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哲学いろいろ

文体―第十一章 深追い記

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2005-01-12 - caguirofie050112よりのつづきです。)

第十一章 深追い記

マリヤ・イヴァーノヴナの言葉のおかげで私は目があいて いろんなことが一度にわかってしまった。シヴァープリンがなぜ彼女を目のかたきにして しつっこく悪口ばかりを言っていたのかが はじめてわかった。おそらく彼は 私たちが互いに憎からず思っているのを見て 水をさそうとしたのだろう。私たちのけんかのきっかけになったあの言葉は 今まではただ粗野な無作法な冷笑とばかり思っていたのに それがたくらまれた中傷だとわかってみると ますます醜悪なものに思われるのだった。
(¶4)

大尉の娘 (新潮文庫)

大尉の娘 (新潮文庫)

このプーシキンの筆になるひとくだりは たしかに デーモン関係をあつかっているのです 読んでお分かりのように。主人公の《私(ピヨートル・アンドレーイチ・グリニョフ)》は 侮辱に対して 確かに怒るのである。(カラマゾフ家のアレクセイは 怒らなかったそうです。)かれピヨートルにとって まだ分からなかったこの三角関係が つまりはそのようなデーモン関係が むこうからやってきたのでした。そして もしわたしたちも悪口を言おうと思えば このシヴァープリンなるアレクセイは たしかに 《情念と意味》の病いをわずらっている。
しかも 情念と意味の 経験領域たるデーモン関係は それとして 有力である。ドストエフスキーは この中に深入りしてしまった。有力なデーモン(風習・習俗)を利用する別種のデーモンを 有力なものとして つくりあげようとしたかたちである。もちろん はじめのデーモン関係の社会慣習が どうでもよく すでに無効で 無効〔の基本主観〕が実効性をもったにすぎないことは 百も承知だからであり これとたたかうためにということでさえ あった。すべて承知のうえでだったからであろうか 新しい別種の政治的文体としてのデーモンを 《カラマゾフ=黒塗り》のアレクセイとして 描いたわけである。
そこでの《聖と俗》ということは すべて 無効である。ドストエフスキーに 魯迅の宗教版つまり政治版を 見ないであろうか。
もう一度言うが 浅田彰は この《意味と情念》 その観念・その構造と つまりそのデーモンと たたかえと言ったのである。出発のはじめは そこからである。逃走しつつ・ずらしつつ・隙間を見つけつつ・ヘルメスの音楽を聞きつつ となっていた。
ロシアのこの観念は ソ連になってからにおいても 一般に同じ事情のもとにあるだろうか。同じと思われる場合をいちべつしておこう。長く引用する。

一九二九年から書きはじめられ 失意のうちに家にとじこもり 病気と失明の恐怖におびえながら生涯の最後の日まで それこそ精魂を傾けて完成させたブルガーコフの長編 《巨匠とマルガリータ》。
〔この作品〕は巨匠と呼ばれる作家とその愛人マルガリータの物語をひとつの軸とし 黒魔術の教授である悪魔ヴォランドとその一味である小悪魔たちによるモスクワの破壊をもうひとつの軸として展開される。
ユダヤ総督ピラトとイエスを主軸とする小説を書いた巨匠は 《キリストを賛美する作家》として作品を発表されぬまま 編集者 批評家からの激しい攻撃を受け 恐怖のとりことなって小説の原稿をみずから火中に投じ マルガリータとも別れて 精神病院に収容されている。
ある春の日の夕暮れ ヴォランド教授がモスクワに姿を現わすと あたかも巨匠を葬り去った者たちが復讐されるかのように モスクワには奇怪な事件が相次いで発生する。巨匠はヴォランド(ある種の見方で 《メフィストーフェレス》)の手によって精神病院を脱出し マルガリータと再会するが 《原稿はけっして燃えないものです》というヴォランドの言葉とともに《小説》も灰の中から蘇える。巨匠とマルガリータは永遠の住み家へと去ってゆく。
この長編は長いこと陽の目を見なかったが 一九六六年 作者の死後二十六年を経て 《モスクワ》誌に発表され ソ連国内で驚異的な成功を収めたばかりではなく 世界各国でも相次いで翻訳された。時間と空間の概念を破壊し 幻想と現実を鋭く交錯させて一九三〇年代のソ連社会の実体をあばき それと同時に 狂気ないし非合理的なものによって支配されるロシアに固有な意識構造に鋭くメスを突き刺したこの作品は 自由のために呪われた現代の人間の条件を暗示し 二十世紀ロシア小説の最大の収穫のひとつと高い評価を受けはじめている。
水野忠夫 1984)

