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哲学いろいろ

文体―第十五章 政治 そして観念の政治

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-01-21 - caguirofie050121よりのつづきです。)

第十五章 政治 そして観念の政治

わたしたちは ことばの整理からおこないます。
題名は まつり そしてまつりごと というのとほぼ同じです。
自分で批判しているところの 観念の整理かもわからないが つまりそういうような観念のデーモンに影響を受けてであるかどうかわからないが あまり ここでは 科学的な研究には 関心がない。ここでの持ち場はちがっている。

まつり そして まつりごと

政治が 《まつり》という言葉で語られるのは 精神の政治学する自然本性主体が なぞにおいて 存在するということにほかならない。いまは 日本社会の問題として 考えているのだが 人間という自然主体は そもそも 《まつる》ということ すなわち 自然のめぐみ・はたらくことの生きがい・その成果の享受 これらについて感謝する そして その感謝のしるしに なにものかを供えるということと 切っても切れない関係にある。《まつりごと》は この《まつり》のおそらく観念的な確認から出たものであるだろう。《自然――自然の過程としてのまつり――》のなかに生きているというのではなく これを ただ客体的に確認する そしてそれは この《自然また社会》に対して 自分が 観念の自然主体として 優位に立つ これを統治するという文化行為(欲求)から出たものであるだろう。
ここでも 概念と観念との関係問題が 起こっている。
まず 前章までに用いた概念としては――これをたしかに確認するのですが――

《おおきな自然》=

  • 人間として 《自然本性》
    • 性の存在しない先行する 《基本主観》
    • 性とかかわる後行する 《経験領域》
  • 環境(人体環境を含む)としての 《自然》
  • 人間関係たる環境としての 《社会》

