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哲学いろいろ

文体―第十三章 文体の性

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217 
2005-01-14 - caguirofie050114よりのつづきです。) 

第十三章 文体の性について

十二の章を終えて ここでわたしたちは べらぼうに すでに こう言いたいと思います。

あたり一面が洪水に見舞われた。そこに池もおおわれた。ならば ブラフマンにとって あらゆる知識(ヴェーダ)は この池のようなものである。
(¶2・46〔紀元前五世紀ごろ〕)

バガヴァッド・ギーター (インド古典叢書)

バガヴァッド・ギーター (インド古典叢書)

前章の終わりにかかげた《ことばの自由化》ということで このことわざを引き合いに出したいと思います。《ブラフマン》とは あらゆる人びと〔の基本主観〕のことでなければならない。《知識》は ヴェーダが経典のことでもあるから テクストというように表現しなおしたほうがよいかもしれない。
これまで わたしたちの文体の展開に対して 〔テクストの権威による〕保護主義―その前には 絶対主義的な制限・不自由――があったのである。よって ことばの自由化。こまかく具体的には 制限の解除。基本主観の精神の政治学が開かれ 《自己》の政府が あらわれる。池は池であり 川や海もそれはそれであるから 科学・学問も さらにそれとして 進められていくであろう。
自由化されたことばの表現は 経験行為としての文体である。文体は 基本主観により 表出される。基本主観が 経験的なもの・感覚的なものを受け取って その知恵が 文体をのべる。
この文体で 経験的なもの・感覚的なもの・またそういったデーモン関係を 切り拓いていくのは わたしには思われるのであるが 性としての人間関係では 女性ではないか。もしそうだとすれば いま上で触れた知恵というのは 女性的なものだと考える見方を避ける必要はないと思われる。――基本主観たる人間存在には 性はないが だから後行領域として性があることになると思われるが この後行は時間的なあとさきではないから 全体領域の人間存在としても 女性もしくは男性に 人間は分かれると言ってよいと見られる。このときにおいて デーモン関係を 切り拓いてすすむ知恵は 女性的なものと見ることが可能かと思う。文体は そして文化・文明は 女性的な知恵をもっている。
かくて この章は いわゆる女性論である。
逆にいうと 自由な文体の発現――良心・思想・言論の自由――を 絶対主義的に制約したり 民主主義となった社会の経験過程で 保護の名のもとにやはり制限してきたところがあったとしたなら それは 《女性的なるもの》の問題であったと わたしには 思われる。
語弊のある言い方だが 経験(また感覚)の領域のデーモン関係とたたかうちからは どちらかと言えば 男性よりも 女性のほうにあるという考え方である。男性をここで排除しようと思わないし 性のちがいによって人(その基本主観)を差別しようとも考え得ないが このように いまは問題提起する一面が 文体論にはあると考えられる。男と女を この意味で――これから述べるようなかたちで―― 区別しようとは 見ているのである。ことばの自由化の問題――その具体的な展開の過程――として。
《人は女に生まれない。女になるのだ》と言うのは そのあとに続く文章によって 男女両性の平等を主張する文体である。

人は女に生まれない。女になるのだ。人間の雌が社会のなかでとっている形態は どんな生理的・心理的・経済的宿命がこれを定めているのでもけっしてない。文明(特に四角く区切られたところの)の全体が雄と去勢体との中間産物をつくりあげ それに女性という名をつけているだけのことである。
(¶Ⅰ・1−1949)

