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哲学いろいろ

―第十五章 F.ドルト/欲望の理論

目次→2004-11-28 - caguirofie041128

[えんけいりぢおん](第十四章−仏教) - caguirofie0411127よりのつづきです。

第十五章 F.ドルト*1 / 欲望の理論

われわれがここで探求していることは 必ずしも《存在とは何か / わたしとは何であるか》〔の哲学〕ではなく 《すでに存在する自己のあたらしい誕生 / わたしがわたしであること》の――時間過程的・歴史社会的な――内容である。また わたくし個人としては すでにこの《わたしは生まれた》(あるいは《いよよますますかなしかりけり》)という表現を得て この自己の存在思想を 持続して展開する立ち場に立って 述べている。そしてこれは 当然 試行錯誤の過程である。
したがって 一つには これを模索している段階にあると語る人がいるが この人びとは われわれと全く同じ立ち場にいると言わなければならない。もう一つに すでに久しく生きて来て 世間の修行も積んでいれば学問にも励んできたという人びとがいて その中では 人間と社会との知恵や規範を それとして語るにすぐれるようになり これをもって 《わたしがわたしである》と語る場合が見られる。このような人びとは まさに《存在とは何か / われわれが生きるとはどういうことか》に関して すでに語るべき見識を持ったという人である。――ただ これがもし 経験知識としての人生訓もしくは膨大な学識のみであるなら それは 模索過程にあって探求中の人となんら変わりなく 従って 《わたしの誕生》の事件にかんしては われわれとやはり 全く同じ情況にあると思われる。
さらにそして もし仮に 形而上学に裏打ちされた社会倫理や道徳規範を それらの見識ある人が 存在やその誕生の拠り所とするような場合には われわれは その基本出発点にあっては 袂を分かつということであった。一般に哲学やその克服としての哲学の営為は 存在思想にとって その助走であると捉えた。倫理規範化は とくに信仰に結びつく思想から 派生するわけでもあるが――また これに対する批判としては 簡単にニーチェらの思想に見たのであるが―― いまこれらに関連して 聖書のなかに 非道徳論としての存在思想を捉える主張があるので 紹介したいと思う。ちなみに 非道徳論であって 反道徳論ではないし 信仰論ではなく 経験思想として説いている。(もしくは 信仰を経験思考において 説明している。)
いきなり本論に入るならば たとえば

エスは 欲望(le désir)を指し示し これへと導く。


(F.DOLTO & G.SEVERIN:L'Evangile au risque de la psychanalyse tome 1 & 2 ;Ed.Jean Pierre Delarge1977,1978;coll."Points"1980,1981
〃          : La foi au risque de la psychanalyse ;Ed.Jean Pierre Delarge1977,1978;coll."Points"1991
たとえば 《聖書の存在思想と精神分析》第二巻〈イエスと欲望〉)
 ISBN:2070759679

と表現する場合である。この欲望というのは 受動的な感性とその目標への欲求(besoin)というような意味であるが 経験主体である人間に対しては 決して道徳へとではなく この欲望へと――ひとまずとしてでも 欲望へと――みちびくことが イエスの存在思想だということになっている。
しかも この欲求の目標あるいは欲求への推進力は 《欠如 manque 》とも呼ばれる非経験の領域であるとする。つねに この非経験の領域へ開かれており われわれはそこで 受動性に基づき この欠如を受容し これを自らの推進力ともして みずからの存在を 持続し展開していく。なぜなら この欠如は 決して 満たされることはないゆえ という。このような過程を人は通ると言っている。
一言で言えば わたしの誕生を 時間過程に焦点をあてるところから捉えようとしており つねに現実情況のほうから来るあの《もう一人の自己と見えるもの》としての声とその誘惑――つまり欲望――に絶えず付き従ってでも その試練の動態を経ることによって 〔イエスの指し示す〕わたしの誕生へと導かれるというものである。
たとえば具体的に ヨハネによる福音の中から《イエスサマリアの女》の一編について そこでは 明らかに《経験領域と非経験領域》とが示されており その両領域の関係にこそ 欲望とも名づけるわれわれの存在の推進力があると表現されたと 説いていく。