人体環境という狭義の《自然》は 人間の後行する《経験領域》とおおいにかかわっている。
経験領域が 《感覚・情念》だとすると 《人体自然》は 《感覚器官》等である。《感覚》の対象は 物理的な環境としての《自然》であり また 人間関係的な環境たる《社会》でもある。つまり 他の人間のふるまいなどなどである。
《経験領域》は 人体環境の自然 だから 社会的な関係における他の人間のからだ これらと区別して認識するときには 《こころ》であり つまりまだ《精神》の領域だと言ったほうがよい。じっさい 《観念》は この経験領域の精神を主体と見なして この精神から出てくるものなのである。そして確かに後行する自然の一領域として 肉的でもある。《人体自然》が 肉(つまり存在のうつわ・基体)であり 《経験領域》は 肉的・つまりたましい(anima)であり 《基本主観》は 言うとすれば 精神の霊(spiritus)である。
基本主観(《自己・わたし》)に対応すると見る《霊》は あらゆる人が 《自然》において ひとしく雨を受けるといった概念から作り出された漢字であるそうだが この《基本主観》が 最後の《社会》とも おおきな自然において つながっていると言うのは 漢字としては《社(=土地の神)》を用いるといったところにも あらわれている。つまり 基本主観――その意味の独立存在――の《まつり》は 《社会》の 《環境自然》と〔たとえば 農耕・牧畜などとして〕つながった《まつり》であることに まちがいない。
ヨーロッパのことばなどをすでに措いて考えると――と言っても 自然本性とか主観・経験また社会といった概念は 経験的に言って ヨーロッパ起源のものだとも言わなければならないが―― じっさい 《まつりという政治 つまり 精神の政治学》は およそ《おおきな自然》の過程と ちっとも 離れていない。そういうふうにして ことばでもって 自己やその社会生活を人間が たがやして来た結果(成果)であることをも 物語っている。おおきな自然は 四角く区切られ 内部分裂してしまったわけではない。精神の政治学は 無力だが 無力として・またなぞにおいて この《おおきな自然》いっぱいに ひろがっていて 不思議でも不都合でもない。そうして 《基本主観》は そのような普遍的な自然過程(つまり 歴史社会)との関係は 自らの無力として なぞにおいて 成り立つ。独立主観は そういうかたちで 自由で有効である。
《基本主観》の精神を もう少し詳しく分析して把握しようとおもえば かんたんに結論だけを述べると 政治(自治)は 《意志》の能力であり 行為である。ことばをたがやし 認識し この知識を活かす《知解》の能力と行為が ほかにある。《意志》によって 《知解》をおこなうとき 人は《記憶》の能力と行為にもよっている。意志が《政治》とよびうるとすれば 知解は《労働(経済)》であるが 記憶は一定の《組織・秩序》と対応させて捉えうる。《政治‐経済‐秩序(法的な経済制度)》は したがって 《社会――社会という自然――》の範疇で おもに用いられる概念でもある。
わたしは 生きている。その《記憶》。わたしはわたしが生きていることを 知っている。《知解》。わたしは生きる〔ことをおもう〕。はなはだ素朴に その欲求としても 《意志》。精神の基本主観は この三つの行為能力を持っている*1。この能力による行為は 環境としての 自然および社会に対して 《経験領域》を形成する。環境自然および環境社会に対して はたらきかけたその 静態的に見た一段階・一結果状態は 《経験行為事実》としての自然であり 社会である。
記憶・知解・意志から成る精神の基本主観は とうぜん 《自然》として なぞを持っていた。精神の政治学するとき これを 《まつり》と知解し 記憶するのである。科学客観的にとらえると のちの概念内容から判断して 政治は 《警察》とか《管理》とかとしての《自治・共同自治》ということば(politeia)らしい。これは まさしく 《経験》科学的に 経験領域でとらえているのである。時に 特に そこですでに 発生していたところのデーモン関係 への管理・共同自治といった捉え方としても 考えられる。このデーモン関係の発生は 《まつり》という概念を 共同自治の過程のなかに見ることを やめたかのように・時間をとめてのように 念観し観念としてとらえることによる。それは 《まつり》としての社会生活を 対象化し客観的に認識しようとした結果(つまり 文化の一環)であると同時に この客観認識が 突出することによっている。突出のしかたは なぞの中から意味を取り出し この《共同自治》という意味そのもの=つまり観念 に憑き 対象を客観化して捉えたいという欲求において その欲求そのものの意味=つまり《主体性》という観念 にやはり取り憑き これらの意味または観念をさらに念観しようとするとき やがて 《共同自治=まつり》を自己が 自治したい・だから 支配したいという情念を持つところに 起こる。すなわち 《デーモン関係を 自分が一個のデーモンとなって 統治したい》という一つのまつりの形態があらわれる。これは 観念のまつりであり まつりごとであると考えられる。