デーモン関係としての《ロシアに固有な意識構造》 これは 措くとしても――なぜなら 簡単に論じることなどとうてい無理であるし また むしろ その一点として プーシキンの作品にあたったように《侮辱》を 生活の中で 生きた(?)デーモン関係として捉え そこで文体を展開するのではなく(つまり たとえば 怒る ほんとうに怒る それゆえ言葉になって出てくるといった文体でもよい ではなく) こうではなく ドストエフスキーの《アレクセイ》のように 侮辱という《情念と意味》なる観念としてとらえ これをいじくっていく そんな一つの具体的なデーモン関係の問題として 論じ進めたほうが よいと思われたから―― これは措くとしても

《時間と空間の概念を破壊し 幻想と現実を鋭く交錯させ》るというのは このブルガーコフの作品のなかで 《二十世紀のモスクワと 紀元前のエルサレムが 対比的に描かれている》ことに現われている。そしてそれは これも 《観念》――観念の資本というべきデーモン関係(引用者)――の問題だと思われる。《長編のなかに挿入され ヴォランドによって蘇えった巨匠の〈小説〉は二千年前のエルサレムを舞台に イエスの無実を信じながらもイエスを処刑したユダヤ総督ポンティウス・ピラトの苦悩を描き 聖書の記述にもとづきながら その記述を新しく解釈し直し それを変形したものである。
水野忠夫

要するに 《原稿が燃えない》ということ 《原稿という文字をつらねたもの・そしてその観念が さらに よみがえる》ということ これが わたしたちにとってのブルガーコフのデーモン問題である。
セルゲイ・エルモリンスキー(1900−  )が この作家ミハイル・ブルガーコフを 回想している。

ほとんど最後の日まで ブルガーコフは自分の長編のことを心にかけ あのページ このページを読んで欲しいと要求していた。
タイプライターの前にすわって エレーナは低い声で読んで〔やって〕いた。
《ほかのふたり(十字架にかけられた泥棒――泥棒!――たち)とくらべてもっと幸福だったのはヨシュア(イエス)である。ほんの一時間もしないうちに彼は気絶し やがて 巻き頭巾の解けかかった顔をだらりと垂らして 意識不明に陥ったのである。そのため 蠅や蚊が全身にたかり その顔は 黒くうごめく大量の蠅や蚊におおわれて見えないほどだった。鼠蠖部(そけいぶ)にも腹にも腋の下にも大きな蚊がたかり 黄ばんだ裸の身体から血を吸っていた。》
ブルガーコフは 身じろぎもせずに横になったまま考えていて たずねた。
《四・五ページ前に戻ってくれ。そこはどうなっている? 太陽が傾き・・・》
《見つけたわ。〈太陽は傾きかけているが 死は訪れない〉》
《そのさきは? 一行さきは?》
《〈神よ なにゆえに彼をお怒りなさるのですか?彼に死を与えたまえ〉》
《そう それだ》と彼は言った 《ぼくは眠るよ レーナ いま何時だ?》
あとは沈黙となにものによっても取り去ることのできぬ苦悩の〔最後の〕日々であった。言葉はゆっくりと死につつあった。・・・
(エルモリンスキー《ミハイル・ブルガーコフ》1982)

