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哲学いろいろ

第二十一章 排除された第三項

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[えんけいりぢおん](第二十章−パウロ・3) - caguirofie041205よりのつづきです。)

第二十一章 《排除された第三項》論に寄せて〔(1)〜(19)節〕

前の三つの章(十八〜二十)では いわゆる実践に焦点をあて 理論以前のことを扱う部分が多かったかと思われる。そのことは 実際には 理論以後のことでもあって 生きた信仰としては なくてはならないことだと考えた結果である。
それにしても 生活そのものを扱うとなると 見方によっては いたづらに扇動しているとさえ捉えられたかもしれない。《余計なこと》として付け加えたところは その表現だけでは 単なる心情や信条に過ぎなくなるといわなければならない部分である。
あるいは 逆に われわれは 《やみくもに走ったり 空を打つような拳闘をしたり》しないつもりだが 〔逆に〕《時を得ても得なくとも〔この場合には 宣教に励みなさいという趣旨だが〕》(テモテ後書4:2)とも聞かれる。信仰の生活は 必ずしも前もって計画を立てたことの企てではないと考えられるということである。いくらか保守的になって考えるなら 必ずしもそのままでは意味のわからない《異言》の部分も いわゆる《たとえ》を用いて表わす表現の問題として捉えていくことが その読みの基本的な進め方だと思われる。
さらにパウロの表現するところでは

わたしたちが正気でなかったなら それは神のためであったし 正気であるなら それはあなたたちのためです。
コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 5:13)

ただ それにしても 神秘を含んだ《異言》は その謎を深めるためではなく 謎を解くために有り 一般にわれわれは 信仰において非経験の領域に開かれている(つまり 開かれることを決して抑制すべきではない)なら あたかも狂った者のようにも 語ることがある。そしてこのことも 経験科学や哲学の成果を――なぜなら それらの学問は 非経験へと開かれることを 正当にも 禁欲することがある―― 何ものにも規制されない現実のひとりの人間として 活用していこうという方向において おこなわれるものと考える。
従ってのように 上の引用文のようにも表現することがありうることを確認しておくことができる。そしてこれは 一にも二にも 信仰の立ち場から 存在思想の系譜において あの初めの《私は生まれた》が イエス・キリストの出現ののち さらに豊かに多様な形態のもとに 表現されるようになって来ていることを 表わすものと思われる。かのソクラテスも その表現するところが 人びとによって《しびれうなぎ》だと形容されたとすれば 生きた信仰は 生きた表現の問題だと考えられる。いまこのわたしのように 文章にして表わすだけでなく ということはまた その文章表現の以前と以後とに 一人ひとりの生きた生活が すでに展開されているということでなければならないと思われるのである。
この章から最後の章までにおいては 逆にこの信仰の立ち場を批判する見解を取り上げようと思う。それを知るとまさに キリスト信仰は 危機に瀕するのではないかとさえ思われるような一つの思想をとりあげ それとの兼ね合いで 全体のまとめをも なすことが出来ればと考えた。


焦点をしぼって 現代思想のなかから 今村仁司氏の《第三項排除効果》の理論をとりあげることとした。

排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)

排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)

一つの論点としてそれは――その序論としては―― 《供犠における犠牲(=第三項)の形成とその排除 そしてそのことが持つ 共同体にとっての社会的な効果》をあつかう。大きな理論なので 全体をくまなく取り上げることはできないが やはり基本出発点にかんする問題を 重点的にじっくり捉えていきたいと考える。
まず 上の引用文に続いてパウロは次のように語っているが それは 犠牲にかんする現代思想の理論にもかかわっており むしろその理論のほうにとってこそ有利なことを示すとさえ 見えるように思われる。

なぜなら キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちは 一人のかたがすべての人のために死んだ以上 すべての人も死んだことになるのだ と考えました。そして その一人のかたはすべての人のために死んでくださいましたが それは 生きている人たちが もはや自分自身のために生きるのではなく 自分たちのために死んで 復活してくださったかたのために生きるためです。
コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 5:14−15)

たとえばこのイエスが スケープゴート(いけにえ)であり 呪わしい第三項として社会から排除され かつそのあと しかもキリストなる聖性として内面化され再生産されるという情況につらなっていく というのが 第三項排除効果の理論である。

