する後行経験領域をおよそつねに たずさえていて 全体として 人は 男か女かであると言えるものと思われる。自己到来すべき知恵 自己到来して文体行為に発揮すべき知恵は どちらかと言えば 女性的なものだと言ってよく かつ じっさいの女性は 経験的なものの管理に よく従事するのだというふうに 考えられる。そして男が 特に男は あたまに 観念のヴェールをかぶってはならない すなわち 精神の政治学をすすめていくべきなのだというふうに。
研究とは(――つまり 文体の展開とは――) 客観的に存在する真理をあきらかにすることだと 考えるならば 研究者(――つまり生活者――)の個性なんか ない方がいいようにおもわれるだろう。真理のヴェールを何枚かはいでいけばいいならば 研究者の自立(生活者の自己到来)とは ヴェールをはぐための技術 たとえばメスやはさみのつかいかたを 身につけることだということになるし ヴェールをはぐ作業を共同でやることも ふつうの分業=協業とおなじように 研究能率(――生活の《改善》〔?〕《文化意義の蓄積》〔?〕――)をあげる近道だということになるだろう。ところが 問題はそれほど簡単ではないのだ。
なぜかというと 真理が一挙に全貌をあらわして そのあとはだれでもまちがいなくそれを認識できる というようなことはありえず 真理はつねに一定の時間と空間の枠のなかで 自己を提示するにすぎないから それはかならず あるとき あるところで ある人(または人びと)にとっての歴史的部分的な真理であり したがって 認識する人間をはなれたものではありえないからである。だれがいつどこで どうして そういう認識に到達したか 逆にいえば その認識は どういう時間的空間的人間的方法的な条件のもとで(それらの条件に制約されて とみることもできる)成立したのかを 認識の内容とともに つねに考慮しなければ 真理への道(――真理という場合には わたしたちたる自然本性に なぞがあるととらえている――)をみいだすことはできない。
(〈研究者の自立ということ〉初出1979〔かっこ内は引用者〕)
- 作者: 水田洋
- 出版社/メーカー: 御茶の水書房
- 発売日: 1985/02
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (1件) を見る
これは 立ち場を――直接的な立ち場を だから テーマをも―― 学問とか研究に置いて 発言されているものだが そして これまでのわたしたちの議論とは 字づらのうえで 逆になっているかとも思われるが 精神の政治学のことを 説き明かそうとした文章である。ちがいは わたしたちが どちらかと言えば 経験領域から なぞの領域へ拡げるかたちであるのに対して この水田氏の行き方は なぞの領域をとらえているゆえに 経験領域〔の認識〕へ 言って見れば 狭めていく・つまり経験科学として 語っているというところにある。つづけて
日常生活において 《あいつがいうのだから(――その観念を共同化するかたちで――) ほんとうだろう》とか 《あいつがいうのだから(――同じく――) あてにならない》とかいうとき そこにはあきらかに 主観的偏差への考慮がある。この事情は 科学的認識のばあいも 基本的にはかわらない。もちろん 話し手への信・不信から 内容を判断することは 非科学的であり(――つまり 話し手にまつわる既成の評価の・そのまた観念 への信・不信から だから 池のまわりを巡ってもおらず 池の中へ閉じこもっていく――) とくに話し手への信頼にもとづいて内容の真理性をうたがわないばあいには〔――このことが 上の場合に見られる 池の中への停滞的な内向閉鎖の みなもとなのだから――〕 逆のばあいよりも 害がおおきい。科学的認識においては 話し手と内容の双方について再検討がおこなわれたうえで(――つまり このことを わたしたちは 内的な精神の政治学においてなす というふうな語り方をする――) 受容の可否が決定されるのだが 内容の真理性が承認されるときでも 話し手の指紋はそこにのこるのである。
(同上 承前)
つまり わたしたちは あたかも わたしたちが印鑑のごとくであるとき 押されたほうのしるしは その本体を離れている 基本的に離れている そのことのゆえに わたしたちの自然本性には なぞがある すなわち 文体は過程的だと言っていたのだが これを 逆のほうから 語った文章である。《指紋は残る》ゆえに 文体は過程的だ(或る一定の時間的・空間的な条件と関係している)と論じている。
このことは この章のはじめから論じてきたことに通じている。
無力の 有効で 自由なる勝利
ひとつ。わたしたちの側から言えば なぞがあり それゆえに 内的な精神の政治学はこれを 抑制するように引きとめられるべきではないと考え この水田の側から行けば むしろ なぞの領域から 経験科学〔としての研究〕へ入ってきており そこでは 一方で 同じく精神の政治学(つまり 《認識する人間をはなれたものではありえない》こと)をおこなうそのことのゆえに これを抑制するよう引き止められなかったことのゆえに 他方で むしろ 指紋は残り そういう指紋の残るものとして 研究〔の成果〕ないし広く文体を展開していくと言っている。どちらも 《文体が 過程的な行為である》と言っており わたしたちは 指紋を残して書かれた(言い出された)ことばと およびその書板とを含めた自然本性たるわたしたち自身のほうに 目を向け 水田は 書かれた文字・具体的な文体のほうに やはりここでは 目をやっている。この指紋の残された具体的な文体をはなれて 日常生活ないし研究行為から離れて どこか架空の世界に 特別に・また別様に 真理を探究するのではない つまり 言いかえると なぞは この具体的な経験行為をとおしてこそ 見られるべきだと言っている。書板本体をも含めて 真理のなぞのことを 語ろうとしている。
