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哲学いろいろ

第十六章 信仰の理論

目次→2004-11-28 - caguirofie041128

第〓部 わたしの信仰

[えんけいりぢおん](第十五章−F.ドルト/欲望の理論) - caguirofie041129よりの続きです。)

第十六章 信仰の理論

ここからは 表現しがたい信仰そのものの問題として 表現の及ぶ限りで 話し合っていこうと思う。
これまでの前提――信仰を存在思想としてとらえる / それは表現の問題である / この立ち場をつらぬく――を もはや取り払おうと思う。ただし 信仰は わたしがわたしであることの説明表現としての根拠(つまり 実際上 主観的な確信)であるから 表現したそのことじたいが 信仰そのものでもないことは やはり大前提である。従って 言いかえると やはり人間の論法では 新たなかたちですべて表現の問題でありつづける。と同時に その新たな思想(経験思考)を超えて 信仰(非経験との非思考における関係)にも 語り及ぶことになる。
問題は 消極的には 哲学の回り道や道徳に対する信頼と遵守とから――それらは そのことじたい 必要・有益であるが それらから――自由になることである。積極的には やはり時間過程=歴史社会の問題であるから 依然として同じく存在思想という側面においても どれだけ 妥当な表現がなし得られるかにある。従って 一つの付随的な・しかも大きな問題点は 信仰などどうでもよい / わたしは無信仰であるという一つの立ち場に対しても これじたいが 無信仰という一種の信仰なのであるから ともに 存在思想の自由なありかたとして 語り合っていくことにある。視点をあらたに 信仰の次元に据えて なおかつ いくつかの真実と真実との間で 闘い=話し合いを進めていくことである。(ちなみに 信仰や無信仰が それらの妥当性をめぐって 経験思考によって 論証しきれるものなら もはや信仰とも無信仰とも言わない。ふつうの考えとしての思想である。非経験の領域を排除した結果となるからである。)

信仰の定義

それには 初めに 信仰の一般的な定義から始めるのがよい。おのおの《わたし》が《存在》しているということにおいて 《信仰》なりあるいはその《主観真実》なりが どのように位置づけられると考えるか。
この定義の問題は たしかに哲学を介在させなければならない。それには 誕生せる(すべき)自己の存在表現の中での言葉を それぞれ概念として定めることから 出発しなければならない。
たとえばこの前提では わたしは誕生したという表現は わたしは神を信じるという表現にとって代わられるという時 その表現事項の全体が やはりわたしの主観真実であるにすぎないのであるが そのような想定事項を一つひとつ 明確なものにしておかなければならない。いまの表現例では 明らかに 《自己》と《神》とが 二項関係として捉えられてしまうようになるゆえ それらの定義を はっきりさせておく必要がある。表現形態としてはこの二項関係が 《信仰》と呼ばれるものであるとき その二項ないしその他さまざまな事項にかんして いわば初めに交通整理しておく必要がある。
いまの《信仰》の定義は 実際には 《自己の神との関係》のほかに まったく類型的には同じ内容として 《自己と無心(物質?)との関係》という表現形態をも 含んでいるということになる。一般的には 《非経験と経験(経験存在たるわたし)との関係》 これが 信仰である。
これは次のことを物語る。存在思想(《われ誕生せり / いよよますますかなしかりけり》)は 存在(《わたしがわたしである / わたしがわたしする》)を 完全には認識しえず 余すところなく言葉に表現しきれないので 非思考・超経験の領域――つまり《信じる》――が 不可避・不可欠だということである。あるいは 実際には その順序が逆であろうとも考えられる。信仰(あるいは無信仰)が 時間的にも・考え方の上でも 先行していて 思想がそこから もたらされると言うべきであろう。言い換えるなら われわれが生きることにかんして 信仰ないし無信仰(つまり無神という非経験を信じる立ち場)が すでに初めに与えられたものとして われわれは出発せざるをえないということである。また これが《基本出発点》とよんでいたものである。なぜなら 少なくとも人間の論法では 信仰者も無信仰者も いづれもこの基本出発点が自由であるというところに立っている。この自由は もはや考えても決着がつかず 侵すことができないからである。信教・良心の自由としてもうたわれている。
この基本出発点として説明する信仰は 初めから そしてどこまで行っても それぞれ個人の《主観》であり その《真実》であるにすぎない。そして 世界の中におけるわたし あるいは わたしと世界すべてとの関係 これにかんする確信と意識(潜在意識も含めてよいであろう)があるとする限りで この主観真実たる信仰も 現実だと言わなければならない。同じくここでも 実際の順序は その逆であろう。信仰現実→主観真実→経験合理性の思考(存在思想一般およびもろもろの思想・生活)。そうでなければ 基本出発点に 信仰の自由を立てる(立てざるをえない)ことは 意味がなくなる。基本出発点などどうでもよいという人も 大きくは 無信仰という・自己と非経験との関係にあり 取りも直さずその大前提としての自由に立っている このことに間違いないわけである。ここに補足すべきことは 主観の真実といえば 経験領域におけることがらに対する認識・判断としてのそれも 含まれることになるから これを区別しておくことである。そうすると 全体として次のようになる。《わたし》の《主観真実》には 《非経験》に対しての・従って非思考=信じるとしての《信仰》と 《経験》に対しての・考えるとしての《思考》とがある。《考える》の対象(あるいはそれとの関係)を 《事実》とし 《信じる》とそれは 《真理》と呼ぶのがよい。