すなわち 社会形態的な警察だとか行政府による政治だとかは はじめの科学的な概念が その適用の仕方を変え 範囲をひろげていって 出来たものであるだろう。科学は 観念の整理だが 整理された観念を 概念として(概念過程において)使うぶんには その補助手段たる役目を すなおに 発揮している。《まつりごと》は そうではなかろう。これは 明らかに 《まつり》という精神の政治学における共同自治の概念を 客体的に――言いかえると 自分は この《まつり》から一歩ないし二歩はなれていて そこから捉えて―― 確認するときの観念である。まつりの概念に この観念のシャッポができあがるわけである。ヨーロッパ社会における古典概念的な行政府も 形態的に科学客観的に見ると シャッポである。そして 観念となるかどうかは そのあとの問題である。なる場合もあると考えられる。
また 意志行為としての政治は 性の問題としては 特に愛である。このゆえにと言ってもよいように 《まつり》としての政治も 感覚的ないし情念的な要素が入らないわけではない。入れば それは デーモンだが――つまり すでに謎を どうにかして・なんとかして 明かそうとするまでに 意志の思いを概念に込めるから――だが これを それほど排斥する必要はあるまい。まさに 独立主観としてのその人の意志=政治の問題であるという範囲では。とうぜん 《まつりごと》の政治には 情念が入るわけである。ふたたび この点を整理すると その政治家はまず まつりの《意味》を確認する。そしてかれは ここでむしろ 情念の経験領域から もっとも遠いのである。問題は これを 補助手段としておこなうかどうかにある。補助手段としておこなわない場合は 確認を 確認じたいのためにおこなう。確認のために確認をおこなうのは 確認行為を《自己・わたし》としていることである。その《わたし》は すでに《まつり》からそれている。まつりを対象化して認識するため〔だけ〕ではなく あたかも情念の火をみづから燃やして まつりを自分のものにしたいと考えている。そうでなければ 補助手段として 科学しているはずである。
すなわち 政治家は このような《意味と情念》を 精神として・つまり それは 観念的な精神として この観念・つまり自分を 《まつり》の上におおいかぶせようとする。そうでなければ 生きていられないと訴えたわけである。ふつうのまつり・社会生活にも デーモン関係は発生するであろう。このデーモンに かれらは あたまをやられてしまったのである。アレクセイ・カラマゾフのように 《潔癖》だからなのであろうか。ふつうの謎においてのかたちでは いやだと言ったことになる。なぞを明らかにしたと思ったとき この観念で かれらは 立った。頭で立って わたしたちのまつりごとという観念を 武器としていた。この観念のデーモンの武器がなければ ふつうのまつりの中でデーモン関係に耐えられないというのだったから。
わたしたちは このような魂の弱い人たちに対して そのかれらが帰ってきたとき 譲歩した。まつりごとという観念は もともと まつりという概念〔過程〕であったし おそらく かれらの客観認識じたいは ただしかった。つまり 少なくとも 正しい客観認識をもって 帰ってきた人たちに対しては 譲歩するときに――すなわち わたしたちも そのかれらの新しいデーモンに対しても 逃げないというぶんには―― まず 好きなようにさせなければならなかった。かれらの基本主観のありかたがそうであるところの生活を してもらうより 方法がなかった。かれらは だから 実際 まつりごとという客観認識をもっただけではなく これを 観念のちからとして まつり過程にかぶせることを 自己の存在とさえしていたのだから そういう位置にいてもらうより ほかになかった。デーモン関係――つまり このときには新しい階層的な関係となっている――を やはり どうでもよいものと捉え かつおそれるわたしたちは その限りで かれらと手を結んだ。かれらは 政治の頂点にあがっていった。