caguirofie

哲学いろいろ

文体―第十七章 迫害という観念

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-01-25 - caguirofie050125よりのつづきです。)

第十七章 迫害という観念

なぞの自然なる《はじめ》

はじめにことばがあった。
(1:1)

ということば使いを 文体のうえで わたしたちなりに考えておくことにします。この《はじめに》にかかわって 《意味》の観念化が生じ 《情念》のデーモン作用が拡がり この無効が実効性を持ち 経験領域において有力となったあと そこへ このデーモンに対する鬼退治が始まる時 たしかにこれが踊り始めるなら 迫害の問題が起きるかに想像されると思われる この点についての話しになります。 
ファウストが扱った上の一文の問題の初めに この一節のあと 

ことばは かみとともにあった。
ことばは かみであった。
このことばは はじめに かみとともにあった。
すべてのものは これによってできた。
できたもののうち ひとつとして これによらないものはなかった。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書1:1−3)

とつづくのだから ここで 《かみ》を わたしたちは これこれだと はっきり示すことはできないけれど あの《自然》のなぞを かたるものと思われる。まず そう考えられる。
だから この福音書では 明らかに 経験領域で使われることば 文体の経験行為としてのことば のことではない。もっとも しかも

〔このことばは〕世に来た。かれは世にいた。・・・かれは自分のところにきた・・・。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書1:9−11)

というのでもあるから 自然本性の経験領域とか環境自然ないし社会とかと 矛盾したり無縁だというのではない。
問題の第二に 原文(ギリシャ語)では 明らかに 《ロゴス》という言葉であって つまり《ことば》のことである。このロゴスという言葉は レゲインという動詞から出たもので つぎのような意味があるという。

leg-/log-

  1. 《集める》・・con-leg-t (=collect)/ leg-ion(選ばれ・集められた軍団)/ leg-ume(野菜)
  2. 《選ぶ》・・・・e-leg-t (=elect)/ se-leg-t(=select)
  3. 《数える》・・・log-istic(算術)
  4. 《話す》・・・・log-os / leg-sis(=lexis/lexicon)(語彙)
  5. 《読む》・・・・leg-ture(=lecture) (講話)/ leg-end(話され伝えらるべき〔もの〕)

さきの問題の第一点と考え合わせた場合 もし経験領域にも関与しているとするならば このような意味合いをもった行為や動態の過程にかかわっているというのかもしれない。《はじめ》の概括的な理解として・つまり概念として 基本的な行為経験の総体かつ中核のようにして 《ことば》があったと。だが そうは言ったものの おそらく 《なぞ》説のほうに優位があるだろう。
同じくおそらく ここでは ことば――人間の話すことば自体――が はじめだったとは 言っていないのであろう。また この・仮りに概念だとするときの《ことば》が そこに人の主観の情念が乗っかることによって観念化することは 避けねばならないとも考えてきた。
問題の第三は いづれにしても 経験的に言って つまり人間として見て はじめに ことばがあっても おこないがあっても よいわけで おこないが生活の経済的な側面として基礎であるという前提に立つなら いまその前提の上に ことばの自由化を立てること このことをもって 文体の議論は成り立つと思われる この点である。
ここで扱う範囲としては 文体の自治(――性関係としての・また 一般に社会的な関係としての―ー)の分野 および 文体形成の補助手段たる科学の分野 であった。言いかえると 《初めに行ないがあった》といったふうに 経験領域じょうの問題として捉え そう言っている場合 その場合には 《はじめの行ない》が 過程的であって いまにまで歴史して来ているし これからも歴史していくということを 語るのにすぎない。

  • または――やはり 経験領域に限定しないほうが よいだろうから―― なぞを伴なったおこない そしてそのようなことば あるいは ちから であると見る見方を添えておこう。《はじめに》――ファウストの作者・ゲーテによれば―― 行ないのほかに こころだとか ちからが あったと言い換えうるほどであるというのは おおきな自然過程であるということを ものがたると思われる。

