caguirofie

哲学いろいろ

文体―第十章 情念と意味と

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-01-11 - caguirofie050111よりのつづきです。)

第十章 《情念と意味》なる観念

トルストイの描く〕プラトン・カラタエフやドストエフスキーの描く聖者の姿は 今なお この人類愛に生きた達人たちの最も見事な再現である。
ウェーバー職業としての政治 (岩波文庫) cf.《文体》第三章2004-12-20 - caguirofie041220)

という文章を疑いにかかります。

アレクセイ・カラマゾフ

自由な無力の基本主観に立った《達人たち》を ファウストの系譜と仮りに呼ぶことにしよう。ところが ドストエフスキーの描く聖者たちには わたしは疑問を持っているので この点 考察しておきたいと思います。
単純に前もって言っておくとするなら 《聖と俗》といった見方がもしドストエフスキーにあるとすれば これは 《無垢な自然とデーモン的な文化》あるいは《聖なる知識としての文化と 無知・未開の自然》といった意味合いの対比におちいっている嫌いがある つまりそれはナンセンスである これゆえにであります。
ファウストの系譜の《自然》(人間の 先行・後行の両条件をあわせた全面性としての)にあると思われる あの魯迅の作品の中の《閏土や阿Q》 かれらが かれらは確かに無学であるのだが 特に盗みをはたらく阿Qにおいて そのひとりの人間が 《聖》と《俗》との両面に分けて見られるようなものではないか 一般にドストエフスキーないしその種のたぐいのロシアの文学作品においては。そして 《聖なる痴愚》といった観念が しばしば つきまとっている。だが これは ドストエフスキーの小説などに限らない。ウェーバーの説くところの《専門の仕事という〈俗〉への専念》が ファウストの全面性を 分裂させて もう一方の《星をめざすような〈聖〉》を生んだという図式である。
ドストエフスキーは とうぜん この図式の矛盾とも闘っているし 名声を得ているので 考察の対象とするによいと思われる。また 一般に 情念やデーモンやの俗が 文化的に道徳的にしりぞけられて いわゆる聖が そこに押し出されると この聖(また聖者)ということが 《観念》とされる。そこでは 文体過程が進むのではなく 停滞し 聖なる聖という想像上のその内容が いろいろに描かれ 《念観》される。この観念とか念観とかいうことは デーモン関係のいわば こびりつきである。この点を 合わせて この章〔以降〕で 論じたい。ちなみに浅田氏は この《〈情念と意味〉の構造》に わずかなすき間があればいい と願った。わたしたちは そんなものはなく 構造の全体において 特にそのデーモン関係が 情念じたいとして・あるいは逆に情念を超越した或る星として 念観され やがてこの観念の構造が ひとつの文明であるかのように 流通しはじめる これらすべて どうでもよい後行領域であって その核となっているデーモンをわたしたちは おそれるということを あらためて 論じたい。
聖も俗も おおきくは こころの問題であり 聖は 精神の霊つまりいと高きこころであるだろうし 俗は 身体の動きの感覚たる魂の属(つ)くところの心であるだろう。この定義のうえで ドストエフスキーらの作品では一般に 俗人も がんばっている。つまり生活し文体しようとしている。そしてまた同時に この聖と俗との二分の観念が 人びとの観念として あまりにも支配的だとさえ映る。(これは 社会主義社会のソ連となったあとでも 意外とそうなのではないだろうか。――いまでは このコメントは古い。)ヨーロッパやそしてアジアの日本などでさえ ウェーバーの分析する意味でのこの聖と俗との二分は 上に見たように むしろ同じく一般的だと見るべきように考えられるが それでも これは まだ 理屈のうえでなのであって ドストエフスキーも実際 理屈をまじえて作品の中で議論しているけれども その地つまりロシアでは 生活日常の中に 比較的つよく 浸透しているかのように わたしには思われる。
わたしたちは 自然 自然と言ってきたとき その点もしあのルウソ(あのルソー*1)が《自然にかえれ》という意味のことを言ったのだとすれば この自然の概念を吟味しなければならないことにもなるが それでも ロシアの文学作品においては この 聖と俗とを包み込んだような自然も 同じく ひじょうに観念的である。《ことば=概念》で文体し生活するというよりは 《概念》をいじくっている。人は 概念の火の川をわたらなければ 文体を形成することができないと 観念的に思われているといったように。

この物語の主人公アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマゾフの伝記にとりかかるにあたって 自分は一種の懐疑に陥っている。
〈作者より〉の冒頭。