《神よ なにゆえに彼をお怒りなさるのです? 彼に死を与えたまえ》と言うというのは 経験領域のデーモン関係を 後行するものと見るのではなく先行させ どうでもよいものとは見ていない ゆえに これを恐れない。恐れるのは 観念のなかでである。《言葉はゆっくりと死につつあった》と見るといったように。死ぬのは――だから生きるのは―― 人間である。かれが ことばで文体行為する。展開して生き そして死ぬ。この経験領域は デーモン関係として デーモンの領域であるゆえ それに対して ことばで表現しつつ 生きる また それゆえ これを おそれる。ないがしろにしない。どうでもよい領域ゆえに 逃げないし ないがしろにしない。どうでもよいデーモンは それが有力になると やっかいである。これをわたしたちは知っている。そして おそれる。しかも それから 逃げる・逃げないとは まったく無縁である。
このデーモン〔の作用・領域――これまでの人類の歴史の中で 経験じょう このデーモン領域の行きつく先は 死である ことをわたしたちは 知っている――〕をおそれないような文体に対しては 個人的にも一般的にも《わたし》が侮辱されたと人は 感じる。ゆえに 怒る。批判する。《神が》ではない。わたしたちがである。だから 《死を与えたまえ》と言われても わたしたちは そんなどうでもよい領域のことがらで言われても 当惑する。《死ね》と言われたなら 侮辱と感じるか それとも それを言った人は 頭がちょっとおかしいのじゃないかと わたしたちは その人のことを ちょっと 思いやってあげる。いづれにしても 《もしそんな侮辱の念があったとしたら それに対してわたしたちは 腹を立てるわけにはゆく》のである。先行する基本主観が 腹を立ててはいないからである。この主観基本の精神の政治学には きよらかなこころよいおそれがある。
へんな迫り方ではあったが ソヴィエト・ロシアになってからの事情をいちべつし得たならと思った。プーシキンの《大尉の娘》=マーシャとその夫になるピヨートルとを わたしたちのファウストの系譜において とらえたかった。その他の人びとに対しては わたしたちは 疑いを解いていない。社会一般とか歴史とかは 経験領域であるから その限りで いまは なにも問うていない。文体論として 述べた。
浅田彰は この《意味と情念》の観念の資本を 日本人の中にも 見ていた。観念の資本というように――あたかもウェーバーが《利害関係情況》たる資本のほかに《エートス》を立てるのと同じように――想定するのは もちろん ウェーバーの行き方とは 別である。資本・社会階級関係は おおきく後行する領域として 〔少なくとも個人にとっては〕デーモン関係と わたしたちは見ている。このデーモン関係が 情念と意味とで念観され 交通の停滞する情況を指して 観念の資本と言っている。別の説明の仕方をすれば 社会階級関係あるいは一般に漠然とデーモン関係 これが やがて いづれ もしなくなると見るとしても まさにその後行する経験領域では ただちにではない。したがって 内なるわたしたちの精神の政治学は 停滞しなくても 滞留するであろう。わざわざ滞留するのでなくても 経験領域では デーモン関係のいま現在の有力の前に 無力となっている。だから この無力で はじめに《自然〔過程〕》であった自由で有効な基本主観を見る人は しかしながら この有効な精神の政治学を展開していこうという人も この有効(無力な自由の)を 別種のデーモン作用の有力として あたかもただちに 表現したがる。これは 無効であり このことを特に指し示すために 観念の資本という。エートスということばを用いるとすれば 当然 この観念の資本は 利害関係をもったエートスである。そういう思惟=行為の形式であり おおきくは文体の形式である。
《ロシアに固有な意識構造》というのは おそらく 《意味と情念との観念の資本》として 固有なではなく かつ その文明のかたちとして表現の現われかたが それぞれの土地に固有なのであろう。日本を見てみる。
かつて しかしながら この情念と意味の構造に対する日本人の怒りは 沈黙という一つの文体形式のほうへ向かっていた。ドストエフスキーは ああだこうだと 論じた。ブルガーコフにおいては その《言葉が死につつあった》と言う。わたしたちの昔の日本人は かんたんに言って 《言葉が死につつあった》ところから 出発したのである。

それは 人差し指ほどの大きさの青銅の十字架の板(Lignum Crucis)であった。
《これを 兄上は 頸から かけて居られた。・・・兄上は 自らが隠密であることをくらますために わざと この国禁の品を身につけて居られたのか?それとも 隠密という 世にも悲惨な職掌に耐え難うて 切支丹宗門に帰依されたのか? まこと心から 主でうすをあがめ その扶手(たすけて)ぜすすきりすとを礼拝し 天国(ぱらいそ)の在ることを信じて居られたのか? 如何だ?》
〔問われた〕静香は 目を上げて狂四郎を見かえした。瞳の中にはげしい不審の色が濃かった。
・・・一瞬 狂四郎の五体が飛躍した。
・・・次の瞬間・・・〔静香の体から〕右手に掴みとっていたのは その兄・修理之介が持っていたのと同じ十字架(クルス)であった。
《兄妹で はじめて洗礼を受けられたか それとも 家代々のかくれ切支丹か――。いや 問うたところで 返答はのぞめぬな。いずれにしても 尋常でない勇気を要する信仰だ。感服したと申し上げて置こう。》
(〈霧人(きりすと)亭異変〉1960)