そして いまの歴史過程のなかで ここでは 上の二つの・ないし三つのテーマを扱うという予定である。

《はじめ》を絶対的に嫌う文体形式

そこで 文体の自治というのは 文体の 概念を用いてすすむ過程であるから この過程を停滞させてのように 或る観念で文体をおおう――《神》だとか《物質》だとかを観念として立て これらで 文体をおおう―― そうして だから 性関係の・また社会関係の あるいは環境自然への そのままのいわゆる上からの統治・支配であってはならないという議論が ひとつある。これはわかりやすい。つぎの問題は――言いかえると わが日本社会の問題は―― むしろ いまの《はじめ》が 何も無いことにある。曖昧であることにある。観念として はっきりした原則を立ててはいけないだけではなく ふつうの概念として いきたことばとして はっきりさせた議論をしてもいけないという問題にある。一定の明確な観念化を嫌い これを猛烈に批難し――したがって 通俗的にいえば いわゆる相対主義の風潮のもとに――定まった絶対観念を おおむね 避けてきたにもかかわらず ことばの自由化は 見送られてきたと思われる。群小の観念が――群小の観念のデーモン帝国としてのように―― 互いにちからの均衡を保ちつつ おのおの保護主義にかたむいた。自由競争が ないわけではなく むしろ大いに競われているのだが ただ一点 後行する経験行為にかんするその自由競争を除いては 先行する基本主観にかんすることで 明確なことばの自由化のもとに 議論をすることは 勇敢にも 慎まれている。
絶対なる観念による絶対的な支配というデーモン関係を避け この回避を絶対とする観念のもとに あたかも別種の鬼となってのように 既になぞをなくした自然による性関係の横行・おなじく政治の展開そしておなじく環境自然の開発が おこなわれてきたのではなかったか。
文体形成の補助手段である科学は 基本主観の自乗過程においてふつうの補助手段として文体展開に役立てる場合と それとも 或る観念の政治のために・その世界の秩序を維持するために 精緻なものに打ち立てて 用いる場合と あるいはそれとも この科学じたいが ひとつの独自の世界を形作り そのなかでのみ 文体の研究を敢行し そのなかでこそ いろいろな模範をあおぎ どれかひとつを めざすべき星として進んでいく場合と みっつの場合があるという議論にもなる。
はじめの おおきな自然は なぞをもちつつ 全体として 通底していると考えられるが――それが 先行する基本主観であるが―― 日本社会という後行する経験領域では それが 《自由に》分断され 部分なる自然においてあるがままの《競争》が敢行されている。これは もし はじめには なぞをもちつつの統合があるとするならば この統合が失調している状態ではなかろうか。

ことばの自由化・ことばの自由競争

もしアダム・スミスが おおざっぱに言って 経済活動の――むろんおのおのが自然主体としての――自由競争を言ったのだとしたら わたしたちは 角度を変えて ことばの自由化を言っているのかもしれない。これを ことばの自由競争といったほうがよいのかもしれない。もちろん 競争しなければならないというわけではないが。
こういったわたしたちの議論が なおもし必要であると見るぶんには それは 《ことば ないし 文体》を言うことによって 一個の自然本性の主体たる人間において 基本主観(わたし)が 経験領域に対して  先行すると言いたいわけで また その想定に立って言っている。
このとき 経済活動が 自然存在の過程つまり生活にとって 基礎であることに変わりなく この基礎領域の過程では 概念としての・また概念を用いてすすむ経済活動だけではなく すでにたとえば《自由競争》を こんどは観念として 停滞させる(またそうせざるを得ない)経済主体の鬼の領域もあって このデーモンの活動領域は 経験的に有力であるから 先行する基本主観は 先行するといっても 無力であると見ていることにも 変わりはない。
経済活動の自由化の問題は 既存の経験行為の結果たる事実状態との関連で議論されなければならないであろうが ことばの自由化は 基本主観の先行性にもとづき すでに・つねに 言っていてよいものと思われる。経済の自由な活動の 言ってみれば歴史的な伝統は つちかわれてきているのであるから その自由な経済活動が言い出されたときのはじめの 自然存在の過程つまり生活の態度を 議論していけばよいものと思われる。これは 広く社会一般の文体の自由な展開過程 これにつきるとさえ考えられる。科学を脇におくならば ここでは 政治(政治経済)と女性論として。