  • ちなみに だから 《欲望》という言葉を ふつうの用法でとらえていけないのではなく かのじょによれば さらに別様の見方も 実際の《わたしわたしする》過程も そこに 伴なわれている そのことに思いを致すべきであるということになる。

ヤコブの井戸に水を汲みにやって来たサマリアの女との会話の中で イエスは けっきょく次のような言葉を語る。

この水を飲む人は誰でも また喉が渇く。しかし わたしが与える水を飲む人はけっして渇かない。そればかりか わたしが与える水はその人の内で泉となって 永遠の生命に至る水が湧き出る。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 4:13−14)

ここでは 通俗的な言い方をすれば 《この世とあの世》とが われわれ人間にとって互いにつながっており むしろこの時も その二つの世がそこで同時に指し示され これによって われわれの自己たる存在が表現されているのだと。水にかんして その欠如(つまり渇き)とそれを満たす欲求とに喩えられるように われわれが生きることは 非経験の欠如にわれわれが一人ひとり触れられ 促されてのように いま・ここに その受容と欲求との往復運動として そしてこれが 徐々に新たな段階へと導かれるような・常なる過程として あるのだと。
取り敢えずは 経験的な水と非経験の水 あるいは渇くことと渇かないこととが この今・此処で 同時に――かんたんに言えばそのような構造関係として――捉えられており しかも《永遠の生命に至る水》も これが われわれの認識対象としてあったり その道徳規範化であったりするのではないというわけである。そのような表現(水・泉・湧き出る)こそ たとえとして持っているが 要は いまの現実的な時間過程・その動態なのであると。
これは 一つの見解である。さしあたって その焦点の置き方がちがうのだというふうに考えられる。われわれのように 基本出発点を必ずしも立てておらず 従ってその持続として この動態をとらえるというようには 説かない。経験と非経験との関係が まさに個人個人にとって 現実の存在であり 人間の生きる過程であるという点では 共通であるように思われる。
この思想――それは 精神分析学との関連で提出されている――にかんして いまのサマリアの女の物語に即して もう少し見てみよう。
サマリアの町に来ると イエスは 旅の疲れから そのままヤコブの井戸のそばに坐っていた。

サマリアの女が水を汲みにやって来たので イエスは 《水を飲ませてくれませんか》と言った。弟子たちは 食べ物を買うために町に行っていたのである。
すると サマリアの女は 《ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに どうして水を飲ませてくれと頼むのですか。》と聞いた。ユダヤ人は サマリア人とは交際しないからである。イエスは答えた。《もし あなたが 神が 何をくださるか また 〈水を飲ませてくれ〉と言ったのが誰であるかわかれば あなたのほうからその人に頼み その人はあなたに生きた水を与えたであろう》。
かのじょは言った。

主よ あなたは水を汲む物を持っておられないし 井戸は深いのです。それなのに その生きた水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは わたしたちの先祖ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え かれ自身も その子どもや家畜も この井戸の水を飲んだのです。

エスは答えた。

この水を飲む人は誰でも またのどが渇く。しかし わたしが与える水を飲む人は決して渇かない。そればかりか わたしが与える水はその人の内で泉となって 永遠の生命に至る水が湧き出る。

その女は 

主よ のどが渇くことがないように また ここに汲みに来なくてもいいように その水をください。

と言った。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 4:7−15)

まず すべては 存在思想の問題である。つまり 表現の問題である。少なくともここでは そのように読む。ただし もちろん この井戸の場とそこにいる二人・あるいは水を飲む飲まないといった現実情況 これらのことからも 離れる必要はない。設定としては――もしくはすでに現実に起こっている情況としては―― イエスが すでに自己の存在思想を表現しえて これを携えて生きている人であり サマリアの女は いうとすれば これを模索しているということである。この前提で 互いの会話にかんして たとえばこのように語りあったという表現が 与えられている。水を汲む汲まない 飲む飲まないは 現実の経験行為であるが そのことをも からめて むしろ存在思想が 表現されていくのである。たとえば そこへ弟子たちが帰ってきたあと