決定版 第二の性〈1〉事実と神話

決定版 第二の性〈1〉事実と神話

これによると わたしが 男と女とを区別することは この男女平等の理論に反し どうでもよいものであることになる。まさに そうなのである。経験領域にかんする区別なのであるから。ただし この後行する経験領域での区別は はじめの《自然》が ちいさく《文化と自然と》に分けられて見られるようになった結果 その文化の・もしくは同じことで自然の 範疇での 男女の区別をふくむ――ふくむのであるが ふくむとはいえ そのようなデーモン関係における概念区別つまり観念区別(観念は しばしば政治的である)をそのまま当ててみるよりは そうではなく わたしの提出する視点としては 《自然本性》のうちの先行する基本主観に後行する経験領域にもとづく区別である。いやはや そうすると ますます これは 男女平等という考え方に まっこうから 反対するかに見える。そうであろうか。わたしの言おうとするのは おそらく文体の観点から 人間に男と女との性の区別はある しかるがゆえに この区別を超えて 男女両性は平等であるように思われるというものである。
基本的には 自由な 無力の 有効な精神の政治学を立てて そこには 性は存在しないということ これを言い 同時に この先行する基本主観は 性の存在する後行の経験領域を 時間のずれなしに たずさえている ゆえに 人間は 性として 男と女とに分かれている。さらにそして この男性ないし女性という概念を 《自然からの文化行為 / 文化過程として歩む自然》といった全体から見ないで ただそれとして切り離して確認し念観するデーモン停滞は 観念的な政治的なつまり支配関係的な デーモン関係としての男性論ないし女性論を つまりは 男女差別を 有力なものとしている。言いかえると デーモン関係としての男女差別 これは おおきく歴史の文化過程のなかで・そのひとこまとして まず あってよいのである。この有力な観念の政治学が わたしたちの無力な精神の政治学に等しいものに見えるという恰好になっている。
いまの区別は これに心情倫理をあえて付け加えるならば この両性の平等(つまりは 精神の政治学過程)を実現しようとするかたちの文体であり そこにおける区別である。
ド・ボヴワール(ボーヴォワール)は ひとりの女性であるし 上の文章を人間として言っているのであるが 経験領域で そのとき 女性であるということを やめたというわけのものではない。わたしたちは デーモン関係――いまは 経験的に見られる男女両性の差別のちから――を離れて 純粋客観的に 文体するというよりは このデーモンの作用をなんらかのかたちで 受け取って 男性は男性であるかたちで女性は女性であるかたちで たたかいながら ことばを表現していくのがよいと思われる。
やっかいな言い方だが 科学の行き方の問題などと結局は同じかたちで 文体の性の問題――だから 女性論であるし また 男性論と言ってもよい――が もちあがってきていると思われる。
《人は女に生まれない。女になるのだ》というのは 一般的な既成のデーモン関係に対する反措定である。これは 男女平等の基本主観を言っているが そしてまさしくこの主観基本から表現が出されているのだが じつは――この点がやっかいなのであって―― 《人間》という主観基本に立っている。つまり早くいえば 《人間であるから あなたがたよ 女性差別はやめなさい》という言い分である。
わたしたちは ある意味で これまでの議論を このような恰好で 言ってきたわけでもある。そして それだと 男女の差別という具体的なデーモン関係を まだ 受け取っていないようなかたち そのデーモンとぶつかることなく ぶつかって手をよごすことなく論じるといった体裁である。
すでに現代では 男女の平等が 言われ終わっている。つまりあるいは この概念が 歴史の過程からやや離れて 観念として言われつくされた恰好である。そういう一面がある。そして この観念のデーモンが けっこう有力であるとすると その限りでいま ボーヴォワールの文章をよむと その基本主観としての男女平等論は 観念デーモンの政治学のなかの建て前としての男女平等論と 時に区別がつかないかに見えるのではないだろうか。
そんなことは わかっているという観念のデーモンのちからに からめとられかねない。ボーヴォワールの文体を批判するというよりも――いや批判していることになるのだが――むしろわたしたちは建て前と必然現実との使い分け――観念だから 概念を分断できる――のデーモン有力の前に 基本主観が無力になっているという認識から 出発していなければならない。だから デーモンとぶつかって わざわざ 手をよごせとは言わないし また ボーヴォワールも たしかにこの認識から当然 出発している。とすると 男女の区別があると見るかどうかをめぐって 文体の性の問題は 分かれる。