文体の自由な展開 つまりふつうの市民生活において 一個の人間にあっては その基本主観(ここで言いかえれば 基本的な人権をもつわたし)が その経験領域(殊にここでは 経済活動)に 先行するのであるが 事は そう穏やかではない。後行する領域たる経済の問題のほうが 一般に有力であり その限りで 《わたし》〔たち〕に先行するかにさえ見える。

しかしながら 〔生活における〕職業の利益と不利益の全体について このような均等化(いまの議論では 人権の平等)が実現するためには 最も完全な〔経済活動の〕自由があるところですら 次の三つのことが必要である。
第一に これらの職業はその近隣地方でよく知られており また 長年にわたって営まれてきたものであるいうこと 第二に これらの職業はその通常の状態 すなわち いわゆる自然の状態になければならないということ 第三に これらはそれに従事する人々にとって唯一 または 主要な職業でなければならないということである。
(¶1・10・1)

国富論 (1) (中公文庫)

国富論 (1) (中公文庫)

三つの点をもう少し詳しく見てみなければならないとしても その第二点で 《自然》の問題をスミスも 論じている。そして 第一・第三のことがらは 今ではあまり重要でないように思われる。これは 経験領域の 自然主体たる基本主観に対する後行性を あかししている。《その現在》・そのつど 先行と後行との両領域はそれでいて 同時一体だが 経験行為事実のつみかさねで 歴史は 変わる。

ところが〔――その当時――〕 ヨーロッパ諸国の政策は 物事を完全な自由にゆだねないで〔これよりも はるかに重要な他の〕不均等をひきおこしている。
ヨーロッパ諸国の政策は 主として次の三つのやり方でこの不均等をひきおこしている。
第一は ある種の職業における競争を制限して そうでなければこれらの職業に就きたがる人々の数を制限すること 第二は 他の職業での競争をそうでなければ自然に行なわれる以上に増大させること そして第三は 職業から職業へ 地方から地方への 労働を資本(stock)の自由な流通を妨げることである。
国富論 (1) (中公文庫) 1・10・2)

ここでも 特に第二点は 現代の問題であるかもしれない。けれども わざわざ このような主張をここに引用するのは 経験領域――ここから 概念の観念化が 発生する――の 人間における後行性を言いたかったためであり その歴史的・社会的な条件によって こういった経済政策論は 或る種の仕方で 変化をこうむることを 見たいがためである。
変化を受けないのは――おおむね 変化を受けないのは―― ことばの自由化といった文体の問題である。そのように経験領域に先行する主体の領域があり かつこれは どちらかといえば ただ 無力だと見ているのにすぎない。無力だが 無能力ではなく それとして 有効なのだと 壊れたレコードのように繰り返すのは 当時では 異端ないし少数派であったアダム・スミスが ともかく 社会一般的に 実効性をもったその後の歴史を言うだけで済む。
アダム・スミスが その自由な文体の展開の過程で 対抗したのは 重商主義(貿易差額の極大化を図るという観念の帝国)ないし商業主義(交換差額をつねに自己に有利にみちびくという観念の王国なる観念の政治)であった。

私は 富は貨幣すなわち金銀から成るというこの通俗的見解を 冗長になるきらいはあっても 十分に検討する必要があると考えた。

  • 貨幣は 概念であるのに つまり一般に等価交換の等価値額といったことばであるのに あたかも この《ことば=貨幣》が はじめにありきと唱えてのように そこで停滞して(或る意味でナルシシスム) 観念の政治の有力を獲得しようと 奔走する 狂気の 自然過程。もっとも 赤信号も みんなでわたれば狂気でなくなるように見えるから この有力な政治学は ふつうの自然主体の生活を あざけり おとしめることに慣れてしまった。ただし 無力の精神の政治学が 何もしないのに この経験狂気の有力政治学のデーモンを 照射し この鬼は踊り出てくると考えられている。たしかに この種の議論は 《冗長になるきらいがある》。――

