caguirofie

哲学いろいろ

文体――第四章 ファウストの精神の政治学

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2004-12-20 - caguirofie041220よりのつづきです。)

第四章 ファウストの精神の政治学

前章の末尾で 魯迅に言及するといったのは

ああ閏土(ジュントゥウ)の心は神秘の宝庫でわたしの遊び仲間とは大ちがいだ。こんなことは私の友だちは何も知ってはいない。潤土が海辺にいるとき かれらは私と同様 高い塀に囲まれた中庭から四角な空を眺めているだけなのだ。
魯迅故郷 (中国の児童文学 第 1集11) 竹内好訳 《吶喊》所収)

という単純な符合を わたしたちは知っているからだ。この魯迅の《私》にとって 田舎の少年《閏土》は 《くぎられた空間》から自由な《自然》としての人間だという 単純な類推が成り立つからだ。
魯迅は あとまわしにしよう。
もしわたしたちが ウェーバーの《職業としての政治》に反対し――ただし 結構いい線まで行っていると見た しかも そのいい線を科学という四角な空間=すなわちひとつの魂の中に閉じ込めかねない ゆえに反対し―― 文体の成立・その主観的な形成過程を言い続けるぶんには その限りで ヴァレリの《精神の政治学》を引っぱり出した。どちらも ゲーテをめぐってであるゆえ 議論に空回りは 起こっていないだろう。
ヴァレリーはここで じっさい きわめてきわどく 危険を含んだ表現で 議論している。

要するに その瞬間を超えるけれども しかもわれわれの触れるものよりも 更にわれわれに近く思えることがかくも しばしばある かの全世界・・・。われわれの意識的生活の各刹那に 真に無限定の過去や無制限の未来の幻覚(――要するに《くぎられていない世界》――)をわれわれに与え 思考と行動とに対するあらゆる本質的信念(――ウェーバーの言う《心情倫理》ではある――)をわれわれに供給するのは これらの心力であります。
これらは心像に価値を定め 観念の信用を設定し われわれの意図の実態を成します。こうしたすべては 《精神の政治学》という名の下に集められ得られるように思われました。というのは これらすべての心的活動の瞬間的中心には 一種の政府が存在するからです。
・・・
ゲーテは 人生を判断し・・・〔と続く〕。
ヴァレリーゲーテ(世人はオルフェウスと言うごとくゲーテと言う) 1933)
ヴァレリー全集(4)増補版〈我がファウスト〉:ISBN:4480782044

わたしたちは 科学を文体の補助手段とする。すなわち科学的な客観性は 文体主観に後行するも この後行性は時間のあとさきではないゆえ このヴァレリーの《精神の政治学》は そのような観点から捉えて 主観の基本出発点を取り扱っている。つまり 《学》とはいうものの 文体の成り立ちを論じようとしている。

  • ここに用いられている個々のことばには 抵抗を感じるか それとも いまひとつはっきりしないかするが 全体として言おうとしていることは 火を見るよりも明らかである。つまり 《わたしがわたしであること / わたしの自乗過程》――これを《政府》と表現している――であるにほかならない。少なくとも わたしたちは 自信を持って こう読みかえる。

こころの=生活の 《政府》を見なければ 社会形態的な政府ないし職業としての政治行為を 客観認識しても むだである。また ただ実践的に――ただ実践的に―― 悪魔と関係を結び 権力をあたかもあずかると言っても 無効である。ウェーバーの言うように いまにも崩壊するような政治行為が どうして 有効であろうか。崩壊するために・積み木を崩すために 立って・建てて いるようなものである。――資本主義的な分業社会では この心の政府(文体の基本出発点)が 無力であるというとき そういう一つの歴史社会的な事態を この心の政府が捉えている。社会主義的な分業社会でも ことの本質は おなじであるだろう。だからウェーバーが 悪魔の問題をさえ提出するのである。