人間=わたし・・・・・・・・・・・主観真実 Z 

  • 信じる・・・・・・・・・・・・非経験=真理 X
  • 考える・・・・・・・・・・・・経験 =事実 Y 

わたしZiの世界観=X-Y-Zi

《事実》も《真理》も それぞれに対してわれわれは 受動的な関係にしかない。事実は 経験領域であるから われわれが――もろもろの自然現象とともに――行為した事柄であるが その結果(また その状態ないし 常なる動態)に対しては これを受容しつつ行為にも及ぶ。または 受容しないと言い張るかたちの受動的な関係にある。
しかも 問題は これが事実だ / 事実はこれだ というように言って われわれが主張するときにも それは もはや《事実 Y》そのものではなく これを受容し これに対してわれわれが思考し認識した内容としての 事実(Y-Z=すなわち 事実Yにかんする主観真実Z =事実観)にすぎない。つまりここでも 表現の問題である。
事実にかんする定形的・定量的な認識については 一般にすべての人のその主観真実が互いに合致するであろうということで その真実は 客観真実であると言われたりする。(その意味で 真理という言葉も 使われたりする。)事実じたいが 客観(客観事実)と呼ばれやすい。一般的には その客観に対して別の客観も 提出されたりするのだから やはりあるのは 人(1〜n)おのおのの《主観真実Y-Zi》である。あるいはまた 主観真実だからといって 複数のそれらのあいだで つねに差異を持って対立しあっていなければならないわけではないであろう。事実も客観も 概念としては 用いられるのであろう。そして そのものとして捉えがたい事実Yに対する主観真実Y-Zも いくらか 真理Xに対する主観真実X-Z(真理観)つまり信仰に似ている。
だが 《真理X》となれば ますます主観の及ばない領域である。おのおの主観真実X-Ziにすべて おさめられているかたちでしかない。経験思考によって考えても 分からない領域である。考えても 分かるか分からないかが 分からない。人間の条件(つまり 無条件という条件)として この信仰X-Zは 各自に自由だと想定されるし じっさいこの想定が 現実である。
まとめて わたし(1〜n)の主観真実 / 存在思想 / 世界観は 記号として X-Y-Zi と表わされうる。無信仰の立ち場は 真理X を 真理の無・非経験の無 nonX として立てているのであるから その世界観は nonX-Y-Z として表わしうるが これも おおきくは X-Y-Z に含まれる。X(X/nonX)-Y-Z。また 真理Xには いろんな神・仏(つまりX1〜n)がありうるかもしれないが 類型的には すべていわゆる有神論として やはり X-Y-Z のもとに捉えられる。有神論と無神論(ノンX観 / マイナスX観)とを含めて やはり 基本出発点から見た世界観は 大きく X-Y-Z のもとに表わしておくことができる。
ちなみに 哲学ないし経験科学は その主観真実を 事実観Y-Z の領域に限った視点から世界観X-Y-Zを取り扱う。学問として そのように禁欲する。人間の生きることにかんしては この禁欲に制約される必要はない。つまり 信仰(とくには X-Zi)が自由であり ここに基本出発点の想定がある。

