文体―第十四章 観念の放射線
全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
(2005-01-18 - caguirofie050118よりのつづきです。)
第十四章 観念の放射線について
概念がことばであるとすると 観念は ことばの切り売りである。
あらためて概念整理
《自然》という概念は――いま ひとつの解釈として―― 人間の観点から言うと 《なんじみづからを知れ》というときの《みづから》のことだと思われる。《身つから》というより 《己つから》といったほうがよいかも知れない。もっとも《み(身)》は 物体的な《からだ》とは違うことばだから 《おの・おのれ(己)》の存在という概念内容を持ちうるのかもしれない。《みつから》というのは 自己の族・自己の関係のことだと考えられる。《つ》は 連体助詞である。
《自然》は 自己の内界をふくめたところの環境 に対する《おのれ / 自己の関係》のことである。
自己の内界・外界をふくめた環境は 客体である。自己は 主体である。ここで《自然》ということばを持つのは 主観である。客体としての自然を要素・要因ごとに あるがまま起こるがままに 主観が認識するのは 客観である。
客観は客体の世界に対する主観の表現過程にある。(表現過程にあって認識する。)《自然》というひとつの言葉も この客観の始まりである。《自然〔本性〕》は そういうときの《おのれ》という主体である。もしくは やはり《自然》として おのれが見た環境客体である。
《おのれ!》とののしって発することばは したがって 《自然にかえれ》とか《なんじ自身を知れ》とか《客体環境を 客観的に見てみよ》といった意味内容のことを いまでは無作法に主張するものである。
《自然 / おのれ / おのつから》というのは 概念であり ことばである。しかも このことばを持ち この概念を用いる主体のことを言ったものである。《おのつから》というときには 自然の関係 また 自然に対する関係をも 含んでいる。《から》が 《族(うがら・やから・はらから)・関係》のことである。東京カラ大阪への カラでもある。血筋・出身の意より出たものらしい。この言葉を発するのは 基本主観である。それは 《わたし》であるが その基本主観をとおしてである。人間は 時間的・歴史的な存在であるから この先行する基本主観に後行するところの経験領域をもっている。この後行領域は 先行する基本主観がある言葉を発するその同じときに 基本主観につながっている。だから 《おのつから》と言って《自然の関係》を認識し表現するとき そこに同時に 後行する経験領域を 持っている。つまり 自己の《からだ及びこころ》の感覚的・経験的な過程に じっさいは はじめから ある。《からだ及びこころ》を客体として言えば そういう自然である。つまり特に外界としては 物体的な自然環境である。もっとも 《こころ及びからだ》といった内界をも含めているから 他者のそれらをも 《自然の関係》ということばで 表わしている。つまりこれは 《人間の関係 / 社会の関係》で おおよそ一義的に ありうる。《おのつから》を《自然に対する関係》ととる場合も おなじである。つまり 《自己の心および体に対する》《自己の心および体がそこに位置しているところの自然環境 そして社会環境 これらに対する》かんけいである。
人間については《自然本性》 環境については《自然》 人間関係の環境については《社会》とそれぞれ言うのが よい。これらすべては 《自然》――生きた自然また人間が文化すべき自然――である。
このことば《自然》は 概念である。後行する経験領域をたずさえた基本主観が 生活するとき用いることばである。そしてその基本主観の《自己》をも言っている。つまり《自然本性》というばあい。
広義の《自然》はなぞを持っていた。言いかえると 《自己》はその由来を知らない。客体的な自然過程としての 存在ないし行為の 原因および結果を知っているとしても。この客観的な認識は 科学とよばれている。客観的な知識たる科学を用いて 人は 自然本性および自然および社会の成り立ちを知り 生きる。その知識の活用は しかしながら 生活に後行しているのである。生きることは それ自体に先行するものを知らない。または なぞとして知っている。科学を駆使して 知ろうと欲するが――あるいは 知りえないとして 明らめるという態度をとるが―― このとき いづれの場合にも なぞが残ると思われる。この意味で 《自然》はなぞを持っている。
