文体―第十九章 人麻呂とスミス
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(photo=nayama,yukikazu)
(2005-01-27 - caguirofie050127よりのつづきです。)
第十九章 人麻呂とスミス
けれども 観念のデーモンが 《世も末だ》と言うのと同じく 観念の政治が 《わたしたちは 運命共同体だ》と説くのです。観念的な確認でなければ その内容じたいはまちがっていないでしょう。
そもそも わたしたちが ことばを使って ものを言うということは いったい どういうことなのでしょう。
《世も末だ》という言葉の意味は いったい何であるか。《〈世も末だ〉と表現すること》 この行為の意味は 何であるか。なぜ そんなことを言うのか。なんのために言うのか。
わたしたちの理論では どんな表現・どんな文体であるに限らず 《自然》の過程のなかにあって 生きることが すべてを説明する そして もう少し色をつければ 《自然》をたがやして よりよく生きることの過程だというのが ひととおりの説明でありました。
《よりよく》の内容を もう少し詳しく見るならば 概念=ことばを用いて ふつうに(先行・後行のふたつの領域を順序よく)すすむ場合と これを観念とし さか立ちさせて進む場合とが あるだろうと考えていた。
- 科学に対して生活が先行する。自己到来が最も先行して 生活する。あるいは 自然本性の基本主観が先行するも その《人間なるもの》を押し立てて文体するというよりは 男もしくは女という性をも伴なって 過程的な文体として発言する。等々。
《世も末だ》の意味を確認し これを情念として(あるいは これに情念を込めて) 他の人の応答を期待するばあいは 概括的な理念をつたえようとしているのではなく 少なくとも その人においては 念観となっている。まわりの人が そこに ある種の鬼のちからを感じるならば ことばである概念が 逆立ちしがちである。概念に対応するか 観念に反応するかの違いが生じている。単純にいって 《よりよく》といった価値の問題は ここに発生している。そして こういった倒立のことばを含めて まずはおおきく じつは 《自然》の過程――生きること――の関数であるのが ことばの表現であった。
天皇(すめらみこと) 雷岳(いかづちのをか)に御遊(いでま)しし時 柿本朝臣人麻呂の作る歌一首
大君は 皇者
神にしませば 神二四座者
天雲の 天雲之
雷の上に 雷之上尓
いほらせるかも 廬為流鴨右 或る本にいはく 忍壁皇子(おさかべのみこ)にたてまつるといへり。その歌にいはく
おほきみは 王
神にしませば 神座者
雲隠る 雲隠
雷山に 伊加土山尓
宮敷きいます 宮敷座(万葉集 巻三・235番)
- 作者: 中西進
- 出版社/メーカー: 講談社
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これは まず第一に ことばによる表現である。それ以上でも 以下でもない。つまり第二に もしこの《神》が 雲の上の存在なのだと この当時 考えられていたとするなら また 《大君》が《神》に喩えられていた(少なくともその可能性があった)とするなら この限りで このうたは ただ概念を用いて こう詠んだに過ぎない。そうなんだな その内容のとおりなんだな そうなのかも と言っているのにすぎない。
第三に うたの意味 もしくは このうたを歌ったことの意味 これが 人びとに伝えられて そこで 作者・人麻呂は なんらかの反応を求め 応答を期待したのであろうかの問題。
《自然》は 関係であり 或る種の仕方で 共同体(共同生活というほどの意味)であるから 反応や応答の関係過程であるだろうことは まちがいない。
第三の問題は そうすると もしこのうたが――第二の観点から 観念の鬼ではないと見るとするなら―― どういった反応を引き出すかは このうたの あずかり知るところではない。(精確にいえば この歌の作者の本意といったもの のあずかり知るところではない。)というのは 《神》および《大君》といったことばが 過程的に用いてすすむべき概念ではなく ここで わざわざ人麻呂がつくりだした概念であったとして そのことの可能性の一つとして 或る観念をのべようとしたと見る場合 そのときには たしかにかれは 鬼となって その念観を 人びとに及ぼそうとしたことになる。だが 一つひとつのことばを取っても どうも そうは考えられない。むしろ 或る客観認識――合理的であるかどうかを別として――に限りなく近い。
もしこうだとすると 問題の第四は 反応が ただ うたを聞いた人びとの側にあるという点だ。おおきな自然の過程で 人びとは むしろ それこそ 絶対的に 関係しあっていると見るとき。つまり うたを聞いた人びとの反応は まったく自由なのであって 人麻呂は このうたで 人びとのその自然主体たる存在じたいとは 絶対的にかかわっているが かれらのいだすべき反応つまり経験的な文体行為とは かかわりあいがない。
こういった第一から第四までの 少なくとも想定を このうたについて 与えることが出来よう。