弟子たちが 《ラビ 食事をどうぞ》と勧めると イエスは 《わたしにはおまえたちの知らない食べ物がある》と答えた。弟子たちは 《誰かが食べ物を持って来たのだろうか》と互いに言った。
エスは話した。《わたしの食べ物とは わたしをお遣わしになったかたの みこころを行ない そのわざを成し遂げることである。おまえたちは 〈刈り入れまでまだ四か月もある〉とよく言うではないか。わたしは言っておくが 目を開けて畑を見るがよい。色づいて刈り入れるばかりになっている。すでに 刈り入れる人は報酬をもらって 永遠の生命に至る実を集めている。こうして 種をまく人も刈る人も ともに 喜ぶのである。そこで 〈一人が種をまき 別の人が刈り入れる〉ということわざのとおりになる。おまえたちが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために わたしはおまえたちを遣わす。他の人びとが労苦し おまえたちはその労苦の実のりにあずかるのである。》
ヨハネによる福音書 (福音書のイエス・キリスト) 4:31−38)

F.ドルトの解釈によれば いまこの時 イエスは 存在思想の歴史的な進展過程において 他の時=将来にも――表現上―― 存在しているということのようである。すなわち サマリアの女に対しても あくまでかのじょ自身の自己の誕生を問題にして 語っているということになろう。まずは この聖書の箇所が――そして一般的にも―― そのような存在表現の問題として 述べられていると見ることに われわれも賛成である。人びとの助け合いや 水を飲ませてもらったなら感謝し その恩も忘れないといった世間の知恵や常識も ここでからんでいることにまちがいないが そしてこれをないがしろにすることは ありえないことだが 問題は むしろ別のところにあるというわけである。
そして だとすれば すでにここでは 存在思想が 自己のもとにその表現を得ているだけではなく 他者に向かっても語られ 働きかけられようとしていると言ってよい。これは 真実と真実との闘い(話し合い)の過程の 積極的な側面だと考えられる。すでに道徳や学識とは別の視点に立っての 自己の持続過程が 一例として これだと考えられる。つまり 実践と言われる。
《その水をください》とサマリアの女が言ったのに対して

エスが 《戻って ご主人をここに呼んで来なさい》と言うと かのじょは《夫はいません》と答えた。イエスは言った。《〈夫はいません〉とは まさにそのとおりだ。あなたは五人の男と結婚したが 現在つれそっているのは夫ではない。ありのままを あなたは言ったわけだ。》
かのじょは答えた。《主よ あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖は このゲリジム山で礼拝しましたが あなたたちは 礼拝すべき場所はエルサレムにあると主張しています。》イエスは話した。《さあ わたしを信じなさい。あなたたちがこの山でもエルサレムでもない所で 父を礼拝する時がやって来るのだ。あなたたちは 知らないものを礼拝しているが わたしたちは 知っているものを礼拝している。救いは ユダヤ人から来るからだ。しかし ほんとうの礼拝者たちが 聖霊と真理に導かれて父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら 父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから 神を礼拝する者は 霊と真理とをもって礼拝しなければならない。》
かのじょは言った。《わたしは キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。そのかたが来られるとき わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。》するとイエスは 《あなたに話しているこのわたしが そのメシアだ。》と言った。
ヨハネによる福音書 (福音書のイエス・キリスト) 4:16−26)