信仰という生活・愛

この《真理》のことを われわれは《非経験の領域》とし 主・神・ヤハウェーなどと呼んできた。歴史社会的な事実関係のなかで わたしがその主観真実(X-Y-Z)において《わたしがわたしである》という誕生を得て さらにこれを持続していく過程 これを表現する中に用いたことばである。
《きょう 〈存在せしめる者=ヤハウェー〉が わたしを存在せしめた》という・単なる自同律・自己同一性のことでさえある。けれども この《空虚》な表現の示す内容は 《普遍的》であると。

わたしの存在は 経験領域での事実関係の中にあって そしてこれを認識するわたしの主観は 一個の主観にすぎず その認識も行為も能力に乏しい。あやまつのが つねである。この主観の限りで 《わたしはわたしである》という自らの真実を持つにいたることはありうる。《あやまつなら それに気づくとき または気づいたわたしを思うとき わたしがわたしである。》といった主観真実の・反復経験的にして持続する過程は 揺るがし難いという一定の段階に到ることは ありうる。この真実において わたしは 弱い。そもそも 自然身体の誕生として わたしは 受動的であった。過去の真実や世界現実に対しても わたしはこれをまず受容することから始めることしかできない。この弱さにおいて この弱さを誇るかのように わたしは 自己の真実を保持するということは ありうる。

このように語っているものと思われる。
いわば とにかくわたしが いま・ここにいるという最小限のわたしである。この意味では 我れ思う・その思う我れを思うところの我れあり(Je ME pense, donc je suis.〔Paul VALERY〕)また この限りでは 無神論の信仰とほとんど同じである。表現の中にヤハウェー神を用いて 《存在せしめる者がわたしを存在せしめた》と言うにすぎないのだから。
もしこのあと 付け加えることがあるとするなら いわゆる有神論としては 

《神よ見そなわしたまえ。このわたしの真実とその持続過程を。もしこのわたしの真実を明らかに照らし出してくれる真理の光りがあるとするなら すでにわたしは これを信じている。このわたしの真実が明らかになるということは 他の人びとの・類型的には同じありかたとしての真実と われわれの力の及ぶ限りで 語りあうことができる。その過程が いまのわたしの信仰の持続でもあることにほかならない。・・・》