つまり 《自然》は 人間の用いる概念であり ことばである。文体は過程的であるというのが 文体の第一原則であった。人間の自己たる自然が なぞでありうるということは 先行する基本主観が後行する経験領域とつながるその仕方 これが なぞであるということだ。それを ことば=概念を発することをとおして わたしたちが になっている。最終的に担いきっているのではないと思われ だから無力であり しかも基本的に有効・自由なのだと考えられる。このなぞの部分――《こころ(精神)において 先行の理性と後行の感性とのつながり方のなぞ》そして《このなぞを ことばによる表現で担っていくときのわたしたちの 無力の有効というなぞ》――がないとすると 一方で あるがままの自然過程としての心情倫理によって 他方で それの客観認識としての科学の知によって これらのいづれかによって わたしたちの生活・社会活動は 難なく 律せられるはずである。またそれら二つを合わせ持つならば わたしたちは まったく思うように考え知ったように 生きることができるというものである。つまり このことは わずかに骨組みとして(図式的には) 客体のなかで 自己をも一つの客体を見るところの主体が 客観的な知識を用いて 生きるときの主観のことを言っている。主観の表現内容たるこの骨組みは 一般に文化であるが ここにも謎があって 文化(特には科学)の骨格によって それは 区切られているのではない。
《自然》は したがって この文化行為をふくみ そういう主観の表現内容であると同時に 主体・主観の存在じたいを把握しようとすることばである。ことばは 概念として(概括的に・つまり過程的に 把握する思念の形態として) くりかえせば 経験過程的である。《自然》ということばは そのように経験過程的であると同時に この過程をいま生きている《わたし》のことをも 捉えようとしている。ここでの《わたし》の確認は したがって むしろ自同律だから 《わたしのわたしへの到来》にすぎない。《自然本性》と言って自覚するわたしは 自己到来であるから 客体的な存在の確認であると同時に 主体の主観的な自乗である。ことばは ここでは そのように用いられている。
では 観念とは
ことばの――たとえば《自然》ということばの――客体的な確認は 観念である。概念を概念として確認・把握するのである。環境としての《自然》とか《社会》とかを指すばあい 特に この概念は 観念となりやすい。
自己到来し自己の連乗積をつくるときのことばから 離れるゆえである。なぞを持った自然を――つまり自然は なぞを持っているそのことのゆえに――わたしたちは耕すから 狭義の自然とか社会とかのことばは そのときの手段であり 耕したあとの一つの結果また主観の情態をあらわす。手段たる概念の確認は 観念である。主観の一つの(また一時点での)思念の形態である。耕したあとの一段階における文化的な結果情態 これの確認も 観念である。概念のばあいは すでに確認したところから出発しているから。あるいは概括的に・過程的に把握して その確認をこのいま同時におこないつつ 出発しているから。つまり概念を 客観的に吟味し客観的に確認していく作業は すなわち観念の整理は 科学であり 文体の補助手段である。生活の補助手段である。その補助手段として 交通のルールにもなる。
概念の確認 つまり観念の整理すなわち科学行為を 概念の活用をとおして生活するその過程で 同時に おこないうるならば それに越したことはない。むずかしい場合 むずかしいから 生活一般の中で科学作業が 専門化する。科学作業じたいも その中で 分業化する。
科学は その知識の客観性をもって 生活一般にたいして補助し この補助は 有益であるから 文化行為の中核でもある。生活をたがやしていくのは とうぜん 科学による。むしろ生活は いつも 科学的な成果の出るのを待っているのではない――待たなければ動けないのではない――というときには 既存の概念ですすむわけである。古い概念を確認して つまりそのような観念で なおかつまだこの概念の客観的な整理の出ないまま すすむ場合もでてくる。これは 科学が補助手段であり なぞをもった自然の文化行為・社会生活の全体的な過程に従属するというはじめの素朴な存在形態によっている。