カラマーゾフの兄弟〈第1巻〉 (岩波文庫)

カラマーゾフの兄弟〈第1巻〉 (岩波文庫)

といったようにである。しばらく これにおつきあいしよう。
三人兄弟の末っ子である主人公アレクセイについて 作者は次のように語る。

作者にとっては 確かに注目すべき人物なのであるが 果たしてこれを読者に立証することができるだろうか それがはなはだ覚束ない。問題は 彼もおそらく活動家なのであろうが それも極めて曖昧な つかみどころのない活動家だというところにある。もっとも 今のような時勢に 人間に明瞭さを要求するとしたら それこそ要求する方がおかしいのかも知れぬ。ただ一つ どうやら確実らしいのは この男が一風変わった むしろ奇人に近い人物だということである。しかし 偏屈とか奇癖とかいうものは 個々の特殊性を統一して 全般的な乱雑さのうちに或る普遍的な意義を発見する能力を 与えるというよりは むしろ傷つける場合が多い。〔それに比べ〕奇人というものは 大抵の場合に 特殊で格別なものである。そうではないだろうか?
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟〈第1巻〉 (岩波文庫) 同上)

要するに ドストエフスキーは自分にとってこのアレクセイは ゲーテにとってのファウストにひってきする人物だと言おうとしているのではないだろうか。
わたしは このアレクセイへの批判を 技術的な揚げ足取りのかたちをもって おこなう。

(A) この青年はどこへ行っても人に好かれた。それはまだ幼い子供の時からそうであった。
カラマーゾフの兄弟〈第1巻〉 (岩波文庫) 1:4)

(B) 彼(アレクセイ)は兄イワンの人となりを知ることに非常な興味を抱いたが 〔その帰省以来〕二月の間に 二人はかなりたびたび顔を合わせたにもかかわらず 未だにどうしても親密になれなかった。
(B-1) イワンは何かに心を奪われている 何か重大な心うちの出来事に気を取られている 恐らく何か非常に困難な ある目的に向かって努力している。それで彼は弟(アレクセイ)のことどころではないのだ これがアリョーシャ(アレクセイ)に対する彼の放心したような態度の唯一原因に違いない。
カラマーゾフの兄弟〈第1巻〉 (岩波文庫) 1:5)

(A)と(B)との矛盾を (B-1)の理由によって 推し測っているが 強引に言うとすれば 無理がありはしないか。どうかこの揚げ足取りにも おつきあいいただきたい。

(A-1) 彼(アレクセイ)は侮辱を覚えたことなど一度としてなかった。侮辱を受けてから一時間ほどすると 当の侮辱者に返事をしたり 自分の方から それに話かけたりすることがよくあった。そんな時には まるで二人の間に何事もなかったかのように 相手を信じきったような 晴々した顔をしている。それはうっかり 侮辱を忘れたとか またはことさらに許したとかいうような様子ではなく そんなことは侮辱でも何でもないといった顔つきなので この点ですっかり子供たち(アレクセイの仲間)の心をとりこにし 征服したのであった。
カラマーゾフの兄弟〈第1巻〉 (岩波文庫) 1:4)

この文章の中にも 《侮辱》という具体的な一つのデーモン関係に対するアレクセイの態度として はっきりしない点がある。だが 総じて この後行領域のデーモン関係に対してかれは 無力だが自由なのであったと言おうとしていると取っておこう。けれども (B)の関連事項で 次のような叙述には この(A−1)との矛盾がある。

(B-2) アリョーシャはまた こんなことも考えた――この〔兄イワンの自分に対する《冷淡な》〕態度の中には自分のような愚かしい道心(修道院に入るという)に対する 学識ある無神論者としての侮辱が交じっているのではなかろうか? と。彼は兄が無神論者だということを百も承知していた。もしそんな侮辱の念があったにしても それに対して彼は腹を立てるわけにはゆかなかったが それでも彼は 何か自分にもよく分からない 不安な擾乱をもって 兄がもう少し自分の方へ近よる気持になるのを待っていた。
カラマーゾフの兄弟〈第1巻〉 (岩波文庫) 1:5)