  • なお 上の文章は もはや律法でも道徳でもなく 単なる思弁哲学でもなく 存在思想の系譜において 誕生せる自己の信仰および生活態度にかかわるものであることは 繰り返すまでもない。きわめて特殊ではある。

第三項(犠牲)は 単に排除されたり殺害されたりすることで終わるわけではない。排除された第三項は 何らかの形で 社会関係あるいは共同体と結びついてこそ 第三項としての社会的機能を果たす。第三項排除過程は 排除または禁止と同時に内面化と解除(共同体への受容)という相反する両極運動をつつみこんでいる。儀礼過程は 第三項の受容(内面化)の過程である。・・・
今村仁司排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫) 6排除の構造‐5儀礼 文庫版p.221)

というようにである。話は このあたりから始まる。最終的には その全体として この今村理論も われわれと決して異なった議論を展開しているのではないことを示すことが 一つの到着点である。(簡単に言っておけば 今村思想は この第三項排除の動きとは別の 人間に備わった社会的な力の動きがありうるというものである。)

エスは 第三項として排除されたか

(1)まず イエスの十字架上の死は 《いけにえ》となった――その意味で《第三項として排除された》――というのは 事実〔としておおかたの主観真実〕であるだろう。
(2)ただちに基本的に確認しておくべきことは

・・・《わたし(ヤハウェー)が求めるのは あわれみであって いけにえではない》(ホセア6:6)という聖書のことばは どういう意味か。行って勉強して来なさい。・・・
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書9:13)

というイエス自身のことばを挙げておかなければならない。それにもかかわらず 《第三項排除効果》が 結果的にでも 歴史的な経験現実として はたらくこととなったこと この事実関係をも取り上げなければならない。
(3)問題は そのように歴史社会的に結果された第三項排除効果の現象が 《内面化》されているとはいえ 経験領域にとどまるものであるのか(――すなわち単純に言って いわゆる《宗教》現象が この心理内面化の現象もしくは共同幻想としての経験事実の問題であると考えられる。つまり経験領域にとどまるものであるのだが――) あるいはこれにとどまらず 時として まさしく《信仰》の問題にまで入って来ていると言うべきか このことにある。《いけにえが求められているのではない》にもかかわらず あるいは それゆえにこそ 事後のこととしては 扱い方を逆転させてのように そのいけにえの聖化をおこない これを 共同体にとって(?)・従って慣習制度的に(?)《内面化》し その宗教儀礼が展開されていくと言ったとき われわれの存在思想の系譜に立つ・しかも信仰は どこにどのように位置するというべきか これである。――また この系譜のことを考慮するならば キリスト・イエス以後の歴史だけの問題ではないことも 捉えておくことが出来る。
(4)今村氏も 結論としては おそらく存在思想〔一般〕の系譜に立ち いうとすれば無神論〔X(nonX)−Y−Z〕にもとづき この第三項排除効果から自由な・新しい人間と社会のありかたを志向し 思索しているとあらかじめながら 言っておくべきである。すなわちその限りで 信仰〔一般〕の立ち場である。
(5)もっともその焦点はむしろ 経済制度としても・そして観念体系としても 成立するに到ったいわゆる資本主義の社会と文化の構造についての解明にある。たとえば

宗教的供犠が聖性を再生産する儀礼過程であるのと同じように 商品‐貨幣‐資本の再生産過程もまた聖性の再生産過程である。ただ後者においては 聖性ができるかぎり消失する運動を含んだ聖性の再生産過程 言い換えれば 脱聖化的聖性の再生産過程である。・・・
排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫) p.220)

という如く 〔焦点はむしろ〕近代市民社会ないし現代社会の構造(関係過程)にかんする解明に向けられている。その全体が 観念(イデオロギー)過程としてあると見るところに 内面化された宗教儀礼の問題も ともに 第三項排除効果のもとに 取り扱われる。
(6)上の(3)節の問題はさらに具体的には次のように言い換えることができる。今村理論によれば その志向するところを別とするならば 人がどのような信仰(自己の存在にかんする主観真実)を持っていようと 社会関係(構造)においては 単純にかつ類型的にいえば 儀礼としての第三項排除効果を免れている者は一人もいないと見るところに 問題はある。非経験の信仰をも超えた(?)ところに この第三項排除(いけにえとしての殺害)の後遺症ともいうべき社会現実が 否応なくはたらくという見解にまで 到らなければならない。けれども これは 一たん 信仰(無信仰の信仰をも含めて)と経験思考の領域とを区別した上でのことだとは 思われる。――まだ結論を急ぐ必要はないが この点では その主張内容が最終的には われわれのそれと それほど違わないというのも あらかじめの見透しではある。
(7)しかもそれ(――経験領域と区別されるべき信仰の存在ということで 最終的には 類型的に同じ地点に立つとあらかじめ思われること――)は 次のようにさえ述べられるときにも 矛盾しないと言うべきであろう。