というように 表現上 展開される。
《神よ照覧あれ》と言ったりするのは 弱虫のやることだよと言う人もいれば いやそれでこそほんとうの自己に帰るのだよと言う人もいることだろう。あるいはさらに 後者の場合には 信仰真実の持続は 表現上 神の愛(神による愛・神への愛)であり この愛は話し合いの過程として 人間の愛であるにほかならない というようにも 発展する。弱さを受け容れるとき――これは 無神論者も同じであろうそのとき―― 弱さの持続に対しても弱さを見ている人は 表現の問題で 非経験の領域にかんすることがらを さらに展開することがあるということだと思われる。
《愛》は 経験領域での感情や思考・行為にすぎないと考える人もあることであろうが またそれゆえ 幻想にすぎないと考える人もあることであろうが この言葉をも用いて わが信仰の基本出発点のことを 表現するにも到る。無神論の人は 基本出発点での・人間に無条件の弱さ=受動性を受け容れたあとは いわば強い人であるというように もはや 愛などの表現を 展開したりしないかも知れない。
われわれの表現に従えば 信仰の問題が存在の問題であり これが 時間の問題でもあるというとき 実際には 真実と真実との話し合いの過程が わが信仰とその持続の問題となると考えることになる。この持続過程が 愛の問題なのだと。ここで 《愛》は われわれ一人ひとりが 自己の持ち前の能力を自由に十二分に発揮していくこと またこれを自己にも人にも実現しうるように努力することである。話し合いにおいても 誰もがその能力を発揮するというその愛であり 広く一般に 自治・共同自治の常なる展開過程のことである。誰からにせよ より妥当な表現や考えが提出されることは われわれの存在思想に寄与するはずである。自由な開かれた話し合いこそ――そこでたとえ けんか(口論)が始まろうと―― その愛が おのおのの存在(わたし)への愛にほかならない。この意味合い(つまり現実過程)では 信仰の問題は 愛の問題となる。無神論者も これらのこと(愛など)には すでに触れないとしても 主旨としては同じ立ち場に立つであろう。
ちなみに もし仮りに 事実にかんしてその 誰にでも・つまり普遍的に認められる認識がありうるとして 表現上その認識の対象たる事実が 事実たる神といえるとすれば この事実の神は 宇宙・万物の創造主と呼ばれたりもする。単純には その事実Yに対するわれわれの受動性に着目して 表現上 神・主などと表わすということである。または いま言っている《話し合い》における勝ち負けが 《わが存在》でないのと同じように 科学による事実にかんする新しい発見じたいが やはり《わが誕生》でもない。科学は手段にとどまるという意味で 《事実》にかんして その事実の創造主(推進力)という表現を 用いうる。
さらにまた いまの議論では 人間を焦点としてその側から 真理X およびそれとの関係としての信仰X-Z あるいは 事実Y およびそれとの関係としての科学認識Y-Z といったいづれも主観真実X-Y-Ziをとらえたのであるが 実際としては 事実(あらゆる事実・完全な事実)も真理も いうとすれば この人間の主観真実を超えたものでもある。われわれはつねに受け身の立ち場にいる。人間は 世界の中心ないし根拠ではなく その意味での主体ではない。従って 再び循環してのように 人間が世界の中で主体でないという意味で すべては 相対的な主観真実X-Y-Ziの問題におさまるとも言える。しかもこの条件のもとでの主観真実の問題だという限りでは 人間は おのおのわたしとしての主体であると言うことになろう。自由意志をもった信仰および思考の行為の主体(Z1〜n)である。
この《主体》であることが 人間一人ひとりにおいて共通であるという自由が成り立ち その自由が人びとに互いに共通であるなら 平等である。誰もがこのように例外なく認めているとすれば その信仰および思考の主体的な行為は――互いの話し合いの過程に従うというかたちで―― 人それぞれの愛の行為であるにほかならない。自由への愛であり この自由が受け身であるなら 表現上 真理=神の愛というに到る。やはり自己の自治=共同の自治の過程。これらのことは 表現上 真理Xに基づき 事実Yにかんしてわれわれが共同に主観している真実一般X-Y-Z として世界の大前提をなすものと思われる。いうまでもなく 民主主義・法治社会は この大前提にもとづいている。ここでも 有神論なり無神論なり具体的な立ち場を採り表明した主観真実X-Y-Ziは それぞれその人の《基本出発点》だということになる。


《主体とその自由=平等 / 愛すなわち自治=共同自治 / 世界とそこにおける真理(非経験)および事実(経験)そしてそれらに関する真実 / 信仰と思考との時間過程 / また 個別特殊的に 真理=神(ヤハウェー・アッラーその他)・法(ダルマ・慈悲・無・空)あるいは無神・物質などなどといった表現形態その他その他》 これらの諸概念も ひととおり定義しえた(位置づけえた)と思われる。これらすべてが 《存在》の問題であり また 《表現の問題》でありつづける。と同時に 《真理にかんする信仰》を想定して立てるという《存在》の議論にあっては この表現の問題を超える領域をも 想定の上で 実際には前提していることになると言わなければならない。(さらに実際には 順序が逆であることが われわれの現実だと思っている。)
表現は 経験思考の領域に限られる。それでも この経験を超えた領域の問題にかかわっていく。その内容が人間に分かるか分からないかが分からないというかたちで かかわっている。それが 存在についての思想であるし 話し合いの過程が 存在であるとさえ捉えられる結果をもたらす。人間の論法では このようだと考えられる。
おそらく けれども 《愛》が これらすべての領域にわたって・つまり世界の無制限性〔という想定〕において 表現上 とらえられる概念であり それは どこにでも現われるといってよいのではないだろうか。真理たる神の愛も 代理表現として 経験領域でのことばで言い表わされる。《霊・生命・道》などである。主観真実を越えたことがらが そのように あたかも人間の主観真実のうちにおさめられるかに とらえられ これらの表現行為が われわれの世界でもあることになっている。
(つづく→[えんけいりぢおん](第十七章−ヨハネ福音) - caguirofie041202)