ここで語られていることは 《神は霊であ》り 非経験の領域であり 表現の問題であるからには 儀式としての礼拝の問題ではありえず サマリアの女の過去の経歴および現在の情況を言い当てたかどうかの問題でもなく もしかのじょが自己の誕生を求めていたなら かのじょが・そしてわれわれ一人ひとりが この《メシア=キリスト=油そそがれた誕生せるわたし》であると(その系譜に連なると) イエスは語ったということではないだろうか。表現の問題であるからには。また 誕生を言うなら 《父》という表現も現われる。
ドルトとセヴェランは こういうふうには(上のようには)言っていないが サマリアの女は この時――精神分析学の見地をまじえて言うには―― イエスに恋したのだという。たとえばそのように――また夫をいく人も替えてのように―― 受動的な欲望にみちびかれつつ その欠如へ向けての自己の側からも遂行する前進の過程において 単純に言って神に向かう・あるいはつまり自己の存在に到達するという。この過程に立ち止まらないならば・その前進を放棄しないならば すべての欲望の道は それこそが 神にむかうと語っている。
おそらく 非道徳論(反道徳論ではなく)という観点が 重要なのだと思われる。そのような一つの存在思想であるだろう。――《無意識》の問題であるのかどうか わたしは知らない。知らないというのは わたし個人としては 嫌うという意味である。受動性=弱さということでは 意識せざる自己の状態=過程が ふつうであり またほんとうでもあるだろうから 問題は 無意識の理論によっても 自己の誕生思想にたどりつく人がいれば それでよいわけである。欲望なり欠如なり他者なりの表現も 現代人にとっては そのほうが 分かりやすいという場合には 受け容れられるのだと思う。
また ドルトらの議論によれば この時イエスは サマリアの女の欲望なり存在思想の探求なりを見てとって それを受け取り 声をかけ対話をかわしつつ これを拒むことなくどこまでも この筋に沿って〔こそ〕かのじょを導いていったという意味で イエスは欲望を指し示し これへと人を導くということのようである。これは 帰ってきた弟子たちが 驚いて《なぜあの女と話しておられるのですか》と尋ねたがるまでのことでもあった。(ヨハネによる福音書 (福音書のイエス・キリスト) 4:27)《ユダヤ人はサマリア人と交際しない》から。それを敢えてするのだから 上のようなことになるはずだし また問題が 道徳(交際の慣習律)そのものにもないことになるということのようだ。
弟子たちが戻ってきたとき

その女は 水瓶をそこに置いたまま町に行き 人びとに言った。《さあ 見に来てください。わたしが行なったことをすべて 言い当てた人がいます。もしかしたら そのかたがメシアかも知れません。》人びとは町を出て イエスのもとへやって来た。
・・・
さて その町の多くのサマリア人は 《わたしが行なったことをすべて 言い当てた人がいる》と証言した女の言葉によって イエスを信じた。そこで このサマリア人たちは イエスのもとにやって来て 自分たちのところにとどまるように頼んだ。イエスは 二日間そこに滞在した。さらに多くの人びとが イエスの言葉を聞いて信じた。これらの人びとは女に言った。《わたしたちが信じるのは もうあなたが話してくれたからではありません。わたしたちは自分で聞いてこのかたがほんとうにこの世の主であるとわかったからです。》
ヨハネによる福音書 (福音書のイエス・キリスト) 4:29−42)

この福音書記者の筆がすべったのか あるいはサマリアの人びとがその驚きに圧倒されたからか 上のような表現で語られている。物語の締めくくりとして――その要請からか―― おざなりの表現のようにも見える。われわれは 占いや奇術に弱いものである。そのようなことを表現に用いて 語られている。それが嫌いだという人がいるのは 精神分析の用いる表現を嫌う人がいるのと 同じようであるだろう。要は いま・ここなるわたしの単一存在ということが 大事なのだと思われる。その点では 自己の誕生にかんして その女を含めたサマリアの人びととわれわれの間に 何のへだたりもないと知るべきだし もしそうとすれば 実際にここまで降りて行かないことには 存在思想にわれわれは出会わないとも知るべきであろう。そこまで降りていけば 必ず出会うとも言い切れないにしてもである。