存在者の生成 発展 消滅のあらゆる場面にわたって働きつづけるものが 第三項排除効果であるとすれば それは存在者の運動一般の理法であり それの存在論的原理であるということもできるであろう。社会と文化は第三項排除の隠された不可視の効果の下で働く。この効果がなければ 社会も文化も現実存在しない。それは 社会と文化の本質が語りうる根本条件であるばかりでなく それ以上にそれらの現実存在の根本条件でもある。
排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫) 6‐1第三項の形成)

すなわち この《根本条件》からも自由な社会関係を志向するのである。

  • ちなみに われわれの誕生せる自己という第一の恩恵にかんする自己の弱さ=受動性とその持続は 《受容的理性とその鍛え上げ》として説かれている。これが 《非対象化的世界関係》のもとにあると説かれることは 非経験とわたしとの関係・すなわち信仰一般のことである。この自己が《この世に同化しえない / と同時に 相手と同じようになる》という見方は 《異者/ 異者受容》として同じく説かれている。――
    作ると考える―受容的理性に向けて (講談社現代新書)

    作ると考える―受容的理性に向けて (講談社現代新書)

    そうすると 逆にその違いはということにもなるが それは 以下の行論に委ねたい。

すなわち そうでなければ――この《根本条件》からも自由な人間と社会のありかたを志向するのでなければ―― 上のような分析と認識を持っても あまり意味がない。その《効果》が絶対的にはたらくと言ってしまうなら もはやわれわれのなすべきことは なくなる。

  • この《存在者の運動一般の理法 / 存在論的原理 / 社会と文化の現実存在の根本条件》をも超える広義の信仰ないし存在思想を 志向しているという点については 本章(18)節の引用文を参照されよ。

(8)いくらか唐突であるが イエスが十字架上のいけにえになったのは――信仰にかんする議論として―― もしそうとすれば基本的に言って この《社会と文化にはたらく第三項排除の隠された不可視の効果》を終わらせるためにであるとも 考えておくことができる。もしそうとすれば 経験領域での現実関係が現実であるとする限りで イエスは 犠牲を終わらせるために 〔人類にとって最後の〕犠牲となったのだという見方である。もちろん 表現の問題という前提に立つものであるが 一般的にいえば イエスが勝手にそうしたということである。パウロの表現によれば

キリストは わたしたちのために呪われた者となって わたしたちを律法(これは儀礼でもある)の呪いからあがない出してくださいました。――《木(十字架)に懸けられた者は 皆呪われている》(申命記21:23)と聖書に書いてあるのです。――それは アブラハムに与えられた祝福が キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり また わたしたちが 約束された聖霊を信仰によっていただくためでした。
ガラテア人への手紙3:13−14)

そしてもちろん 《勝手に木に懸けられ 呪われた者となった》というのは ほかの誰でもなくイエスが そうしたという意味であるが それは ここにも触れられているとおり アブラハムからの歴史的な存在思想の系譜に立つものであることは 言うまでもない。――従って 《呪われた犠牲なる第三項として排除された》ということまでは 事実であろうとともに それは この第三項排除を 歴史的に終わらせるためにおこなったと考えておきたい。その後〔も〕 この効果がなおも続いたという一つの事実とともに このイエスの出現ののち その信仰ないし思想についての表現は 一般的にも あたかもその限界を知らないというかのごとく あふれ出て来るようになったと見うるのではないか。その中には 道徳規範化の別系(派生物)もあれば イエス以前からと同じく アブラハムの祝福=膝まづき=誕生せる自己の弱さとその持続の系譜も 受け継がれて来ていると考えられる。
(9)だが まだ あらかじめの結論づけにすぎない。そして 同じくまだ このように話しを進めてきただけでは むしろ 再びこの章の始めに引用した内容としての第三項排除効果が 余計に現実のものであるように 見えて来てしまうかも知れない。たとえばその文章に続けて 次のように説かれている。