また わたしたちも かれらの自然本性・基本主観を尊重する限りで――だから デーモンと手を結んだのだが―― こうして政治の頂点に上がっていった人びとに対して 《あがめまつり つかえたてまつる》ことを おこなう。ふつうのデーモン関係をもった《まつり》の過程(市民社会)の上に あたらしい観念のデーモンが 立った。まつりは このまつりごとを いただいて 階層構造をとった。二階建てとなった。上層の政治界は むしろ なぞを明らかにして そのゆえに いっぽうでは 初めのなぞをなくし 他方では より深い混迷のなぞをもってのように その《意味と情念》の観念体系をもって 君臨することが デーモン関係の正しい管理・統治だと考える。もっとも だから かれら観念の政治家は なぞを廃止してしまったのではなく あたかも 自分たちはその秘密(自然のなぞ)を明らかに知ったが 人びとは 《まつり》過程として持っているようだからと勝手に言ってのように やはりこの上層政治の世界で 観念のまつりを――だから 二次的な模倣の儀式として―― おこなう。つまり 自分たちが これをおこなうことによって この世は やすらかであると考えた。はじめの《おおきな自然》に そのような観念のまつりで 仕えていると思い込んだ。たしかに 帽子である。
基本主観は なぞをもった自然のなかに 自分が存在していることを知っている(記憶しており これを思い 意志している)。そのとき 後行する経験領域は 後行するといっても 同時一体なのであるから そこで 観念の停滞 意味や情念のデーモンに 出会わないのではない。私たちは 弱い。弱いとき つよいのであるが――無力で 有効なのであるが―― このデーモンに対して ただちに 強くあろうとして 知解(労働 つまりは お金)に頼る魂の弱い人びとがいる。かくて これらの人びとは 勤勉である。やがて なぞの意味を すべて 知ったかに見える勤勉は 科学であり文化であり 生活の勤勉ですらある。そのあとに まつりに戻ってくる。そのあとに 精神の政治学をおこなおうとする。ここに 現われた政治学は 観念のデーモンによるまつりごとであったのだと考えられる。
基本主観がまつりごとをおこなうのではなく 基本主観の知解がまつりをおこない まつりの知解が基本主観するのであるから。まつりは 概念過程(過程における概念またその実態)なのではなくなり まつりごとという観念として かさあげされている。また 転倒している。自己自身も 上へ二階へあがっていった。観念を知っていること また その観念の知を説く声が大きいということ このようなかたちの文体をもって だから そのことのためにそのことをするというデーモン(鬼)となって こんどは むしろ そのことの見返りに かくも偉大なわれらを 人びとよ あがめまつれと言って。このような階層構造的なデーモン関係こそが デーモンの克服の道であって われらは これをマスターしたのであるぞと。これらの《観念の人》たちを かれらによってまつられた基本主観の人びとは たしかに デーモン関係がどうでもよい必然有力である限りで まつりあげることを余儀なくされる。あるいは 《観念の人》たちは そういう必然的な仕組みになることを 読んでいたのかもしれない。いづれにしても 人びとは デーモンと たたかっているのである。基本主観は 三行為能力をもって無能力ではないが なぞの無力であるから――なぞが 明らかになるならば 言い換えると なぞの愛じたいとなるならば それは 依然 なぞの無力であると同時に ちからそのものでもあるが―― 観念的なまつり・つまりまつりごとのデーモン関係は 鼻たかだかとなるであろう。そういうかたちでも 人びとは たたかっている。このあと デーモンが踊り出すことを わたしたちは 知っている。この何もしないたたかいの過程で デーモンが踊り出すことを わたしたちは 待っている。基本主観の精神の政治学としては これである。
逆立ちしているのであるから 新しいデーモンも 容易に 足が(あたまが)ふらついて おどりはじめるであろう。これに 千年 二千年という時間が ついやされたとしても。無力の有効性なら それくらいの時間を必要とするかも知れない。はじめの素朴な・また素材としてのデーモンは 個人間の一面的なものだが あたらしい観念のデーモンは 同じく基本主観どうしの個人的な関係であることを大前提として しかも 明らかに社会構造的となっている。いわば あらゆる人びとの起こりうべきデーモンを よび出しているのである。政治の頂点に立って。呼び出しおわるまでは この帽子が必要であろうと考えているはずである。この観念体系に対して あらためて科学が 興隆してくることを待たなければならなかったし 観念のまつりごと体系の中で その政治構造が定着すると 出来上がったいわゆる身分制としての人びとの文体過程に対して もともとの自由な文体の展開を 主張し 上の科学とこの自由な文体展開とで ひとまず 観念の政治構造の中で 風通しをよくしなければならなかったというふうに 進んできたから。