ここで問題となるのは 文化がすすみ科学が発展した段階になると この《既成の概念で 生活をすすめる》というありうる行き方は じつは 既成の概念の確認であるところの観念によって すすむとなりうる。しかも 既成のこの観念というのは すでに整理されたもの・すなわち科学的な概念ないし観念でありうる。いまでは ほとんど そうである。つまり 《科学の客観的な認識整理を待たないで 生活をすすめる》ということは 《補助手段である科学の――それまでには整理確認されているところの――概念ないし観念によって すすめる》ということになりうる。
きわめて粗雑なかたちで言えば 観念ないし科学の 生活に対する優勢・支配のことである。観念によって人びとが 生活を社会を推進していく文化的な経済的な成長過程という一面が ここにあり 今日では この観念の資本が 社会全体のまた世界全体の或る構造的な形態をとっているように考えられる。後行する科学が 生活に先行する状態であり その主観における情態として。しかも 科学は文化行為として 自然の過程であり人びとの精神の所産である。観念の資本も 生活の素朴な第一次的な資本(経済行為)過程とおなじように わたしたちのものである。しかも ここでは 人の用いるべき《自然》という概念が 後行する補助領域において確認され 観念として整理され この整理された観念体系が 先行する自然を支配してみちびくような精神の(自然の)一形態・一構造となっているかに見える。
整理された観念は もちろん概念として 用いられる。ただし わたしたちは概念を 観念として整理していなくとも 用いてすすむ。つまりその場で――できる限りではあろうが――整理しつつ 概念を用いていく。それは 生活が先行しているということであり また 生活はなぞを持った自然過程として いとなまれるゆえ 科学的な観念整理ないし観念体系を どうしても待ってでなければ すすまないというものではない。そしてむしろ 観念体系のもとに 生活をすすめるのでは 基本的にまったくないと言わなければならない。ここで 科学の分担する補助的な役割りが 有効で有益になるのだが 現代の社会生活は科学による整理・判断を 待っている。
こうである。わたしたちは わたしたちがなぞを持った存在として その広く自然をたがやしていくが それは 自然がそもそも自己到来(そこには 客体視した自己の確認を含むが)のことであったから 観念として整理されていない概念を あやまって 使ったとしても その主観・主体たる《自然=わたし》が ゆたかになること ゆたかに生活していくことを 目指している。すなわち 自己の政府として 政治学する精神が 基本である。先行基本としての成長とか文化・つまり《自然》の過程である。観念は ここには ないのである。
観念は ここには ないのである。ことばを出すという文体の展開が 先行基本である。どこまで行っても これである。つまり 観念は ここにはないし 概念をもはやわざわざ確認し これを思念しているわたしは いない。この基本過程へ その補助領域から いってみれば客観整理された概念が あたらしく生産されて供給される。観念は――概念の念観は――この基本過程の場にとって 対岸の火事である。わずかに 対岸で火事(観念に対して心情倫理で燃える)が おこっていること それを見て聞いて 文体のコミュニケーションとして必要ならば この観念を用いる。また この対岸の火事が 或る観念体系が 歴史的・文化的な成果であると自己を誇り主張して この基本過程の場にまで――あたかも幽霊のように――あらわれ 情念と意味の構造として おおうまでになっている。そしてむしろ おおいつくしたなら 人びとによって 必然有力の過程で その観念のことば自体は用いられ しかもそれが 精神の政治学にとっては 骸骨でしかないことが 明らかにされていくであろう。
科学の研究そのものの領域で その観念整理の成果を発表するとき その論文等において 科学的に固有の文体の形式があるのかどうか それは わからない。どうでもいい。どうでもいいから おそれる。その意味で わからない。決定できない。しかし 観念は あらゆる観念(ないし念観)は 精神の政治学=《自然》の文化過程とは 無縁である。わかりやすい例として いわゆる自然科学の客観認識・概念整理は 《自然の文化過程》として ほとんど無くてはならない補助手段である。けれども たとえば《亜麻 / 亜麻布 / 上衣》などといったデーモン文化じょうの観念(その価値形態)とは 無縁なのである。対岸の火事として またそれが此岸にやって来て社会を包み込むデーモン関係構造となったものとして これらの必然の領域のものとしては 認識してもいる。また ことば自体は はじめの概念であったものでもあるからだ。――観念の整理も じっさいには 概念〔過程〕の停滞になるおそれがある。つまり 停滞をおそれないで 整理していくばあいがある。観想(ないし理論行為)とか 実験とか 文献資料の調査・解説とか フィールド・ワークとか そういった科学の研究行為に 観念(念観)は 無縁である。概念を 観念として用いていく文体過程の停滞は 生活の自殺である。自殺が――それはデーモン行為だから――流通しだすと 対岸の火事が 此岸にやってくる。