このうたでは 《よりよく》といった価値観つまり文化意義の問題すら 表わされておらず ただ 《自然》過程のひとこまとして 人麻呂は これを言い出したにすぎないように思われる。
《大君は神でいらっっしゃるから 大空の雷のその上にいほりしておいでになるのかな そうなのかも》と言って そういう《世》――つまり 社会関係の自然――の一情況をとらえたまでであって 世が末だとか 初めだとか 晴れているとか嵐だとか等々とは ひとことも言っていない。《雷山》を 自然現象の《雷》にたとえてはいるから そこには かれの一主観がある。つまり または この《雷の上にいほりを編んでいる》というのは 経験現実ではなく 比喩である。
ただし そういった比喩の言い方が成立しうるところの物の見方が ともかく自然に その時代と社会とに あったのであろう。だとしたら 人麻呂は ここで ほんとうに ほとんど何も語っていない。何もしていない。かれの存在――自然本性――が 作者として あるというのみである。
かつ そこに 経験領域が 同時に 後行していて この一つの文体が言い出されたなら 人びとは 自然の関係において なんらかのかたちでは この文体ないしその内容にもとづいて 反応するはずである。しかも その内容は 人麻呂にはむしろ 何もない。《かも》で結ぶのだから 自問ではあっても だから 思念をしていても 念観・観念ではないであろう。ここでは ことばは 過程的に用いられる概念であって 自由電子ではあっても 外へ電波として発出されたのではない。――少し 譲歩しなければならないとすると まず 概念は おそらく どんな文体における場合であっても 何もしなくとも 観念になりうる。受けとめ方の問題として そうであって この場合(言い換えると 和歌という表現形式で この時代に 文体された場合)素朴ではあっても ことばの過程が 一個の絵の世界になりうると言っておかなければならない。絵の視像 想像が 観念を起こす場合が おおいにあるから。
おそらく 観念――つまり 《神》とか《大君》とかがすでに流通しており 通念となっていると見る限りでの――をそのまま捉え さらにこれを このうたをとおして確認しようとする人びとは 〔おそらく〕そういったイメージをえがくであろう。《神》の概念を確認しようとして これを いまのばあい 《大君》のありさまに引っ掛けて 或る視像の世界 その一世界の或る視像を 持つことであろう。雷神が絵になるといったようにであり この時代のこととして言って 実際の映像(テレビとか映画とか)を見てみなければ 想像することができなかったとは 言えない。
また じっさい 或る一個の文体は その起こりうる反応の可能性を あらかじめ捉えて 表現することを 自己の責任とするとも 言わなければならない面がある。この第五の問題点は 上に見た問題想定の第三点とは 矛盾するのであるが しかも これらふたつの点は さらにここで 両立すると わたしは思うのである。聞き手ないし読者の反応は 詠み手ないし作者とは 文体が独立主観にもとづくならば かかわりがないこと(第三点ないし第四点)と 作者は 読者の応答をあらかじめ 織り込んで文体を表現しなければならない一面(第五点)とは 両立するはずである。つまり 文体は 過程的で 互いに独立主観において 自由だという原則によっている。
だとすると 人麻呂は たしかに――わたしたちは かれを えこひいきするのであるが―― 人びとの鬼の踊りはじめることを 予想していたのにちがいない。といった問題が あらたに 生じる。これは 実際 或る一人の人 自分自身だけ の責任や問題ではないのであるが。
しかし むしろ このことのゆえに わたしは かれ人麻呂に対して 世に言う歌の聖の名を ここで 確認したいのである。観念化されることを 承知の上で あえて恐れずに。というのは これは これが 精神の政治学なのであって つまり なぞをもった自然であるゆえに 歌聖といっても 特別の固定された意味内容を持たないであろうと考えるから。ちょっと古いけれど まだ それは 通念なのであるから。
だけれども――だけれども―― このようにわたしが どうのこうの言うこととは関係なしに はじめに第四点までに検討したように 人麻呂は このうたを表わして じっさい 何も語っていず 何もしていなかったのである。それゆえ もし可能性の問題として考えるならば 第五点の 精神の政治学の関係過程が生じたことになる。歌聖と言ったり 宮廷歌人とよんだりのである。というのが わたしたちの理論であり いまの主張となるのではないだろうか。いま言えることは 最後に――もしくは もともと先行していて最初に―― 第五点の矛盾が生じた。なおかつ その矛盾をとおしても 四つの問題点が やはり なぞの自然の全体として 過程される。
これは――以上のことは―― ことばで ものを言うということが いったい どういうことであるのかの問いに対する答えとして 例示的に 考えたものです。