基本主観の精神の政治学が 有効でなかったわけではないのである。デーモンが たしかに経験的に 有力であったというのみである。しかし いまも 有力である。わたしたちは 有力なデーモンに 基本的に かかわっていないから――基本主観には 相手の基本主観との関係で デーモンもかかわっているのであるから―― 経験必然の領域で 鬼のようにならなければいけない。鬼となってのように 文体を ことばの自由化のもとに いださなければいけない。
保証は 《自然》 そこでの自己到来にある。自己が文体しなければ 観念の自己をふりきって自己に到来したわたしが 政治学しなければ デーモンとただお遊戯をくりかえすのみである。それでいいと言うのは あまりにも 神秘的である。あまりにも 人間的である。科学が 万能だと言い また 科学が万能だという観念で 《自然》のなぞをなくし 概念は・ことばは 堕胎させられ または 永遠の胎動をくりかえすのみとなる。科学を・また人間を 保証する《自然》が ひっくりかえっているのだから。人間の精神だと見えるところの・けれども実際 肉的であるところの《観念》が だから《観念の自然 / 観念の人間》が 誕生をはたし 生きているかに見えるのである。
受胎である概念は たしかに 観念の受胎 人工授精〔という観念によるところの自然過程〕を 引き起こすまでにいたっている。
《まつり》である精神の政治学は じっさい このくわしい科学的な知識をもたないでも 共同自治をいとなんでいる また いとなんでいくと考えられる。《まつりごと》である観念の政治学は 人工授精でいいとか悪いとか どう主張するにせよ どれだけ倫理(《経験領域》の自然法則)を考えあっていっても 逆立ちしたままである。なぞをなくしている――すべてを明らかに知った――と言っているから とうぜんこれを見ないで あそんでいるだけである。世に言う《政治倫理》も おなじことなのではないだろうか。観念(観念の停滞)が 敵ではないだろうか。
この観念を信奉するところに 自然のさかだちが つまりは 人間のさかだちが 起きているのではないのか。科学は 科学が これを補助するために 使われているかのように見える。
自然本性の研究である哲学 環境自然の研究である自然科学 そして 社会科学 これらの細分化への専念 つまり 全体の自然への断念 こういった情況を わたしたちは批判しているのであるが それぞれの研究の便宜的な専門化じたいが問題ではないから 政治を問題にしているのである。基本は 精神の政治学。経験行為事実の歴史的な一段階・一形態としては いわゆる国家的な政治。そして 敵は これらの概念を 停滞させ ずらして捉え(もしくは 停滞の事実をずらして 動態だと)確認しようとする観念のデーモン。精神の政治学も 社会の――いまは 国家社会の――政治と じゅうぶん基本的に その限りでは つながっていて はじめの《まつり》を 観念の《まつりごと》とすることによって 国家という社会形態も生まれた(堕ろされた)のだと考えるが それでも この国家が必ずしも敵ではなく 観念のデーモンが それである。国家論が こうであるならば そういうふうにして(つまり デーモン関係の問題として) 科学とも 通底しうると考えられる。これは 第一章のウェーバー論からの問題である。もう一点は 文体の性 ことに 女性論とも やはり通底しうると考えられた。
わたしたちは なにか 理念を つまり 或る星を めざせと 言ったであろうか。わたしたちは 自分たちが なぞの自然における基本主観として 有効だと見たが ただちに有力だと言ったであろうか。けれども 観念は 無効だと言ったのである。無効が 実効性をもって デーモン関係は 有力だと言ったのである。ここでは 一般的に 《政治》の問題である。
《女性論》と《政治》とは 愛つまり意志の 問題である。《科学》は 補助手段でもあるが――したがって 補助手段を補助手段とするところの意志の問題にちがいないが―― 知解〔そして むしろ 経済〕の問題である。記憶は ことさら 論じなくてもよい。そして むしろ 記憶は 知識を覚えているというその意味での科学の問題と見るよりは 自然のなぞ・なぞの自然(さらにまた それとしての秩序)を言っていると捉えたほうが よいように思われる。