《人は女に生まれない。女になるのだ》は 《女に生まれたのではなく女にならしめられた人の 経験的なその情況》を 客観的に 認識したものである。これだと――たしかに間接的に《本来(自然本性として)人は女に生まれるのではなく 人として平等の基本主観が 先行して 存在する》ことを 言っているのであるけれど―― その基本主観が無力にされているとまず言うのではなく 基本主観の有効を ただちに有力なものとして 押し出すかっこうとなっている。客観認識だと その経験的な情況のデーモン作用を じつは 受け取ったかどうか わからないようになっている。受け取る前に 有効な精神の政治学を 押し出したとも見られる。言い換えると それは 科学という補助手段の領域での言論である。つまりまだ そのような言論のかぎりで 一般のデーモン関係の中に位置していない。補助手段――有益な補助――としてであっても 当然 その人は 位置している ところが それは 客観的な基本主観としてであっても このわたしとしてではない のに もしすでに わたしが全体的に この経験現実に位置していると見えるとするなら それは デーモン観念が 観念的に建て前として じっさい この補助科学の成果を口に出せばよいと言うのと たいして ちがわないのである。ちがうというのは 心情倫理である。
《わたしは女に生まれさせられている。人は女に生まれないものであるのに》と言うのが 経験世界の夜から始める文体なのである。《わたしは男である。そのわたしが 女を見るに 女は女に生まれさせられている。人は女に生まれるというものでないのに》と言って 展開が始まる。
わたしたちは 経験的なもの・感覚的なものを――またそれらの意味と情念の観念を――超えて 人間のことばに・すなわち理性的動物に到達しなければならない。そういった基本主観の自由な展開。そしてこのとき――このときにも――これらの展開は 歴史過程であるから 経験的なもの(またその観念の鬼のちから)を むしろ受け取ることによってなのである。つまり もしこの男あるいは女であるという経験前提から出発しないときには 男あるいは女が 文化価値としては(あたかも これとしては) 《人間(基本主観)に等しいもの》であって したがって 人間に見える という観念的な文化観ないし自然観のもとに自分があると ただ 客観的に(補助領域において無性的に)認識したにすぎなくなる。ここから 片や 性の存在しない平等の自然本性を ただちに押し出す そういう意味での無性(中性?)の文体が出されるか それとも片や 差別もやむをえないという経験現実そのままの議論が出されてくる。後者のばあいも 男女平等を知っているし それに納得はするのである。
はじめの自然(文化すべき自然だが)は 後行する領域でつくりあげられた狭義の固定的となった《文化と自然》とに 先行し それらを包み込んでいる。はじめの自然本性は 後行する領域でそれぞれそう見られる男性と女性とに 先行し それらの基本主観をなしている。自然本性(こころ・精神と言ってもよい)には 性は 存在しない。つまりこの《無性》が その定義の限りで 概念(ことば)であり かつ 後行する領域での《文化と自然との双対》から見れば 観念として捉えられ 文体の展開のなかで 用いられるようにもなる。ここで 《客観的に 無性的に 認識していこうとする》その文体の行き方は 先行する無性の基本主観から言い出されているようでいて むしろこれを めざすべき星のようなものとして 科学認識するそのやりかたなのである。
性としての社会関係の問題は それほど哲学的に考察するといった性格をもつものではなく しかも哲学も必要であるが それは 生活日常の具体的なふるまいとか社会的な制度や政策の問題としてであって あとは この性の問題は 文体が 文体の自らの展開のなかで その展開自体にかかわったかたちをとって 触れられていく。わたしたちがウェーバー批判として始めた科学の問題とか そして経済や政治の問題も それらに 文体の性が 直接的にあるいは間接的に しかもつねに かかわって 自然過程としての文化行為をおこなっていくものと思われる。
第一章から前章までの議論に こういった文体の性といういま一つの観点を 補足するものである。
ことばの自由化は 女性論または男性論というテーマに入る。あるいは このテーマをつねに含めた文体論である。