機械的に いまここで取り出している(A)系と(B)系とが 一致すべきだと思わないし 言おうとも考えないが だから これくらいの矛盾はむしろ リアリティがあると考えるべきだと言われるかもしれないのだが そして 小説作品としての内容〔価値〕じたいへの批判ではない――文学論プロパーではない――とすると それは やはり文体の形式にかかわっている。いま言えることは ひじょうに ああでもない こうでもないと 観念的な領域で 内的な先行する基本主観と後行する或る意味で外的な経験領域とを 作者は推し測りつつ 文体を展開していくといったことである。観念を抜ければ また 観念であった というような展開過程である。もっとも わたしたちの批判は このことに向けられるのではなく そのような展開形式によって帰結される(また 作者に帰属する)やはり文体そのものに向けられてである。この章のはじめに ウェーバーの文章をかかげたように またまたやはり その帰結される文体の中味は ある星をめざすということになるはずだ。つまり これまでの文章でもすでに ドストエフスキーは ああでもない こうでもないと言いながら ひとつの星を織りあげようとしていなかったであろうか。ところが このドストエフスキーの星は ウェーバーの科学のそれとはちがって 実践の・あるいは政治活動のそれなのである。順々に見ていかなければならない。

(A−2)彼(アレクセイ)はめったにふざけたり はしゃいだりはしなかったが しかし 誰でも一目彼を見ると それは決して気難しさのためではなく 反対に 落ち着いてさっぱりした性質のためである ということをすぐに悟るのであった。同じ年頃の子供に伍しても 彼は決して頭角を現わそうなどと考えたことはなかった。そのせいでもあろうか 彼はついぞ何一つ怖れたことがなかった。それでいて仲間の子供たちは 彼が自分の勇気を鼻にかけているのではなく かえって 自分が大胆で勇敢なことを いっこう知らないような有りさまであることを すぐに了解した。
カラマーゾフの兄弟〈第1巻〉 (岩波文庫) 1:4)

(B-3) ただ一つ彼(アレクセイ)には人と変わった性質があって それが下級生とか上級生に至るまで 中学の全学級にわたって 彼をからかってやろう という望みを友だちに起こさせたものである。もっとも それは腹の黒い嘲笑ではなく ただ皆にとってそれが楽しいからであった。この変わった性質というのは 野性的な 夢中になるほどの羞恥心と潔癖とであった。彼は女に関するある種の言葉やある種の会話をはたで聞いていることすら出来なかった。
(同上 1:4)

そもそも 《情念と意味》のデーモン関係に対して 無力だが自由な《ファウスト》は 《野性的な 夢中になるほどの羞恥心と潔癖》からも自由である。《自然》児は 《未開・野蛮》(ディドロが《ラモーの甥》で触れるような)ではなくとも 《野性的で 夢中にな》ってよいわけだが それは 《羞恥心と潔癖》とは 無縁であるだろう。(あまりよい例ではないが 阿Qの 女性に対する態度!?)ドストエフスキーはここで 《ファウスト》にとっては矛盾する中味〔(B)系〕を 《ただ一つ人と変わったアレクセイの性質》として挙げて (A)系の事項つまり《ファウスト的なアレクセイ》と 両立させようとしている。
わたしは徐々に このわたしたちのアレクセイ批判が 揚げ足取りだと言って譲歩していた見解を・いやその譲歩を 撤回したくなる。
ファウストの自然が 《清廉潔白な聖とそして 他方で〔やはり免れないのは当然というので〕俗》といった二分法にかかわる観念のもとに ああだこうだと 突っつかれるのを見たくない。言うとすればファウストにかんして その聖というのは なぞを持った自然本性のことであり じっさいかれは 俗あるいはデーモンと その同じ自然本性の自己に立って 手を結ぶにすぎない。つまり 聖も俗も 観念〔をもてあそぶ問題〕としては あくまで《ファウスト》にとって 無縁と言いきっておかなければならない。
ドストエフスキーも もてあそんではいないであろうが 観念を――もしくは観念で人格像を――織り上げていこうとしているように見え これは 弄ぶように見える。これは 科学行為としての客観認識における観念の問題とは 微妙にずれて 政治活動を扱おうとするところから来るのではないか。 
(A)系と(B)系とが 観念的に――だから しばしば外の政治的に――だと思うが そのように合わさったアレクセイは

(C) つまり天性潔白で 真理を探求し ついにそれを信じるに至ったのであるが 一たんそれを信じた上は 己が心魂を傾けて一刻の猶予もなくこれに馳せ参じて 少しもはやく功績をたてたい しかもその功績のためには一切の物を 命さえ犠牲にすることを辞さないという 必死な希望に駆られていた。   (カラマーゾフの兄弟〈第1巻〉 (岩波文庫) 1:5)
(C-1) というのは 彼(アレクセイ)はすっかり師(ゾシマ長老である)の精神力を信じきって その声望を自分自身の勝利か何ぞのように思っていた。  (1:5)
(C-2) では長老とは何者かというに これは人の霊魂と意志とをとって 自己の霊魂と意志とに結合させるものである。   (1:5)