眠狂四郎無頼控(上) 柴田錬三郎選集 (1)

眠狂四郎無頼控(上) 柴田錬三郎選集 (1)

柴田錬三郎は 《沈黙のなかの怒り》から さらにこれを超えたところにある文体・いや人物像として この《眠狂四郎》を引き出しあげたのである。
《神よ なにゆえにお怒りなさるのです?》ともし言わなければならないとしたなら それは この虚無の人・眠狂四郎に対してなのであって そのことは わたしたち日本人が 怒りかたがへたであることを 示している。
《あきらめの美徳》というやはり一つの観念に むかったことを現わしている。
浅田彰は ここで この観念を あるいはいろんな観念〔のデーモン〕を ずらせと言いたいわけである。

〔柴田〕氏が眠狂四郎を白人と日本人との混血児にしたのは 実は日本インテリを風刺するためだったのではなかろうか。

  • とすると 魯迅の日本版の問題でもある。

狂四郎は白人でもなければその母のように生まれながらの日本人でもない。これは言いかえれば 現在 通勤電車の往復で眠狂四郎をよみ会社で英文タイプライターを叩く我々の姿ではないか。しかも狂四郎と同じように我々もまた外国映画をみながら その人生観は日本的な運命感以外 なにも持ちあわせていないのである。
遠藤周作による解説:眠狂四郎無頼控(上) 柴田錬三郎選集 (1) )

遠藤周作が評するのは これも 一つのズラシなのである。遠藤は 《日本人の人生観》の経験領域の部分 これを恐れよと 時に 言っている。そのデーモン関係をおそれよと言っている。しかも ずらしたところで かれは おそれていない。ブルガーコフや時にドストエフスキーのように 《神》の意味と情念を その観念の世界で あたためること それは 《人間》の経験的な《運命感》を描いたり あるいは 対象化して認識しようと言ったりするのと おなじことなのである。盾の両面であり 遠藤は ちょうどこれら両面をえがこうとしている。おそれていないからでないなら なぜであろうか*1
浅田は ちょうどこのズラシの教祖である。とわたしが怒るのは わたしたちの愛すべき・わたしたちの持つのと同じ浅田の基本主観(存在)に 侮辱がくわえられていると見るからである。ここまでは 内政干渉ではなかろう。仮りに 支持の議論であっても ここまでは 内面に入っていく。この先行する内なる政府に対する侮辱は それを表現した文体を わたしたちは憎む。これは 徹底的に憎む。にくみを超えた基本主観に立つからである。

それに対して 夜の盗人の神ヘルメスは あらゆる審判者をはぐらかしつつ 地平線の彼方へと逃走することをやめない。彼は ゲームのリズムを突如として急迫させるかと思うと 比率をかき乱して恐ろしい不協和音を爆発させ その機に乗じて いかなるルールも通用しない外部の世界へと逃走の線を走らせるのだ。そのとき ヘルメスの軽やかな足の下で ゲームは遊戯となる。
浅田彰:〈戦争――ヘルメスの遊戯としての〉―ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)

憎しみをずらしてでなければ生きられないと叫んだのだと思われる。わたしたちの批判は 《審判》だと受け取るというのだと思われる。《意味と情念》の構造に対して――はじめは たたかう姿勢で相い対していたと思うのだが―― 上のようなかたちで 具体的なたたかいをおこなうと言ったのだと思う。

  • ほんとうに この《逃走》のやり方があったとすれば わたしの不明となる。ただし 情念と意味とのデーモン構造に 隙間はありえないとわたしは考える。避けるという行動は考えられると言ったところで 事態は 変わらない。

アポロンは光の神であり 光にてらして審判を下す者である。彼は 天の高みに陣取り ゲームがルールに則って正しいリズム 正しい比率を保ちつつ進行するよう 絶えず監視の目を光らせている。
(同上)