〔さきに述べたように〕 日常用語では 貨幣はしばしば富を意味している。そして こうした表現のあいまいさが この俗説を われわれにたいへん親しみやすくしており その結果は この俗説の不条理を確信している人々さえ ややもすれば 自分の考えの大本を忘れて 自分たちの推論を展開してゆくうちに この俗説を 確実な 否定しがたい真理だと思い込んでしまいがちなのである。たとえば 商業にかんするもっとも優れたイングランドの著述家のなかのある人々でも 一国の富は 金銀だけではなくて その国土 家屋 そしてあらゆる種類の消費財から成る と書き出しながら 議論を進めてゆくうちに 土地 家屋 消費財はいつのまにか忘れてしまい すべての富は金銀からなり 金銀を増殖することが国民の産業や商業の大目的だ と考えているかのごとき議論の調子になっていることがしばしばある。
けれども 富は金銀から成るという原理と 金銀の鉱山のない国では ただ貿易差額によってのみ つまりその国が輸入するよりも大きな価値を輸出することによってのみ 金銀を獲得することができるという原理を この二つの原理が確立されたので 国内消費の外国品の輸入をできるだけ少なくし 国内産業の生産物の輸出をできるだけふやすことが 必然的に経済政策の大目的になった。かくして 国を富ませるための二大方策は 輸入にたいするさまざまな制限と 輸出に与えられる各種の奨励とになった。
国富論 (1) (中公文庫) 4・1)

つまり その現段階での経済政策については 歴史的・社会的な条件によって制約されるという後行の経験領域が 一方にあって この後行領域は 先行領域と同時一体・同時並行的であるにもかかわらず 別の位置に身を移してのように その位置にあって 先行領域を強引に率いるというまでの他方の側面がある。先行領域は この後行領域を交換なら交換という概念 また 交換や貿易におけるさまざまな具体的な概念 これらをとおして これらを用いて おこなっていく。それが 自然のふつうの過程である。交換の差額(一般に利潤)も 一つの概念である。そして どういうわけか 後行領域が先行領域に対して 先行することが起こる。概念は あたかも 水面の鏡に映った自己の姿にうっとりして かどうか分からないが そこで 停滞する。理性がなくなったわけではなく しかも これを 観念とする。観念の整理をする。観念で整理をする。

  • ちなみに この経験としても はじめに ロゴスがあるかたちを じっさいには とっている。

整理された体系は 観念の王国となる。ここで わたしは 有力だ この有力な政治学は 万能だ しかも わたしは自由だと ゆめみる。
基本主観は 無力だが 無能力ではないので じっさい誰もが ここまでは 考えるであろうし 認識して知っている。しかも このことの言葉の自由化が 必要である。基本主観のであって 客観認識のでもなければ 経験行為の客観分析のでもないところの。アダム・スミスの文体展開は その一つの成果であったと考える。これは 無力で 有効である。この有効を またまた観念的に いまひとつ別の有力とすることは ありうるのかどうか。ありえても この有効の無力が まったく悲惨であるとは 見なくてもよいであろう。
文体の自由の問題として わたしたちは この種の議論をおこなう。この種の議論を 無限に 自乗しつつ おこなっていくであろう。
これは 特には――経済を基礎領域とした――性関係としての文体過程 また 社会関係としての文体展開にかかわっていると見るのである。科学・女性論・政治の三つのテーマにとって 経済は こういった配置にあると考えられる。いづれのテーマにしても 先行する基本主観に比重をかけて 文体展開していく議論である。