  • 社会主義の話しが出ているが そのままとする。

だからわたしたちは たしかにウェーバーの言う《偉大な達人たち》の歴史的な系譜(これを共同相続していく歴史的な進展)を つまりたとえばドクトル・ファウストのあの悪魔との闘いについて こうやって論じている。これは 文体の問題である。
ヴァレリーはつづけて論じます。

ゲーテは 数々の〔文体の〕対比の完全な一体系 あらゆる一流の精神を他と区別する稀有にして豊饒な結合を われわれに示しております。彼はこもごも古典主義者であり浪漫主義者であり 哲学者であるが しかし哲学の最も有力な道具たる 数学を使用することができない 或いは 使用することを欲しないのです。また神秘家であるが しかし身を悉く外部の静観と瞑想に捧げきった変り種の神秘家です。
ヴァレリーゲーテ

この文章において ゲーテが 主観を客観的な要素ごとに分析し むしろこれをもって〔だから 徳の倫理などの要素にもとづき〕規範的に価値判断することから 自由であったという部分にかんして それは たしかにウェーバーの言うように 《理想型は 評価的価値判断には全く無関心であって 純理論的〈完全性〉以外にはいかなるものにもかかわらない。》(cf.第一章)というその文体のあり方に立っている。《身をことごとく外部の静観と瞑想とに捧げきった――つまり悪魔と 必然の世界にある限りでは 結託もするという政治を行為しきった・表現しきった(なぜなら 《外部の》というのが そういう意味である)――変り種の神秘家で》あった。
ただ ヴァレリもこの同じ箇所で見ているように ゲーテが たとえば《ファウスト》物語で その登場人物たち(そこには 神も天使も登場する)の文体の《数々の対比の完全な一体系を示した》という点では わたしたちは 留保(または 躊躇)しなければならない。言いかえると ヴァレリーが見るには そしてそのことはゲーテにとってもそうであったと 今度は つけくわえなければならないようにして この《ファウスト》のドラマを わたしたちの精神の政治学のその経験過程として見ることはあっても そのドラマ体系が政治の原理なのではないということ。政治の 従って生活の 原理(ひかり)そのものではない。また わたしたちが目指すべき客観体系としての星でもないであろうということ。こう考えられる。そうでないと 謎が消える。
魯迅を出すと言ったけれど もう少し待ってほしい。
それは いまこれを書いているとき あの浅田彰氏の第三作《ヘルメスの音楽》が 一つのまとまった単行本として出版されたからである。

ゲーテは・・・変り種の神秘家です。〕彼は ニュートンとも神とも 少なくとも諸宗教の提出する神とは 類縁のない自然観(生活の文体)をみずから獲んものと努めます。・・・もし矛盾が自分を豊かにするものであるならば いかなる明らかな矛盾の前にも後込み致しませぬ。

  • もしあの悪魔と結託しなければならないようなこの世の生活があるとすれば 矛盾は この生活の関数であります。

彼の裡(うち)の抒情的魂は・・・アポロンディオニュソス 喜劇形式と古代様式 基督教的地獄と神話的冥府 神と悪魔とを 意のままに合成するのです。これらのあらゆる矛盾は 彼をいよいよ高めるのであります。・・・
ヴァレリーゲーテ

ヴァレリーが続けて語っていくとき 浅田彰氏は ちょうどこれに対して 《ヘルメスの音楽》を唱え出したように思われます。《アポロン》に対するかたちが その絡み方です。

かつて ひとはアポロンディオニュソスとを対立させていた。片や くっきりした輪郭をもつ世界 明確に分節化された《意味の構造》の代表者アポロン 片や 形なき世界 分節化なき無意味な《混沌》の代表者ディオニュソス というわけだ。けれども ギリシャ研究の発展とともに明らかになった通り 真の対立はアポロンとヘルメスの間にある。言いかえれば 《意味の構造》(――文化現実の意味連関――)と対立するのは 一様な《混沌》ではなく 絶えざる《交通》のネットワークなのである。