二つに。これを一歩推し進めれば 文体の性の問題にも 入るであろう。経験行為に 男としてか女としてかの そのかたちの 指紋も残るであろうという意味で。なぜなら この男の指紋 あるいは女の指紋という区別は その経験領域をとおしてこそ なぞの自然本性つまり男女の平等をも 見ていくべきなのであって この経験具体的なことばには その区別があると見たほうが つまりこの区別をも離れてではないと見たほうが その主体は男であれ 女であれ 《自立》するはずだからである。発表された研究成果の文体じたいに すでに 《自立》があり平等であり なぞの無力の自由があり そこで完成されたとは とらないほうがよいと思われるのである。もしくは なぞにおいて すでに完成――過程的に完成――されている。ハンコを押したから そのしるしの証拠が 絶対だということには――法律などの文化事態としてそう約束されているとしても―― ならない。インロウが目に入らぬか などという文体は 一つに まったく古いものであり もう一つに それがありえても 弱い文体である。甘えの逆のかたちのような。つまり やはり 甘えなのだが。
したがって これらのかぎりで 水田は わたしたちが なぞを不明瞭な寓喩というとき その《寓喩》〔として これをとおして真理を視まつる〕の領域で つまり具体的な文体そのものとして そこに 研究 研究者の自立 また ひろく生活者の自己到来の実践が つまりそれらの場が あると見ているはずである。わたしたちはと言えば これまで 《不明瞭な》のほうに 目を向けていた。
- もっとも 人麻呂の文体としては そこで 科学的な客観認識の点は措いてだが すでに 指紋の残る経験具体的なむしろ実践というひとつの行き方を 論じてもいた。
これは ほかでもなく 自然本性のなす文体過程で それが 無力の有効として進展していく 言いかえると 無力の自由によるわたしたちの勝利 つまりさらに言いかえると 勝利は正当にも延期(留保)されているといったことを 前章で語ったと思われ これを省みなければならないからでる。これを なぜ 有効で 自由で 勝利だと言うのかを。
勝負にかつというのは 相手をつぶすことではなく 主導権をにぎることである。
(水田洋:〈なんのための小論文か〉初出1980 時流と風土)
と水田が言うのは 《寓喩》の領域でのまさに《勝負》のことである。かつ そのばあい 《不明瞭な》の部分を 直接に言及しない立ち場ではあるが 排除しているわけではないと思うから わたしたちの言う《勝利》の問題にかんけいしている。そして 前章の《ある奇妙な和解》という一段階も この《無力なままの 自由で有効な 勝利》ということの過程に属すると考える。さらにそして 《勝負》は そのことじたい・つまり経験領域じたいはこれを おそれるが 具体的にどう《主導権をにぎる》かは どうでもよい・かかわりあいがないと考えているのである。
このなかで 《無力なままの勝利(つまり 勝利の保留)》は しかも どういうふうに じっさいのところ 過程していくのか。これにこたえることが 残されている。
原典解説が 明示的におこなわれようと 暗黙裡におこなわれようと(ひょうせつ) それをしたものが すくなくともそこでは研究者(――実践家――)ではなくなっているということは いうまでもない。
(水田洋:〈研究者の自立ということ〉時流と風土)
というときの《ひょうせつ》を わたしは おこなって そのこたえとしなければならない。第一章から前章まででは 《暗黙裡に まさしく 剽窃》してきた。この章では 《明示的に 原典解説をおこなう》。――ということは そうやって 字面の上では 水田が《研究》ではないと主張するところの《ひょうせつ》とか《原典解説》とかの 意味内容を 問うてもいるのだが。
アウグスティヌスにおける文体展開の方程式
無力のままの自由で有効な自然本性の勝利というとき
それでは 〔自然本性にそなわった まさに研究者が用いるところの 人間の〕自由意志をわたしたちは 恩恵(すなわち 自然本性のなぞのちから)により無効にしているのか。断じてそうではない。かえって わたしたちは自由意志を立てるのである。
- 研究者という立ち場で 経験領域の《寓喩》に限って 文体を展開していくところのその自由意志を立てる。
なぜなら 律法(すなわち 経験行為の法則 また 天使の法律的な部分)が 信仰(すなわち なぞをもった経験判断)により無効にされず かえって立てられるように(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))3:31) 自由意志も恩恵により同様にされているからである。
- 勝利が いまは保留されている つまり 有効が無力であり わたしたちは 弱い この弱いときに なぞを持っているから 観念のデーモンのように有力とならないとしても 自由意志は かえってまったき自由として 立てられている。
実際 律法(ないし研究者の自立)は自由な意志決定によるのでないなら 実現されないのである。