この論文の目的とするところは 私がいやしくも社会問題あるいは政治問題についてなんらかの意見をもちはじめたころから 現在にいたるまで 少しも変わることのない所信の基礎を できるだけ明瞭に説明することにある。・・・
すなわち 両性間における現在の社会関係を規制している原理(後行する文化ないし自然の ルール)――女性が男性に法律上 従属するということ――はそれ自体において正しくないばかりでなく いまや人類の進歩発展にたいする重大な障害物となっている それゆえにこれを完全なる同権の原理(基本主観の理論)に すなわち一方には権力や特権をもたせないように 他方には権力をあたえないということのないように 改めるべきだというのである。

女性の解放 (岩波文庫 白 116-7)

女性の解放 (岩波文庫 白 116-7)

と主張するのは その原題が 《女性の従属The Subjection of Women》となっていて確かに夜から始められているということと 関連があるかないか このことは措くとしても 特に法律に問題の焦点をあてようとして言い出していることにおいて 歴史過程的な女性論の文体となっている。すなわち 基本主観の男女平等を そのまま立てて これをめざすべき星とするのではなく すでにその理論の問題として・その限りで経験行為の領域で この問題に対して ことばの自由化をはかっている。
法律上の問題がともかく解決されてくると(――観念デーモン関係のなかで 観念の建て前としてでも その建て前となってくると――) 文体じたいの問題が なおそのときにも 歴史過程的であるのに・そうでしかないのに 観念の価値 文化価値的な観念として・つまりやはり新たなデーモンとして 現われ また捉えられ この経験的な観念を信奉するか・もしくは反対にそれに対抗してすすむかのいずれの場合においても やはり鬼となって 議論される。
具体的な差別 あるいは 差別の観念といったデーモンやその作用にあい対して それらと 必然の世界ではわたしたちは 手をむすぶことがありうると言ったのだから その限りで鬼のようになるかも知れない。そのように夜から始めるというのは 鬼のようになって・もしくは鬼となってのように ことばを自由に出すということなのである。ボーヴォワール氏について かのじょは鬼のよごれた手を受けとめていないのではないかとわたしたちが言ったとき――かのじょが表現として用いることばの数々のひびきを別として 内容として そうではないかと言ったとき―― それは 既成の観念の鬼となっていない そして 基本主観を観念としてあおぐその観念の新たな《鬼となって》いるように思われるということであって かのじょは《鬼のように》なってはいない。《鬼となってのように》言い出してはいない。

文明の全体が雄と去勢体との中間産物をつくりあげ それに女性という名をつけているだけのことである。
第二の性 1 女はこうしてつくられる (新潮文庫 ホ 4-5)