  • そうなると わたしたちの生活は その文体過程として 《意味の構造》つまり要するに社会と 対応しているが そしてこの社会生活の文体の総体・つまり精神の政治学行為のことを 《交通》といっても よいのだが この浅田氏の言う《交通》は 〔そうなると〕単純な・自然な・またウェーバーも言うところの文化意義としての社会的な交通のほかに べつの交通の世界が・つまり第一の交通からずれた差異をもった世界が あるというわけだ――。

アポロンが 一義的・固定的な真理 すなわちエピステーメーの開示者であるとするなら ヘルメスやその同類たちは 多形的・流動的な狡智 すなわちメティスをあやつる者である。したがって 戦争(――政治と読め――)を遊戯としようとする〔ヘルメス論〕者は 目的達成のための機能的理性でも 儀礼を重んずるための象徴的理性でもなく ノンセンスな《出来事》にもたじろぐことのない(――《どんな事態に直面しても〈それにもかかわらずDENNNOCH!〉と言い切る自信のある》――)しなやかなメティスをこそ身につけなければならない。

  • 《悪魔は年寄りだから かれを理解するには 年をとらなければならない》。

足迅きヘルメスのしるしこそ身に帯びなければならない。大理石の神殿のギリシャが われわれに今そのことを教える。
浅田彰:〈戦争――ヘルメスの遊戯としての〉ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)1985)

こう語っている。ウェーバー寄りに見えるが どうか。この議論にお付き合いしようではないか。
ゲーテも もしヴァレリーが説くようであるならば 《アポロンディオニュソスとを 意のままに合成する》というのであるから まず 字面の上からは むしろ《ヘルメスの流儀に近い》交通理論に立ったわけである。たしかに浅田氏も次のごとく説くように すなわち

〔ヘルメスの文体たる〕音楽を求めるのなら とりあえず そこにあるふたつの(――だから たとえばアポロンディオニュソスとの――)鏡を直接むかいあわせてみること。そのとき 《底なしの深さのなさ》の中に一瞬無数の鏡の列(――《数々の文体の対比〔の矛盾〕》――)がサーッと浮かび出るのがみえるだろう。そこに身を躍らせて逃げ去っていく銀色(――ヘルメス=水銀――)の稲妻こそが《音楽》なのである。

とりわけ ロココの鏡の閉域から逃走(――《逃走》!――)するモーツァルト その途方もない狼の疾走(ヴォルフガング)!
浅田彰:〈リトゥルネッロ 《ソン・メタリック》の消息〉ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)

と説くように そこでは あたかもゲーテが《矛盾から逃走していかない》という一面とは別に 《矛盾の対比の完全な一体系を提示する》ところのもう一面を持っていた そしてそれは ヘルメス《のような》文体の一面を持っていた と解説してくれたかの如くである。《意味の構造》というように 《完全な一体系 / ファウストのドラマ体系》を《目指した・提示した》とするならば ゲーテは むしろそのゆえに このもう一面で 少なくとも《狼の疾走Wolfgang》をしている。その限りで 《体系》また《星》へ逃げたというわけである。ゲーテの固有名は ヨハン・ヴォルフガングである。ヨハンすなわちジョンは 《ヤハウェーは恵み深い》の意味だそうな。

  • ふたつの魂の相克というように 矛盾を抱え かつ解決の難しい情況にあるといったことは 存在に固有の謎である。このなぞを浮かび上がらせるような表現様式は 或る意味では 逃走と見なされるかもしれない。明確に分節化された意味の構造において 見え隠れするなぞの部分である。少し早いが そうだとすると アポロンにとって ヘルメスのずる賢さは 相容れないものではないかもしれない。

なにが明らかになったか。
こうである。

実際 ヘルメスはすべてのマイナーなものの守り神だといってよい。それだからこそ ヘルメスは 自ら走らせた逃走の線に沿って マイノリティの群れを《外》へ(――つまり《意味の構造》の外へ――)逃してやるのだ。その逃走は 走る水銀のように軽やかで 多彩で にぎやかだ。それゆえに ひとはその逃走を音楽と呼ぶのである。
浅田彰:〈リトゥルネッロ〉)