だから ここには 言われなくとも なぞが ある。単純な例示としては 人麻呂のこのうたに いろんな反応・解釈の成り立つ余地があるということ。または その作者を 《歌聖》とよんで むしろ 実体的な内容を ただちには明らかにしないような受け取り方がある(ありえた)ということ。わたしたちは なぞにおいて――別の言い方をすれば 観念を つきやぶって―― 自己の自乗をおこなっていく。観念を つまり 通念となっている観念を そのまま用いてさえ 概念展開をおこない 観念の停滞を打ち破るといった形もありうる。えこひいきしていえば 人麻呂の自己の連乗積のすがたが ここに ある。えこひいきというのは 基本主観の自由な文体展開への 潜在的な可能性として とらえればということである。
《ファウスト》は この文体展開の過程を ひとつの方程式のようにして 明らかに している。人麻呂のは はなはだ素朴に どこまでも 実践であるだろう。ただちに 図式的にでも言うとすれば ファウストにとっての 弟子ヴァーグナーや悪魔メフィストフェレスや《いとしいグレートヘン》らは 人麻呂にとって その具体的に表現されたうたうたの外――といっても 交通しあっている外――にあるだろう。つまり 《ファウスト》の方程式をもって 人麻呂のうたを 解釈していくことができる。その意味で《ファウスト》は 補助手段としての《科学》なのである、
わたしは 人麻呂と同じくにに生まれたことを 恥じない。と言うと 民族の観念におちいるであろうか。わたしも 何も語っていず しかも 観念主義の反応を 可能性として 引き出したと言って ほこることが出来るであろうか。
皇(おほきみ)は神にしませば 真木の立つ荒山中に海を成すかも
皇者 神尓之坐者 真木乃立 荒山中尓 海成可聞
(万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫) 巻三・241)
これも 人麻呂の作ったものだとして あげられている。
このうたは 字づらの表現からはいわゆる現代の 環境自然の開拓あるいは汚染・破壊の問題とつながっているが このうたの当時では これは 問題ではない。しかも 《神》という不可視のそして非経験的なことばを 先の235番のうたの内容よりもさらに具体的で経験的な行為とつなげて 用いている。《雷の上にいほりする》という比喩から さらにすすんで 《真木の立つ荒山中に海をつくった》という経験行為とかかわらせて 《神》のことばを 用いている。これも 比喩だといえばいえるが 《山中に海をつくる》ことは 《ただ いほりする ないし 存在しているかのようだ》と言うこととは べつだと思われる。魔法で 海を出現させるわけではないのだから。
とすると これは 観念が作用している。ダムを作ったわけでもあるまいが 実際は 人びとがちからを合わせてはたらいた結果であるにすぎない ところを このようなうたで歌い その意味をとらえさせ これを念観し 共同の観念として一般に広めようとするかのようである。(設計者とか指揮者が たたえられる場合があるが それは 別とする。)
このうたは 先の235番にもあったごとく じっさいは やはり《或る本》の別伝のようなものとして 載せられているのである。
もっとも わたしは この241番歌は 人麻呂の作ではないのではないかという線も 考えてみたが それがどうであれ やはり人麻呂の作だとする前提で 話しをすすめなければならないだろう。そのためには このうたが ある長歌に附属する反歌として 《或る本》には伝えられているというのだから この長歌のほうをも読んでみなければならない。
長皇子(ながのみこ) 猟路(かりぢ)の池に遊(いでま)しし時 柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 ならびに短歌
やすみしし わご大王
高照らす わが日の皇子(みこ)の
馬並めて み猟(かり)立たせる
弱薦(わかこも)を 猟路の小野に
猪鹿(しし)こそば い匍(は)ひ拝(をろが)め
鶉こそ い匍ひ廻(もと)ほり
恐(かしこ)みと 仕へ奉りて
ひさかたの 天(あめ)見るごとく
真澄鏡(まそかがみ) 仰ぎて見れど
春草の いやめづらしき わご大王かも (巻三・239)反歌一首
ひさかたの天ゆく月を網に刺し わご大王は 盖(きぬがさ)にせり (240)
或る本の反歌一首
皇は神にしませば 真木の立つ荒山中に海をなすかも (241)
《・・・猟路の小野に ししが匍って礼拝しており 鶉が匍いめぐっているが そのししのように匍い拝み 鶉のように匍いめぐって 恐れ多いとてお仕え申しあげて 大空を仰ぎ見ても 春萌え出す草のなつかしく愛らしいように いよいよたたうべき わが皇子である》(239) 《わが皇子は神でいらっしゃるから 大空を行く月を網にとどめ取り わが皇子は それを盖にしておいでである》(240)と たしかに いうのである。人麻呂がこううたったというのである。
まさに 《長の皇子》を 《神》にたとえ その観念としているではないか。また もし人麻呂じしんは これを絵の世界として 人びとに念観せよと言っていないとしても その可能性は おおいにあると言わなければならない。
わたしは ここでも それでも かれを えこひいきしたいと思う。