というのは そこでは 《性の存在しない基本主観たる人間》がいるように見えるが すでに かのじょ〔の主観・文体〕は いなくなっているようにも見える。つまり そのふたつのことで そこには 《観念》の基本主観がある。《男女平等》の観念が 提出されている。わたしたちは この観念をも それをとおして かのじょの社会における具体的なありようを見ようとして〔この観念をも〕利用してすすむが つまりこうして一冊の本となって出版されたということは それだけの価値をもつと見るが 文体は 生活の問題である。つまり 基本主観――ここでは 男女の平等――は 概念であるが 観念ではない。
《わたしは女性という名をつけられているが それは 文明の全体がつくりあげた雄と去勢体との中間産物としてではないのか》というのが 後行領域をたずさえた先行主観だと思われる。つまり この文章でなら デーモン関係をどうでもよいものと見なし かつ おそれている。そして むしろ基本主観への社会一般的なデーモンによる侮辱にたいして 怒っている。鬼のようになって。先の文章では 怒りや情念が 純粋な基本主観へ昇華されて 人間のことばになっているように見える。見えるのだが それは 星としてである。星をめざすというのは わたしが概念を用いてすすむのではなく 観念がわたしを主導する過程である。補助手段の領域(つまり科学)における限りという場合には 星を見ていることも・またこれをめざすことも ありうるかも知れない。そして 読者は この星をも捉えて利用していくが 作者ボーヴォワール氏が 星であることを――生活の全般では――のぞむものではない。そうのぞむとしたなら かのじょの存在への侮辱なのである。《人は星に生まれるのではない。わたしは星にならされるのだ》と言うはずである。科学者として偉大なばあい 作家として偉大なばあい それぞれの星としてあおぎ見られることはおおいにある。同時に 仰ぎみる人・見られる人どちらから見ても 《この星をめざすことが わたしの生活の全体(つまり 先行する基本主観)ではない》という観点を留保している。基本主観の平等は 星を超えたものである。それとも 基本主観の完全を究極の星として 人間は その星への到達度合いに応じて そこにつくられる秩序関係のなかに おのおの生きているというべきだろうか。
いま上では わたし自身が 人間という観点を持ち出して議論してしまった。文体としての人間の問題であるが 《人間》はまだ客観認識の域にあると見るのが ふつうなので ここに 男性論ないし女性論としての文体の問題があるように思われる。経験的な《星への自由競争》における社会秩序を言うのであれば 経験的な男女差別の関係も 受け容れなければならないようにさえ思われる。
もし《管理》という言葉を使うとしたなら この文体の自由な展開は 経験領域たるデーモン関係への管理として すぐれて女性がになうものなのであり その知恵は女性的なものだと表現することをわたしは恥じない。知恵は 自然本性の基本主観だから 無性だというべきなのだが 後行する領域を 切り離して・あるいは時間的なあとに それは たずさえているのではなかったから そう表現しうるというひとつの見解。
ボーヴォワール氏も この論文の題を《第二の性 Le Deuxieme Sexe》としているのであって 後行するデーモン的な経験領域で 男が第一 女が第二のそれぞれ性であるとされる情況をまず捉え そこから出発している。つまり歴史を夜から始めようとしている。つぎの文章は 先行する基本主観(そこでは性は存在しない)と後行する経験領域との わたしたちの生活過程における 微妙な関係を とらえ論じている。

他人という男が入って来てはじめて 《他者》としての個体を成立させることができる。自分のためだけに存在しているあいだは 子供は自己を性的差別のあるものとして把握することはできない。

  • 基本主観〔の自乗過程〕には 性は存在しない。

女の子の場合も男の子の場合も はじめのあいだ肉体は主体性(基本主観たるわたし)の発現であり 外界を理解するための器具である。
第二の性 1 女はこうしてつくられる (新潮文庫 ホ 4-5) ¶1)

だが わたしたちは 鬼となってのように言えば 《子どもの時代を経て たしかにそのあと 社会一般の両性の区別というデーモン関係に入る すなわち 肉体的に男はこのデーモン的な観念としての男でもあると見なされ 女は女であるという社会慣習的なデーモンの作用を受ける》というのが この文章の内容なのであるから このときには やはり このあとの内容たる社会情況から むしろ出発しているというのが 正解だとおもわれるのである。つまり揚げ足取りではある。と同時に上の文章は 《男女の両性は 互いに平等である》という概念を めざすべき星のような一観念として どこまでも 提出しているきらいがある。この両性の平等という概念はおそらく 正解であることに間違いないのであるから つまり まちがいないのに この正解を 観念として 確認している。
これが 文体の性の問題である。文体の基本たる主観(こころ・精神)には 性は存在しないが 経験的な文体行為(←文体の第一原則)は 感性・たましいのこころを通して 性を受け取っているはずである。受け取ったところから 出発しているはずである。観念の鬼から自由な人は 鬼となってのようにも 文体するし 性の存在しない基本主観に立ち 男女は平等だと思惟している人は 性を受け取り 性をもってのように 文体する。ことばの自由化は こういう意味で 感性〔という自然〕の完全な解放である。(この言い方は マルクスのものである。)それに――
それに 全体としての人間存在たる自然本性は 性の存在しない基本主観が 性の発生する経験領域に先行しているというときの先行・後行が なぞとしての一体であったからには このなぞの限りで 人間は 男性か女性かいづれかの性において 存在する。後行する経験領域は そこまでの位置を 持つとおもうのである。つまりかんたんにいって 人は やはり男か女かに生まれてくると思うのである。つまり 性の存在しない基本主観は この意味でも 無力の 自由・またはその有効性 すなわち この《無性》ということが 無力のうちに有効である。