この文章を 次のウェーバーの文章と あたかもふたつの鏡のようにして 向かいあわせることが 第一だ。

宗教倫理(――《意味の構造》の規範――)は われわれ人間が それぞれ別の法則に従った・いろいろな生活秩序(――文体の総体〔の秩序〕――)の中に はめこまれているという事実を いろいろと理屈づけてきた。ギリシャ多神教はアプロディテにもヘラにも ディオニュソスにもアポローンにも 同じように供物を捧げたが これらの神々同士がよく争っていたことは知っていた。・・・
政治の守護神やデーモンは 愛の神 いや教会に表現されたキリスト教徒の神とも いつ解決不可能な闘いとなって爆発するかも知れないような そんな内的な緊張関係のなかで生きているのである。
ウェーバー職業としての政治 (岩波文庫)pp.94/100)

だから まず第一には このウェーバーも そして浅田氏も ヴァレリーの言う精神の政治学を おのおの固有に 一つの具体的な内容として明らかにしようとしたということ。ゲーテが 狼のように疾走したとするなら ただしそれは かれの作品の中のかずかずの登場人物のその文体(行動)として 具体内容を持ちつつ いい意味でもわるい意味でも それらを 自己の《精神の政治学》のうちに《意のままに合成》し そのような一つの体系を持ったドラマとしてであった。ドラマ体系の世界へ〔疾走した〕ということであった。このとき ウェーバーは この精神の政治学を たしかに全体として ただしまた科学〔者〕として 研究し明らかにしようと努めた。

  • だが これは 主観基本に後行する部分領域におさまるのではないかという疑惑をわれわれは持っている。

浅田氏は ウェーバーとちがって・かつゲーテと同じように 《客観認識という後行する部分領域》にとどまっていない。(第一作の《構造と力》および第二作の《逃走論》では この科学という部分領域から外へ出るには まだ内気な面があったのではないか。)おなじくその浅田氏は ウェーバーと同じように・かつゲーテとは違って 《精神の政治学 つまり現実生活 すくなくともその〈意味の構造〉》から 《逃走》して いな 《逃走せよ》と言って 《星》すなわち《ヘルメス(=マーキュリー=水星)》を目指した。いな 《目指して進め》と説いた。
同じく 《星を目指す》つまり《星を目指して進め と説く》のではある場合 ウェーバーに対しては わたしたちは 《あなたは生活者か それとも研究者か》と問いかけた。浅田氏に対しては こう問おう。
あなたは 生活者であるが ゲーテヴァレリーやわたしたちが見ているところの あるいはウェーバーでさえ この生活者が生活者として 存在することじたいは認めるところの 主観基本から ズレよ というそのあなたは いったい どこに住んでいる生活者なのか。
このアポロン的な意味の構造――たしかにそうだ――から どの《〈外〉へ》 逃げ去っていくのか。いな 逃げ去れと言うのか。《ヘルメスの走らせた〈逃走〉の線》とは いったい どこに存在するのか。存在しないところへ なのか。

閏土はまた言うのだ――

  • と語る(つまり 主人公に語らせる)魯迅の言い分を聞こう。ちなみに この周樹人という本名のひとは 《おろか(魯)で はやい(迅)》と名のっている。〔ほかにも ペンネームはたくさんあったが。〕《ヘルメス》が 《足迅き》神〔そして時に《夜の盗人の神》〕であれば 関連が いやつまり ただいまの議論として あるだろう。単なる連想ゲームでないことは 次につづく文章に・・・。