・・・この内面化=受容の過程〔の〕・・・第一の側面は 〔呪われたものが いけにえにされた後 価値の逆転を持たされたかたちでの その〕聖性の形式と制度化である。第二の側面は 第三項排除の再認・否認のメカニズムである。
排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫) 6−5儀礼

すなわち続けてこれら《二つの側面》は

現実には 同時的である。この同時性は 供犠の両義性に反映している。・・・第三項は 奴にして主 周縁的にして中心的 汚れにして聖である。第三項は 呪わしい(マレフィック)ものであり かつ至福をもたらす(べネフィック)ものである。・・・
第三項排除の〔第二の側面たる〕再認−否認のメカニズム・・・は儀礼の認識論的側面である。儀礼は 第三項排除によって形成される禁止〔呪わしいものへの不可触 もしくは 排除の禁止〕のメカニズムを 特定の条件の下で 特定の方向をつけて 解除する。・・・
再認とは 第三項排除の実践の限定された再認である。

  • 犠牲の実践を再び 内面化された儀礼においてのみだが そのようにして ひそかに行ない続けるという意味。

否認とは 排除の現実的実践の限定された否定である。

  • もはや《ひそかに》しかおこなわないという。いけにえを出すことは 悪いことだと知っているという意味合いからであろう。

排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫) 同上)

(10)この理論を紹介すればするほど いわゆるキリスト教の社会と文化には 不利になっていく。じっさい 《存在者の運動一般の理法》なのであろう。しかも 表現としてだけでも いま言えることは 信仰(有神論および無神論)は このように経験領域を分析するその視点の位置にこそあると考えられることである。この《理法》を 経験現実的に誰もが免れえずありつつ この理法をそれとして捉えた社会関係を分析するのは 誰もがそこに立ちうる信仰一般の立ち場だとまでは 言えるであろう。――少なくとも第〓部までに捉えた存在思想の系譜に立てば ヨブもダヴィデ(詩篇の作者)もイザヤらも その《根本条件たる理法》の現実的な効果のなかで 被害者=第三項になったと言うべきであっても それを 儀礼化=内面化しようとしたとは 言いがたい。
(11)エスは 同じように《呪わしい》第三項として形成され・そして排除された すなわち木(十字架)に懸けられるまでに《呪わしいもの》となったということまでは 実際であろう。《至福をもたらす者 / 祝福》の問題は すでにもともと 自己の誕生にかんする表現として 伴なわれていたものであるにすぎない。この信仰にあって基本的に言えることは この祝福の問題が イエスの犠牲としての死のあと その聖化とともに 犠牲殺害たる第三項排除の《再認−否認》として 儀礼のもとに 出てきたものでは さらさらない。いうとすれば ヤハウェー=キリスト信仰の キリスト宗教儀礼化という別種の系譜として 新たに・二重の内容として しかもそれが社会的に優勢となって 現われたものと考えられる。

  • われわれの弁護は 両面性の問題を提出することにある。片や アブラハムからイエスに到る存在思想の一般論に立った――そこに キリストという特殊性を容れた――信仰の系譜を 基本的に取り上げ しかも ここに立ち 片や その同じ系譜から 因果応報などの道徳倫理として捉えるいわゆる宗教が出たという別系の側面とである。
  • この別系の部分では 犠牲となった存在を 聖化し これを崇めるというのだから 次のような第三項排除理論にあてはまるということになるらしい。すなわち 社会のなかの第三項として排除され しかも この事後の効果としては 一方で この排除された第三項を 聖なるものとして 崇拝させつつ 他方では その聖者崇拝によって もはやそのような社会的な排除の禁止を獲得したと言おうとしている情況があるという分析が その理論の内容である。
  • このとき われわれの正統なる系譜の信仰と存在思想は どこに位置するか。また そう言う今村仁司は では どのような存在思想のもとにあるというのか。これらが 焦点となっている。    