このようなアレクセイ・フヨードロヴィチ・カラマゾフなる人物の出現について ドストエフスキー自身 つぎのように説明する。ロシアの 生活する人びとが ここで からまってくる。

(C-3) なぜ 彼ら(長老への巡礼者たち)は長老の顔を見るや否や その前に身を投げて有りがた涙にむせぶのか それは アリョーシャにとっては何の疑問にもならなかった。おお かれは よく理解していた! 常に労苦と災厄に いや それよりも一層 日常坐臥の生活(――《生活》!〔・・・引用者〕――)につきまとう不公平や 自己の罪のみならず世間の罪にまで苦しめられている ロシア庶民の謙虚な魂にとっては 聖物もしくは聖者を得て その前にひれ伏して額づくこと以上の 強い要求と慰藉はないのである。
《よし我々に罪悪や 虚偽や誘惑があってもかまわない その代わり地球の上のどこかに聖者高僧があって 真理を保持している。その人が真理を知っている。つまり真理は地上に亡びてはいないのだ。して見れば その真理はいつか我々にも伝わって来て やがては神の約束どおり 全世界を支配するに違いない》と。こんなふうに庶民が感じているばかりか 考えてさえいることをアリョーシャはよく知っていた。そしてゾシマ長老が庶民の信じているその当の聖人であり 真理の保持者であるということを疑わなかった。 (同上 1:5)

作者ドストエフスキーがこの一つの説明を知っているだけではなく アレクセイ本人にも語らせていて 本人も知っているというのである。
こういうことになりはしないか。これまで見た限りで ドストエフスキーにおいては 自己と他者との(あるいは社会関係における生活の苦しみにまつわる)デーモン関係が 問題なのではなく デーモン関係なる一つの観念に対する自己のそして人びとの〔やはり観念ないし情念である〕デーモンの展開が かれの文体の基軸をなしているのだと。 
たしかにこれは もしそうとすれば 《意味と情念》の問題である。《情念と意味》という観念そのものである。
この上の(C-3)として引用した文章の表現〔のきわめて《心情倫理》的であること〕にかかわらず むしろ 主人公アレクセイは――まして作者ドストエフスキーは―― 沈着冷静なのであって いうとすれば 政治的であることを 見てみなければならない。精神の内なる政治学でありつつ すでにじゅうぶん外にも出かけ社会力学の政治学へも 重心を移している。
前章で浅田彰(有名人なので原則として呼び捨てにすることにする)は言っていた。

音楽(要するに文体・発言・生活)はさまざまな危険にとりまかれている。音からメタリックな輝きを奪い 閉じた空間の中に重く沈殿させる いくつもの罠。その中でも最大のものが《意味》と《情念》にほかならない。
浅田彰:〈リトゥルネッロ〉Ⅴ−ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)

内なる精神の政治学の思うようにならない世間の歪みたるデーモン関係 その《罠》 これについて 《意味〔の構造〕》を重視するならば あたかもドストエフスキーと同じような《観念》の問題に進むかも知れない。浅田彰は アリョーシャの道へ進む気遣いはない。ドストエフスキー氏は この後行する世間領域である外での政治学(それとしての生活行為)が 虚構である芸術作品の中で 語られる分には 自己の内的な精神の政治学だという見解を持ったのではないか。ここに立って 文体を展開する。
浅田彰氏は ウェーバーの科学としての意味の構造に対しても ドストエフスキーのこのような〔やがて繰り広げられようとする政治活動家としての〕社会的な実践行為の織りなす意味の構造に対しても そこにいづれも なお情念や観念や怨恨を見るとして斥け そうではなく わずかに隙間があればいい その隙間にマシニック‐メタリックな音を聞いていこう というのだと思われる。
わたしたちは ここまでにおいて 冒頭に引き合いに出したウェーバーの見解を 批判したと言っていいはずである。

おまけ(お口直しに)

そこへ十八ほどの少女が はいって来た。まんまるなばら色の顔をして そのうすあま色の髪は 燃え立つような耳のうしろに 平らになでつけてある。はじめちらりと見たところでは 私は大して感服しなかった。というのは シヴァープリンからこのマーシャ つまり大尉の娘のことを 全くの白痴娘のように聞かされていたからである。マリヤ・イヴァーノヴナ(マーシャ)は片すみに腰をおろして 針を運ばせはじめた。そのうちにキャベツ汁が出た。・・・
・・・
《で マリヤ・イヴァーノヴナはどうです?》と私はきいた 《やっぱりあなたみたいにお勇ましくていらっしゃるのですか》。《マーシャが勇ましいですって?》と母親は答えた。《いいえ この子はそりゃ気が小さいんですの。・・・》。
                *
恋のおもいをしりぞけながら
うるわしの君わすれめとひたにつとむる。
あわれ かくてマーシャを避けながら
自由をえんとあこがれねがう!