              *

整理していえば (1)一つに 自己の存在思想のもとに 人生の伴侶をえらぶという意味での正式な結婚によらず 男とつれ添っているサマリアの女を前にして 道徳規範で対処する思想が 別系としてある。(2)もう一つに これに対して もろもろの欲望を われわれにとって 神なる欲望=純粋欠如 との関係のもとに捉え すべてはこの現実の欲望を受容しつつ 一人ひとり自己がみずからの道を歩む・その過程が存在思想として われわれ自らのもとに 示されるとする考えがある。このドルトらのように。(3)われわれとしては いかなる情況・いかなる個人的な経歴のもとであれ 自己が自己の存在にかんして その誕生を告げる思想(事件)に出遭うかどうか これをのみ 問題にしている。焦点の置き方としては この前提でのみ語ろうとしている。その結果――また 過程内容としても―― 誕生の表現に ヤハウェーなり神なり欲望=純粋欠如なりの語を用いること これは ありうる。非経験の想定としては すべて自由だと思われる。言葉の表現は それぞれその(非経験の)代理であるから。
(4)しかも ことは このような人生の旅において 哲学分析による回り道をしようとしまいと わたしなる単一存在――つまりそれゆえに相互の関係性を帯びる存在 またそもそもの初めに 社会的な存在――にとって 人格上の・また表現上の 確信および実際の上で賭け に基づき わたしがわたしである事件に出遭う。その出会いまでは 哲学上の裏づけがあろうとなかろうと その自己にかんする思索が深まってきており 時が満ちて来ようとしており――あるいは たとえ満ちていなかろうと―― 《行け》という声を聞いたなら これを受容し 実際に《行く》ということが 時として 起こる。そうして わたしは信じた それゆえ語ったという過程が 動き出す。心理的な付属物はすべて取り払って このように考えることができると思われる。

さて イエスは ガリラヤ湖のほとりを歩いていた時 ペテロともいわれるシモンとその兄弟のアンドレの二人が湖で網を打っているのを見た。この人たちは漁師だったのである。イエスが 《さあ わたしについて来なさい。人間を捕る漁師にしよう》と言うと 二人はすぐに網を捨てて従った。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 4:18−20)


エスはそこから歩いて行く途中 マタイという人が徴税所に坐っているのを見かけたので 《わたしについて来なさい》と言うと かれは 立ち上がり ついて行った。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 9:9)

これらの弟子たちは 一人ひとり すでに自己の内でその時までに思索が熟していたのだと言ったり また それぞれの欲望の問題が絡んでいて ともかくそれに導かれたのだと分析して捉えたりすれば あるいは理解しやすいのかも知れない。問題は 間違っていたなら これを正せばよいということであろう。まちがいに気づいたとき その時こそ わたしはわたしであるのだから。仮りに盲従というのは 道徳規範が合理的であると理解してこれを承認しこれに従うというだけではなく この範囲を超えて・つまり経験思考の限界を超えて その倫理的な要請を 普遍的な規範であると・またその修練こそが真理の道であると わざわざ人にも説くことにある。哲学なる回り道が それの経験思考としての必要性・有益性にとどまらず 最高の知恵であると 信じきることにある。これらは まだ盲従である。というか 自己自身の判断の絶対化である。そしてすべては 自由であり いかなるものであれ 存在思想に同調(同意)し これを受け容れ それとして(答責性を持って過程的に歩むという限りで)従うことには 何の不都合もないであろう。
《人間を捕る漁師にしよう / わたしについて来なさい》とまで表現することは 片や 倫理規範や迂回知識とは無縁のかたちで 片や 存在思想がそこまでの歴史的な進展を見ており その過程に沿って そこまでの・すでに答責性を従えた自由に立ったからである。この自由なくして そこまでの表現は ありえないし そもそも存在思想を扱うこともありえない。逆に言い換えると 内気な人びとは 哲学やものの道理に逃れるし 逃れたままでいることが多い。逃れたまま これこそがわたしのわたしたる所以であるとまで説くに至るのは 自由であるが 妄想の域を出ない。ほんとうには実践・生活していないのだから。つまりその自由は 生活の自由の蔭に隠れた甘え(助走)の自由である。存在思想の問題は そのようにして 時間過程の問題であると考えられる。
(つづく→[えんけいりぢおん](第十六章−信仰の理論) - caguirofie041130)