これまでのまとめ と展望

ごくかんたんな見取り図として 

  1. 精神の意志行為は 精神の自治として 文体の性(女性論あるいは家庭論)および広く政治(共同自治)にかかわり
  2. 精神の知解行為は 精神の耕作(文化)として 生活における仕事・経済または科学(だから これは 仕事の補助手段である)にかかわり
  3. 精神の記憶行為は 精神の自己到来として 広く自然または具体的に社会〔的な自然〕の 特にはただちに明らかでないところの秩序にかかわっている。

テーマとして 科学・女性論・政治の三つで 文体の問題をおしすすめようという考え方です。また 抽象的に――ただし 同時に もちろん具体的な行為にかかわって―― ことばの自由化といったせまり方。敵は 観念のデーモンである。敵とことさら言うのは このデーモンが ここでの三つのテーマにかんして 一貫して 有力であると見る限りにおいてなのである。経済は 経験領域ないし経験事実行為として つねに 基礎であるはずである。すべて自然の精神の政治学であるという限りで 基本主観ないし自然本性つまり人間は それとして 中心である。それとしてと言うのは すべて自然のなぞのもとにおいてということである。また この わざわざ なぞを言うのは 概念――自由に展開されるはずのことば――の観念化・そのデーモン化によって 概念は 概括的に過程的に 用いられていくにすぎないことが 分断され停滞してしまう その意味で 概念を用いる主体の基本主観(わたし)というなぞが 消滅してしまう このいきさつで《なぞ》を立てる。わたしという存在が 観念となり 人間というものという理念となるとき わたしがそれを文体において用いてすすむところの概念が 固定してしまう。これは 逆に言えば 大いなるなぞだが むしろ はじめに 《自然》に なぞがあって なぞをとおして ものごとを明らかにしつつ すすむと見たほうがよいという意味合いで。
おおよその見取り図は こうであって これまでの議論は わたしたちの基礎理論でもある。
政治は つまり精神の政治学は 科学的な基礎理論を 一般に 知らなくとも 成り立つ。成り立つというよりも 現に 過程され 生活のなかにある。ということは 文体の基礎理論は 自己到来の過程そのもの・ないしその補助過程(?)であって この限りで 基礎理論の文体が この種の議論にあっては 文体そのものの展開であるはずである。このことを むしろ いばって のべたとするなら たしかに基礎理論的であったのだから 応用 というよりも やはり基礎理論を もっと具体的な問題と関連させつつ つづいて 議論することができるはずである。できるにちがいない。
つまり 現在の・現代の 科学・女性論そして政治である。政治(だから 広い意味にとって)を さらにこの中でも 焦点としていきたいと考える。だから 広い意味なのであり それは 現在の 政府のいきかたを 考察の対象とするが 広い意味というのは やはり 敵は 観念デーモンによる政治――そういった抽象的な考察対象の側面――にあるという性質は のこすものと考えられる。その意味合いで 三つのテーマを 取りあつかうはずである。
わたしが 日本の政治をよくしたいというとき 精神の政治学を 問題にしているのである。これは 科学論・女性論と 切り結びしあうだろう。わたしたちが 女性の社会的な問題を 政治が政策として 制度として どう扱うかを見ようとするとき それは 精神の政治学を問題にしている。すなわち 政治家が・また一般にわたしたちが どうそれぞれ自己到来しているか。また それゆえ 文体にかんする議論である。科学も 社会科学の女性論も 社会制度的な婦人問題をあつかうとき その文体・精神の政治学のあり方を ここでは 考察していこうとする。
ということは じっさいに言って 基礎理論を 具体的な問題にからませて 考えていくというとき すべては 過程的な文体のおのおのにおける展開の問題に尽きる。たしかに 具体論が必要だが この具体経験的な領域は 先行する基本主観(また その場)と同時一体であり かつ しかも それに後行するのである。後行するのであるから きわめて抽象的に また 時には 逆説のかたちで 神秘的に見えるかもしれないその 精神の政治学が ほんとうは すべてなのである。無力の有効として。
こういういでたちで 次章から ふたたび 出発できればと考える。
(つづく→2005-01-25 - caguirofie050125)

*1:記憶‐知解‐意志の三行為能力等々についての議論は アウグスティヌスに拠っています。

アウグスティヌス三位一体論

アウグスティヌス三位一体論