どの人間が この世で 《審判》をくだすというのであろう。だれが 《天の高みに陣取る》ような存在だというのであろう。隠れ切支丹が 隠れている必要のなくなった時にかれは 観念の資本(社会通念)の《監視》のゲームに こだわりすぎているのだろうか。俗に言って そのような監視のゲームに まいっている。まいっている人びとに対して 文体を提示するとき そのやり方では 別種の――その著者と読者とのあいだの――デーモン関係の線を引く。しかし この監視のゲームをただ《遊戯》に変えようというのは むしろ《監視ゲーム》を楽しんでいるふうにも見える。隠れキリシタンとか《国禁》の解けた世の中にあって。いな むしろこの監視ゲームの社会を 復活させたいということではあるまいか。《逃走して去った〈意味の不在〉のかなたから 〈意味の不在〉という監視の目が光っているぞ》と 暗に 言いたいのではあるまいか。ファウストは デーモンと手を結んでいるからには・つまり 意味と情念の構造にからまれているからには 多少とも この別種の監視に対して うしろめたさが生じるかもしれない。
アポロンはただ 新しいデルフォイの神託として 《なんじ自身を知りなさい》と言うのみである。基本主観 精神の政治学のことにほかならない。これを 審判だとか監視だとかと受け取る人間がいるというのみである。そんなにも《ただしいリズム・ただしい比率》が 《文化人》として 好きなのだろうか。
けれども たしかに こうなると かれは おそれている。経験領域のデーモンの頭領の監視と審判とをおそれている。このゲームを逃げおおせるというところで いっさいをおそれていない。アポロンは《そのあなた自身を知りなさい》と――ソクラテスも無論これを引き合いに出した―― ことばで 語りかけるのみである。もっとも 盗みは 罪であるだけではなく 犯罪でもある。そこで 閏土の自然は このような人間の泥棒は 泥棒のうちに入れないと言った。ゆえに そのどうでもよいデーモンをおそれる。そうでなくデーモンをおそれるところの人は デーモン関係のゲームに まいっている。
なにゆえに?
すべからく いま 死にたいとでも言うのだろうか。死ねば デーモン関係から自由になれると考えたのか。眠狂四郎の虚無を おれは見つけたとでも言うのだろうか。いまは死ねないが 眠っていたい・狂っていたいとでも いな お遊戯を楽しんでいたいとでも?――眠狂四郎の虚無が そんなに安っぽい遊戯だったろうか。

逆に ルールや法と結びついたゲーム 《意味の構造》に規制されたゲームとしての戦争(――デーモンとのたたかい――)は 重々しく威厳に満ちた主神たちの支配するところであり そこに君臨するのはミトラ=ヴァルナであり ユピテル(ゼウス)であり オーディンヴォーダン)であって インドラやマルスやトール(ドナール)がその傍らに現われることがあったとしても それは主神たちに従属する者としてでしかないのである。
浅田彰:〈戦争――ヘルメスの遊戯としての〉)

アポロン*2が言うのには 《すべての犯罪は罪であるが すべての罪が犯罪なのではない》ということである。デーモンをおそれるが それは どうでもよいと知っているからである。ゆえに 法がある。法の違反は 犯罪である。けれども デーモン関係にまきこまれたのだとしても プーシキンのピヨートルは アレクセイ(シヴァープリン)との決闘(これは ウェーバーにもその経験があるそうな)に応じ あえて破廉恥な・罪にいたる行動にもおもむいた。基本主観における精神の政治学が 無力の自由〔として有効〕であるからでないなら なぜであろうか。

ギリシャにおいても同じ対立を主神ゼウスと戦神アレスの間に見出すことができる。しかしまた別の見方をとれば ルールに則ったゲームはアポロンの領域 ルールの裏をかく遊戯はアレスやアレスと縁の深い神々――へパイストス アプロディーテ アテナ そしてとりわけヘルメスの領域と考えることもできるだろう。
(同上 ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)

法と比率の《意味の構造》が 飯よりも好きなのだとしか考えられないという見方をとることも出来るだろう。
なんでそうなのかと問うのは わたしたちの深追いなのかも。

おお きみは 
ヘルメスの
神にしませば
天雲の
いかづち(=ゼウス)の上に
いほらせるかも
(cf.三:235番)

万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)

万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)

(つづく→2005-01-14 - caguirofie050114)

*1:遥か夢の彼方から――遠藤周作論ノート――そのもくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

*2:詩《アポロンの生誕》を参照→[詩]単独行より - caguirofie041010