- ゆえに 個人的な指紋は残るし 残るような文体が まず 勝利の系譜のひとつの条件であろう。
(アウグスティヌス:〈恩恵は自由意志を確立する〉《霊と文字》¶30)
つづけて アウグスティヌスの議論によれば
しかし そこには次の中間段階がある。つまり〔勝利の保留の過程にも 文体の進展していく段階があり〕
- 律法により罪の認識(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))3:20)が〔現われる第一段階〕(つまり たとえば 水田の議論に触れて 自立していない研究者は 罪〔=自己の非自立〕の認識を持つはずである。)
- 信仰により罪に対抗する恩恵の獲得が〔現われる第二段階〕(つまり 無力ながら こういったことが 過程的に 精神の政治学として 進展していくというのが いまの議論だが 罪すなわち自己到来の未実現の認識をもったなら これに対抗するなぞの自然の主体のちからを たしかに 自己到来への根源的なちからへの信仰によって 獲得する。なぜ 信仰というかと言えば 知っているだけなら 無力の領域を議論する必要はない。)
- 恩恵(なぞだから 《ただ(只・無償)》だということ)により罪の悪徳からの魂の治癒が〔あらわれる第三段階〕(これによって 人びとは 和解できる。)
- 魂の健康により意志決定の自由が〔あらわれる第四段階〕(精神の政治学が いよいよ抑制するよう引き止められないで すすめられる。わたしたちの経験と感覚から こう解説する。)
- 自由な意志決定により義に対する愛が〔あらわれる第五段階〕(《わたしの身のまわりは天国〈のように〉なる》〔ファウスト・4694〕。《最高の存在に向かって絶えず努力せよ》〔4685〕というこのいと高き存在が 依然として 不明瞭だが ウェーバーのいう目指すべき星などとしてではなく 自己の内に つまり一人ひとりの内に 愛される。その自由な意志決定。)
- 最後に 義に対する愛により律法の活動(つまり 経験科学の法則的に理念的に 自由意志〔また知解〕の望んだところ)が
成就されるのである。
(アウグスティヌス:《霊と文字》¶30〈恩恵は自由意志を確立する〉)
言いかえると 勝利が保留されていて(わたしたちの基本主観が無力で) しかも 歴史的にたとえばこのような中間段階をとおって進展していくゆえに 文体をすすめるわたしたちは 目指すべき星といったものは 別に持っていないし(補助領域で それとして 持っていてもよいし) また 中核となっている基本主観にかんする概念つまり理念を 律法(法律)としても・あるいは 《天使の歌・音楽》としても 特別に守ったり それに守られるために聞こうとしたり根拠としたりすることはできない。していない。
《資本》という歴史社会の 中間段階を経ての進展 また その目的地への到達といった図式では これはまた そのように マルクス的でもあるが だから マルクスのひょうせつとも見られかねないが アウグスティヌスは マルクスより若い人だから その点は だいじょうぶであろう。で わたしは 筆が及ばないから いまの《無力のままの勝利》にかんして さらに アウグスティヌスに拠る。ひょうせつと見られても 仕方がない。それだと みんな 水泡に帰すかも知れないが。わたし自身の指紋が残っていれば さいわいである。池のまわりを巡るかのように しなければならない。ここでは 経験科学に だだをこねるかたちで――
あたかも鎖の環のように互いに連結させてわたしが述べたこれらの〔中間段階の進展にかんする〕真理はすべて 聖書のなかにその表現が見いだされる。すなわち
- 律法は言う。《むさぼるな》(旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2)20:17)と。
- 信仰は言う 《わたしの魂をいやしてください。わたしはあなたにむかって罪を犯しました》(旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)41:4)と。
- 恩恵は言う 《見よ あなたはいやされた。もう罪を犯してはならない。(また 指紋を拭きとってはならない)。あなたにもっと悪いことが起こるかもしれないから》(ヨハネによる福音書 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)5:14)と。
- 健康になった魂は言う 《わが神 主よ。わたしがあなたにむかって助けを叫び求めると あなたはわたしをいやしてくださいました》(旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)30:3)と。
- 自由意志は言う 《わたしは喜んであなたにいけにえをささげます》(旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)54:6)(精神の政治学のまつりの過程・回復)と。
- 義に対する愛は言う 《不義な者らは喜びについてわたしに語りました。しかし 主よ かれらはあなたの律法にしたがいません》(旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)119:85)と。
(アウグスティヌス:《霊と文字》)
(つづく→2005-02-01 - caguirofie050201)