されどわれを俘(とりこ)にせし眸(ひとみ)は
たえずわがまなかいにあり
わが胸うちをかきみだし
わが安らぎをやぶりたる。

君よ わが不幸を知らば
われを哀れみたまえ マーシャよ
このあさましき土地にありて
君の俘となりしわれを見なば。

《君はどう思うかね?》と私はシヴァープリンにたずねた。・・・ふだんは寛大なシヴァープリンが その歌はなっておらんと断乎として言い放ったのだった。・・・
・・・シヴァープリンは 刻一刻といよいよ私をじらせながら言葉を続けた 《だが友達の忠告は傾聴するものだ。女を手に入れたいんなら 歌なんか使ったってだめだね》。
《それはどういう意味です? ひとつ伺おうじゃないか》。
《いいとも。つまりだ あのマリヤ・ミローノヴァにさ 夕やみ迫れば君のとこへ忍んで来てもらいたいんなら そんな甘ったるい詩なんかより 耳飾の一対でも進呈しろっていうのさ》。
私の血はわき返った。
《だがなんだって君は あの人をそんな眼で見るんだ?》と私はやっとこさで憤怒をおさえながらきいた。
《それはな》と彼は毒々しい冷笑を浮かべて答えた 《僕が経験によってあの子の気質や性癖を知ってるからさ》。
《でたらめをいうな 卑劣漢!》と私はかっとしてどなった。《実に破廉恥のきわまるでたらめをいうやつだ》。
シヴァープリンは顔色をかえた。
《今の言葉はただじゃすまんぞ》と彼は私の手をぎゅっと握って言った 《僕は決闘を申し込む》。
            *
《あたしもう死にそうでしたのよ》と彼女(マリヤ・イヴァーノヴナ・ミローノヴナ)は言った 《あなたがた二人で切り合いをなさるって伺った時は。男のかたって本当におかしいのねえ!一週間もたてば忘れてしまうにきまってるたった一言のために 切り合いをしたり 命ばかりか 良心までも犠牲になさろうとするのね。それだけじゃなく あの・・・まあどこかの人たちの幸福まで犠牲にしてしまうのね。けどあたしちゃんと知っていますわ あなたの方からけんかを仕かけたのじゃないことは。あのアレクセイ・イヴァーヌイチ(シヴァープリン)が悪いにきまってますわ》。
《どうしてそう思うんです マリヤ・イヴァーノヴナ?》
《だって・・・あの人はそりゃ意地悪なんですもの!あたしアレクセイ・イヴァーヌイチはきらいよ。とてもいやなんだわ。でもそれが妙なの あたしあの人にいやな娘だとはどうしても思われたくないんですもの。もしそう思われたら とても心配だろうと思うの》。
《ですがマリヤ・イヴァーノヴナ あなたはどう思ってるんです?あの男の方じゃあなたが好きですか きらいですか?》
マリヤ・イヴァーノヴナは口ごもって 顔をあからめた。
《それは・・・》と彼女は言った 《きらいじゃないと思いますわ》。
《なぜそう思うんです?》
《だってあの人は私に結婚を申し込みましたもの》。
《結婚を! あいつがあなたに結婚をですか? それはいつのことです?》
《去年でしたわ。あなたがおいでになる二た月ほど前》。
《であなたは嫁(い)かなかったんですか?》
《ええ御覧の通りにね。そりゃアレクセイ・イヴァーヌイチは頭のいい人ですし 家柄もしいし 財産もおありですわ。けど いざ式場で皆さんのおいでの前で あの人と接吻しなけりゃならないと思いますと・・・。どうしたっていやですわ!どんな幸福があろうと いやなことですわ!》
プーシキン大尉の娘 (新潮文庫) 1836 ¶3−4)

(つづく→2005-01-13 - caguirofie050112)

*1:ルウソ――または教育について――そのもくじ→2005-11-28 - caguirofie051128