《今は寒いけどな 夏になったら おいらとこへ来るといいや。おいら 昼間は海へ貝がら拾いに行くんだ。赤いのも 青いのも 何でもあるよ。〈鬼おどし〉もあるし 〈観音さまの手〉もあるよ。晩には父ちゃんと西瓜の番に行くのさ。おまえも来いよ。》
《泥棒の番?》
《そうじゃない。通りがかりの人が 喉がかわいて西瓜を取って食ったって そんなの おいらとこじゃ泥棒なんて思やしない。番するのは あな熊や はりねずみや チャー*1さ。月のある晩に いいかい ガリガリって音がしたら チャーが西瓜をかじってるんだ。そうしたら手に刺す叉をもって 忍びよって・・・》
そのとき 私はその《チャー》というのがどんなものか 見当もつかなかった――今でも見当はつかない――が ただ何となく 小犬のような そして獰猛な動物だという感じがした。
《咬みつかない?》
《刺す叉があるじゃないか。忍びよって チャーを見つけたら突くのさ。あん畜生 りこうだから こっちへ走ってくるよ。そうして股をくぐって逃げてしまうよ。なにしろ毛が油みたいに滑っこくて・・・》
こんなにたくさん珍しいことがあろうなど それまで私は思ってもみなかった。海には そのような五色の貝がらがあるものなのか。私は西瓜といえば 果物屋に売っているものとばかり思っていた。
《おいらとこの砂地では 高潮の時分になると〈跳ね魚〉がいっぱい跳ねるよ。みんな蛙みたいな足が二本あって・・・》
ああ 閏土の心は神秘の宝庫で 私の遊び仲間とは大ちがいだ。・・・
魯迅故郷 (中国の児童文学 第 1集11) 1921)

だから――だから(ちなみに 跳ね魚とは ゲンゴロウのようなものか)――魯迅は 〔時代であるとかそれぞれの社会の問題もあるが〕 《〔貧しい〕閏土のように 打ちひしがれて心が麻痺する生活を共にすること〔を〕願わない。・・・希望をいえば かれらは新しい生活をもたなくてはならない。私たちの経験しなかった新しい生活を》(故郷 (中国の児童文学 第 1集11))と 主人公に語らせた。

希望という考えがうかんだので 私はどきっとした。

  • たしかに ひとつのアポロン的な意味の構造の模型でもあるように思われるゆえ。

たしか閏土が香炉と燭台を所望したとき 私は相変わらずの偶像崇拝(=旧い儀礼的なものをありがたがる)だな いつになったら忘れるつもりかと ひそかにかれのことを笑ったものだが いま私のいう希望も やはりかれの望むものはすぐ手に入り 私の望むものは手に入りにくいだけだ。
故郷 (中国の児童文学 第 1集11)

等々と締めくくらせた。これが 魯迅の《精神の政治学》である。(魯迅への 反面での 批判は 追ってするつもりである。)
《ヘルメスの走らせた〈逃走〉の線》は 《のどが渇いた人間の西瓜ぬすみ》の線か――つまり ありもしない線だとわたしたちは考えるが ありもするとしたなら それか―― それとも 《月夜に出没するあな熊や はりねずみや チャーといった泥棒》の線なのか。《マイナーのものたちの守り神》とは あるいは もっともっと高尚で 《意味の構造》からはズレた差異のある逃走の線であるのか。けれども そういった《希望も やはり手製の偶像(――星――)に過ぎぬのではないか》。言いかえると 《思うに希望とは もともとあるものとも言えぬし ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば それが道になるのだ》(故郷 (中国の児童文学 第 1集11))というとき この魯迅の文体も 星そしてなんなら逃走の線を それはそれとして 見ていないではない。そのとき ひとは なぜ 何かもっともっと別様の《ヘルメスの音楽》をこそ 聞かなければならないのか。《いかがわしくもあり危険に満ちた それでいてあらがいようもなく魅惑的な〔ヘルメスの〕音楽の誘惑》(リトゥルネッロ・ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫))を。

浅田彰:《音楽は〈外〉へと誘っている》(ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)
わたしたち:どこへ?どの・何の《外》へ?

(つづく→2004-12-22 - caguirofie041222)

*1:けもの偏に査という漢字です。