迫害という観念

社会形態をあたらしいものとし 政策を変えることが とうぜん 後行領域であっても 同時一体に おこなわれていく そして いまの議論としては まず 先行領域の基本主観にとっては それに取り憑いた鬼が(――すでに 自己自身を離れてのように 別の位置に移っているから その位置から 逆に 基本主観に取り憑くことになる この鬼が――) やがて 踊り出す そのときの ある種のおそれについて 取り上げておきたい。
デーモンが踊り出す このとき 推測されうるかに思われることは かく言うわたしたち かく批判してきたわたしたちを 社会から追放しようとしはしないかというおそれである。古典的な概念を持ち出せば 迫害のことである。
踊りだすとき 狂気の観念が ふつうの自然にもどる。自然にもどっていくとき 慣性の法則によれば もどされることを 嫌う。《貨幣は 富なり》という観念を 鬼となって それを真理だと信じて 歩んできたのだから つまり これこそ真理であって欲しいというかたちで 信じてきたのだから この信念がゆさぶられると かれらは 怒る。デーモンがおどりだすと同時に そのデーモンに対してではなく また それを信じてきた自己に対してでもなく この観念の帝国〔の傘の中〕に入っていなかったわたしたちに対して 嫉妬の怒りを覚える。こうして わたしたちは かれらの有力な社会から追放されはじめるだろうか。はじまるならば そこに 有効な勝利がもたらされたと まず よろこばなければいけない。といった精神の政治学過程が もしそうだとすれば 社会形態だとか経済政策だとかの改革と同時に かつそれらに先行して すすめられていくことになる。
わたしたちは この種の議論を まず――まずこの種の議論を―― 取り上げる。
迫害されたら どうなるのか。わからない。知っていることは わたしたちは むしろ能力によって 鬼にはなれないということだ。敗北主義か。でも はじめに わたしたちの基本主観・自然本性は 無力であった。このことは わかっている。いまさら これを確認して 敗北主義という観念に 踊らされることもあるまい。そのデーモンが踊りはじめた――だから もしそうだとすれば 有力の政治学でもって わたしたちを 迫害しはじめる――人たちの じつは敗北 これをわたしたちは おそれるけれども つきあいしていかなければならない理由は ない。むしろ 無力で有効な精神の政治学過程として もともと おつきあいしてきたのである。これを ふたたび やはり 観念的に確認する必要はあるまい。
迫害されたら どうなるのか。知らない。知りたい人は 迫害を予定している人たちにたずねたまえ。
迫害されたら どうなるのか。もともと 《自然》の過程で この世界で 災厄は起こりえた。文化は これを 人間のちからでも 回避するよう つとめてきた。だから 狂気のデーモンの――自然の回復ゆえの――再発狂に対して 文化的に回避すべきか。回避すべきである。けれども 狂気とは そもそも 文化的に人間のちからでは 回避しえないものを言うのである。ただし 悪魔メフィストフェレスにも 正体不明ながら そのつどの正体はあって かれ自身の文体をもっている。文体を自由に展開し かみ合わせて 文化的に かれと議論すべきである。ただし――またまた ただし―― 人間に回避しえないものを 回避することはできない。
迫害されたら どうなるのか。だけれども 迫害されてみなければ わからない。未来の 迫害という観念に わたしたちは かかわりあいが ない。かかわりがないそのデーモンによって 迫害というかかわりが出来たならば 文体を互いに自由に展開しあえると よろこぶべきである。自己を愛するのと同じように 迫害者の自己を・つまり他者を 愛することができたのだと。この愛は 精神の政治学過程に見られたものであった。観念の愛 愛という観念のために 迫害されるのでもなければ 他者を愛するのでもない。また 他者の 基本主観じたいは じっさい 敵ではない。
だが 迫害されたら どうするか。けれども これは 迫害者のデーモンの問題である。
だが わたしたちは デーモンにわずらわされることを欲しもしない そして 死ぬことを欲してはいない。欲していないことを受けなければならないのは 人間の狂気からのとばっちりであり 不条理である。わたしたちが もし迫害されて死なしめられたとしたら そこまで迫害者とおつきあいしたと考えるよりほかにない。しかし これは ふつうのなぞの自然過程であり 条理である。この条理は 観念ではない。
死んだら どうなるのか。知らない。迫害者にたずねるべきである。観念のデーモンと添い寝した人たちは ほんとうをいえば すでに 死んでいるのだから。死んだら どうなるのか。かれらは あるいは知っているかも知れない。
(つづく→2005-01-27 - caguirofie050127)