このように 人麻呂は 観念のデーモンと 手を結んだのだと。そして それは 先の235番のうたと まったく 同じおもむきなのである。客観認識(通念事実の認識)にすぎないのだと。
ただ こちらの三首のうたでは 先のうたとは違って 人びとの主観――具体的な主観――のありさまをも 客観認識している。先のうたでは もしそうだとしても 人びとの主観の一般的な情態にとどまっている。《神》の通念までである。そして どちらのうたうたも 人びとの 観念になりうる通念とその具体的な経験情況に 限りなく近い。のではなかろうか。
このわたしの偏見が成り立ちうるかは 次の――これらの歌につづく――三首のうたを よみくらべてみれば わかる。
弓削皇子(ゆげのみこ〔長皇子の弟〕) 吉野に遊しし時の御歌一首
滝の上(へ)の三船の山に居る雲の常にあらむとわが思はなくに (242)
〔三吉野の激流のほとりにある三船の山に 動かずにかかっている雲のやがて移って行くように 私もいつまでも永らえるだろうとは思わないことだ。〕春日王(かすがのおほきみ)の和(こた)へ奉る歌一首
王は千歳にまさむ 白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや (243)
〔皇子は千年も永くこのまま栄えていらっしゃるであろう。白雲も三船の山に常に湧き出て来て 絶える日があろうか。ありはしないのである。〕或る本の歌一首
三吉野の御船の山に立つ雲の常にあらむとわが思はなくに (244)
右一首 柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
まん中の243番のうたが 観念のデーモンと しきりに ゆきかおうとしていることは 明らかである。このうたが それに答えたというのだから その242番のうたは これも 観念的である。このうた一首だけでは ひとりの主観の なにかの悩みであるにすぎない。そして それだけのうたである。242番と243番とは 文体関係の過程としては そこに 或る観念のデーモンが とびかっている。
ところが その242番とほぼ同じうたが 244番に 《柿本朝臣人麻呂歌集》から採ったとして かかげられている。もちろん 一般に これが 人麻呂の作かどうかは わからないとされているのだが もし 人麻呂が 自分の作でないものをも 自分の歌集の中に 支持できるものとして 入れたと考えるなら その場合には やはり 人麻呂とかかわっている。
いづれにしても したがって これまでに見てきた《おほきみは神にしませば》に関係のある歌群(235・239−241)と いま対比してみるべき三首(242−244)との異同を 問う必要がある。つまり これら三首の中で まず明らかに 春日の王の観念的なうた(243)は 別とすることができるだろう。かんたんに言えば これは 気休めのための文体である。
だが もし 気休めのための文体を 要請するような内容(主観内容)を 弓削の皇子の242番歌が もっていたとすれば これも いまの議論で べつにすることができると同時に それは 問題の《人麻呂歌集》のなかのうた(244)と ほとんど同じおもむきでもあると言わなければならなくなる。
けれども 問題は 簡単である。弓削の皇子の242番歌は 《雲》と《滝》とを対比させてうたっているのに 人麻呂歌集の244番歌は そうではないのだから。
《滝の上の / ・・・居る》(242)と《三吉野の / ・・・立つ》(244)とのちがいで 前者は 後者より 経験過程的で その過程に主観がつきすぎるきらいがある。《滝→心がたぎる》など。後者・《人麻呂歌集》のうたは ただ一個の自然主体の すでに出発している過程での 自己到来をうたうにすぎない。それを 自乗しようというにすぎない。
いまのひじょうに不案内の――という意味は 人麻呂のその他のうたを さらに一つひとつ見てみることをしなかった――の議論で 歌聖・人麻呂の文体を顕揚したいのである。そして とうぜんのごとく そこにおける歴史的・社会的な制約条件は 現代とは 異なっているということは アダム・スミスの文体においても おなじであった(第十七章)とおりである。スミスは 積極的に 政策を考えていこうとする。つまり 人麻呂よりさらにいっそう文化(生活をよりよく)的である。人麻呂は ほとんど自然本性の自己到来(《わたし》の自乗過程)そのものを しめそうとして 観念的な停滞に限りなく近く しかも 滞留している。
経験行為の倫理学(モラル・センティメンツの理論)では スミスも そうであるが そのとき同時にスミスは あの《ファウスト》のように 経験科学的である。ゲーテは そのとき 或る虚構のなかに そういった一連の過程の方程式を描き出し スミスは この過程における思考形式の客観的(かつ 基本主観的)な理論を 提示しようとする。わが人麻呂は とにかく実践している。その地でその時点で ともかく 実践している。つまり この意味ではむしろ 人麻呂に《はじめに おこないが ある。》
次章でも 人麻呂を追究します。
(つづく→2005-01-29 - caguirofie050129)