概念の作業 による社会の推進 これは デーモン作用とはいえ 精神の所動しかも基本主観の所産であると考える。つまり 後行する感覚的・経験的な精神領域によってではなく この精神の後行領域を先行させようとする精神の先行領域によって起こると考えられる。すなわち 観念主義という精神の問題は そういうふうにして 肉的なものであるだろう。概念過程の停滞は 肉体にもとづいて停滞するのであるが 肉体がわるいのではなく 基本主観がつまづいたのである。観念の示唆する或る概念を――もともとはそうであったのだから その概念を―― 無時間化するのであり これを或る星としてめざしているというその態度(ポーズ)をしめせば わたしは生活していると言い張る肉体主義にほかならない。
観念は わたしたちの敵である。肉的な自然の 経験領域に 自己を停滞させて なのにわたしは生きているとうそぶく悪鬼なのである。この科学のデーモンは 女性論におけるデーモンである。女性的なものとも言うべき知恵(生活の基本主観)が 科学的・客観的に 《人間というもの》として見られ 女性は・そして男性も しりぞき 女性が・あるいは男性が 人間(基本主観)として生きているというのではなく 《科学的な 人間なるもの という観念》が いたるところに歩いていることになる。この観念という精神にもとづく社会の推進は 生活をさかだちさせ さかだちさせておいて だから精神の政治学だと言い その停滞を動態だと錯覚させ だから 女性でも男性でもない人間なるものが 生活していくのだと じっさい肉的に 主張し文体するおばけである。
《意味――概念の意味――》の観念は じっさい 情念である。肉的なデーモンである。このデーモンは放射線となって つまり物理学的なちからとなって 資本(社会生活)を形成していく。かのごとくである。この観念の資本の徒である人間となれば――すなわち そういったおばけとなれば―― 男も女も 自由で わたしたちは 科学的に生き この世の春をおうかすることが出来ると考えているように思われる。肉の自由化。
概念が受胎であるとすると 観念は堕胎である。概念が誕生であるとすると 観念は胎動にとどまったというデーモンである。いつまでもとどまるというそういった意味でのモラトリアム人間である。つまり 胎動だから おそらく自覚していないところのデーモンである。概念が生活であるとすると 観念は 死である。死ぬほうが 生まれないほうが 子おろしのほうが 人は自由だという精神の・つまり錯覚であるから肉の 生である。
科学は 補助手段としての役目で このこと〔にかんする生活過程〕を 客観的に明らかにしようとするが そこでは なお なぞを残すはずである。また すぐれた科学は なぞを残して 生活全体を論じようとするはずである。客観認識と両立するはずである。概念はたしかに滞留するはずであるが――概括的な理解であるから それをおこなう主体である自己の連乗積をこしらえて 滞留するが―― 停滞することを知らないから 科学に先行している。概念行為・ことばが 基本的に つまり基本主観として 科学の先を行っている。文体を科学・学問とよぶなら べつである。つまり 科学も 概念行為である。これを停滞させるデーモンがある。観念である。観念という肉である。
わたしたちは むろん肉的な存在でもあるから この肉のデーモンをも うけとる。対岸までわざわざ出かけないが こちら側で ぶつかる場合がある。これを受け取り その鬼となってのように 自由に(無力の自由に だからじっさい不自由でもある つまり不自由だが・それを知っているが おつきあいする場合がある その自由に)文体をいだすとき 観念のほんとうの鬼は 踊り出すであろう。わたしたちの無力。そしてその有効性の 勝利。
この過程の 過程的な管理は どちらかというと 女性がよくこれにあたる。もちろん男もそうするのだが 《決闘》にまで巻き込まれるかたちで 管理しなければならないことがある。いや あった。じっさい 客観事実もしくは客体事実として 原子爆弾が落とされるまでは そうだったのである。要するに デーモンの対岸の火事が こちら岸にまで及んできて おおきな構造の繭となるとき 文体の展開一般は 男性もひとしく これをおこなっている。