  • この議論は 《情欲のない生殖》という文体過程(ないし生活・文化)の問題に発展すると思われる。ほかのところで 議論したように思う。

性の存在しない基本主観 すなわち 男女両性の平等は 無力のうちに有効であることが 正解〔の過程〕である。すなわち経験行為の文体が 無性であるとしたなら その有効性は 無効が実効性をもった有力の形態にほかならないと 逆に 考えられる。すなわち 男女平等という正解の概念が 観念として 有力となるように 文体を表現しはじめていることだと思われる。無力のときに 有効であり――だから その文体は 性をもってのように 表現されていることになる思われ―― 過程的に それとして ちからを持つのだと思われる。ただちに 無効なものの流通したところの有力にとって代わって 有力になるのではなく しかもその必然有力のデーモンが――前章で論じたように――踊りはじめるというかたちを通してだと思われる。かんたんにいえば 男女は平等なんかではないと 無効にも・そして狂気にも 念観していたデーモンが わたしたちの無力の有効を見て(あるいは わたしたちが無力の自由をもって そのデーモンをにらみ返してやると) 頭(観念)で立って 踊り出す。男女平等という正解を見て 狂気が発狂しだすのである。繰り返そう。狂気が 発狂するのである。基本主観の自乗の過程 何もしない精神の政治学が 大事である。
なぞを持った自然本性が 精神としても 身体としても 生活していくのだと思われる。このなぞは 性の問題としては むしろ〔自然本性のなかの〕後行領域に その存在たる位置をあたえしめ かくて人は 男であるか女であるかとして 生活していくのだと。愛には 愛する者と愛される者との したがって 互いにその両者であるところの 男と女との 基本主観としての一致がある。つまり 性の存在しないなぞの愛は 性の存在する経験領域で(そこから始めるかたちで) したがって ある男性とある女性とのあいだに(あいだにこそ) はたらく。かくて 情欲のない生殖!これを 文体の自由な展開をとおして!

  • 《あいだにこそ はたらく》というのは あいだ=関係が 主体となって はたらくとは言わない。

つまり 性の存在しないわたしたちの基本主観の無力――無力の有効――は 情欲のデーモンを どうでもよいと見ており かつ おそれている。ここで このデーモンは 踊りだすであろう。無力の有効(自由)が 回復されているとき デーモンによる無効の実効性たる有力は 踊りはじめ逃げ出すであろう。迫害しようとして かえって はむかってくる場合は ひとまず やはりこれも 踊りだしたものと とらえよう。ただ わたしたちは ファウストの徒として 議論をおこすと つっかかってくる犬のようなデーモンや その議論をいともたやすく踏みにじる豚のようなデーモンやには 基本的に 文体を展開しない と同時に――のちに見るようにファウストは 犬となったメフィストとも 話をしているが そのように―― わたしたちの自由は無力だから デーモンの有力に巻き込まれることはある もっといえば 犬や豚の文体をも食べる人はいる(わたくしのように) このときにも 精神の政治学のなぞの文体過程に 変わりはないと考えるべきであろう。デーモンの愛は もちろん 支配する者と支配される者とが 心を一つにしているその無効の有力ということである。
無力は 無能力ではない。有効と自由とは 過程的である。過程的=経験的なものの管理には 女性がよくこれにあたる。人が人を愛するとき――だから 原形的にといったふうには ある男(ないし女)がある女(ないし男)を愛するとき―― それは なぞの愛によって愛するのである。そしてすでに そこには性は存在しない。これの管理には より一層ふさわしく女性がたずさわると 男性であるわたくしには 思われる。

  • ただし 《あいだで はたらく》ということは 男性もその管理ないし歴史行為に もちろん 相手方として たずさわっている。《あいだ=関係》という主体がいるわけではないから。

(つづく→2005-01-21 - caguirofie050121)