観念の放射線
概念の客体的な確認である観念が なぜ 肉であるか。客体たる自然に 主体の主観が のっかるからである。のっかりかたは おなじく 観念の放射線を発出することによってである。まず 概念の《意味》に憑くのである。肉の欲望におうじて 情念を発出する。情念をのせた 観念の放射線は 客体に対して(だから 他者という客体に対しても) 停滞させた概念の《意味》をはこぶ。堕胎させた死の概念をもって コミュニケーションをおこなう。そういう文体。放射線をもって 物理学的な 科学的な 客観概念だと 信じ込んでおり 人をも信じ込ませる。
信じ込ませかたは 脅しもあれば 催眠術もある。第三者を経由して この第三者をロボットにして 《意味と情念》をつたえさせる手口もある。放射線の共有が 《自然》の関係であり 自由な基本主観の共同体だと デーモンする。かれらは たしかに《伝統的〔な古い概念による〕支配》が好きでもあれば とりわけ《カリスマ的〔な 観念の〕支配》が いちばん好きなのであり しかしながら 《合法性――つまりやはり 法律となれば その合法性という観念が最高・不可侵だというその観念――による支配》から遠ざかっているのでは ない。観念の資本体制。ここでは 観念の放射線が 《自由に》 たれながされている。
わたしたちは この公害に対して 無力なのである。ウェーバーは これら三つの支配類型を観念整理して 《それにもかかわらず dennoch!》と言って デーモンとたたかう・はなはだ素朴な意味での英雄で わたしたちが なければならないと説いた。わたしたちは はじめの自然において 《それに〔も〕かかわっていない》のである。同時に 後行する領域で デーモンと――対岸からやって来たデーモンと――手を結びもする。ヴァレリーは この文体の基本〔主観〕を 精神の政治学と言った。わたしたちは ある種の仕方で 女性の・そして男性の それぞれ精神の政治学といって 区別した。放射線ないし電波は これを管理するのは むしろ女性にふさわしい。
そして じっさい 女性が 男性に対して 差別されるとき 観念が発生するのであろう。女性は わたしも人間(基本主観)であるぞと またそのとき男性が そうなのだよと それぞれ確認させようとし 確認を請け合う。このことが 観念的に《自由に》 おこなわれる。この観念の有力な自由の世界で《人間というもの》が発生する。つまり 最初から別の言い方をすれば 女性ないし男性が わたしは女性ないし男性であるとわざわざ 確認しなければならないようになっているとき――つまり観念ないし通念にわざわざ従って そうみなされているなどと 確認しなければならないようなとき―― 《意味》の観念が支配している。これに《情念》の味付けをして 発出すれば 観念の《おのつから》なる人間の関係。《人間というもの》というデーモンの見えない帝国。じつは コミュニケーションはここでは 放射線ないし電波によっておこなわれているのである。自己の 肉的な(つまり物理的な) 確認作業がその実態である。これが 共同観念の体制である。と思う。
わたしたちは だからわたしたちも 女性を男性と区別して――《人間なるもの》の観念に抵抗する場合には――つまりその意味であたかも差別してのように 始めよう。そこからでも ことばの自由化。
《支配の内的な正当化 つまり正当性の根拠の問題》(ウェーバー:職業としての政治 (岩波文庫))は 科学的に補助手段(経験科学)として 明らかにすべきだが なおそこには なぞが残る。《なぞ》の問題は 《おのつから》の問題だと考えられる。観念で 電波で放射線で このおのつからの自然の関係を打ち立てようとしているデーモン これをも なんなら科学的に 明らかにすべきである。《おのつから》のあとに 社会的な支配も起こるから。ここでは その点では 《観念〔のデーモン〕》による支配体制 これに注意を向けたいと思う。
わたしは 日本の自然における 日本の政治を論じているのである。この点を 次章に継ぎたいと思います。観念のデーモンによる政治における 人の人に対する支配は 男の女に対する(もしくは女の男に対する)支配と 《自然の関係》において 異なるものではないと見るから。
(つづく→2005-01-24 - caguirofie050124)