アブラハムからの信仰の系譜では たとえばこのイエスのあと 犠牲を出したという罪を悔いるのは 各自 自由であるが その結果 《呪わしいもの》であったものが 《至福をもたらすもの》へと逆転され聖化されるというのでは まったくない。このイエス・キリストに接して 《わたしはわたしとして生まれた》というところ(いわゆるバプテスマ)から 各自 あらためて出発するのであるにすぎない。その時 伴なっていけないわけではないだろうが 伴なったとしても そのざんげは もはや 経験思考としての倫理であり道徳の問題である。この懺悔じたいの問題(あるいは因果応報)によって 自己が誕生したとするのは まちがいだとわれわれは 言っている。《聖性の形式と制度化》も つまり儀礼も 信仰(誕生せる自己)にとっては 無縁である。誤解をとくよう念のために言うとすれば わづかに もしそうとすれば 《聖性》とは――つまり これを信仰にかかわることばとして捉えるのならば―― 《わたしは生まれた / そこに油が注がれた / それが実現した》といった表現の発展にかんする信仰の持続過程で 自己が 時間的に〔主観真実の限りで〕いよいよ《確立されていくこと》を言うのである。聖(Saint)パウロとは バプテスマを受け誕生せる自己がいよいよ第二の恩恵によって確立されていったパウロという意味である。そうとすれば 《存在せしめる者(ヤハウェー)》なる神との関係における信仰のなかで 表現上 《聖(また聖霊)》ということばを その神に関係付けることは ふつうのことであろう。誕生せる自己の確立が 聖とされることであるなら 誕生せしめる者が この聖のことばで表現されることは ふつうのことである。これが 儀礼制度化するかどうかは 基本的に まったく別問題である。もちろん儀礼化した制度は われわれにとって 間違いであり 敵だと考える。
(12)つまり この信仰にかんする限り 《犠牲の儀礼化=内面化》はありえない。(しかも 経験領域で発生したその構造過程的な負の効果を すべての人と同じく 免れてはいない。)信仰にかんする限り 《儀礼》が起こりえないのだから 《第三項排除によって形成される禁止のシステム》はありえない。二千年ののち このように 偉そうに 言うべきだと判断した。すなわち 呪わしく・汚れたるものに対する不可触という禁止 あるいは一たん排除が成ったのちは 再びの排除=殺害 に対する禁止の内面化は システムとして ありえない。さらに従って これ《を特定の条件の下で 特定の方向をつけて 解除する》といった儀礼的内面化の制度から 自由でありうる。すなわち 一般に禁止じたいは必ずしもなくならないが その《システム》は もはや誰も第三項化されることはないという形で なくなっていき 皆が救われ 互いに愛すべき兄弟姉妹となるといったような意味〔づけ〕での 儀礼制度化から 自由でいることができる。そのような意味づけじたいが くせものである。この儀礼の存在理由を説明するような意味づけは イエスが 犠牲とその供犠の制度を終わらせるために いけにえとなったという見解から 残念ながら 派生したかもしれないとは 認めなければならないかもしれない。
なお 非経験とのかかわりとしての信仰において 懺悔と同時に聖性をあがめる儀礼化=内面化から 自由でありうるということは そうは言っても 経験領域で 自由にだが 実際には間接的にその社会構造をとおしてにせよ その儀礼制度に接触していることが 事実であるとは言わなければならないし そのことは 信仰者だけでなく 無信仰者とて まったく同じ条件なのだと思われる。
(13)すなわち このような制度ないし《現実の根本条件》には 少なくとも心理の動きとして 誰もが はげしく直面している。組織集団(それとしての教会)ないし社会集団の倫理・道徳たる慣習 つまり経験領域の事実問題が そこにあるという見方になる。
(14)単純に言って 聖徳太子やその一族が犠牲になった ゆえに太子信仰うんぬんであるとか あるいは 菅原道真が不幸な死を遂げたのち 天神さまとして祀られるなどといった事例は 多少とも いまの問題にかかわっていると思われる。あるいは戦死を余儀なくされたいわゆる英霊が そのような議論として引き合いに出されることがあると言うべきかもしれない。戦死者は 呪わしいものであったわけではなく 排除されたわけでもないが 共同体の経験的な秩序と存続にとって 第三項排除の不可視の効果とあたかも同じような内面化の構制が それに まつわってあるのかも知れない。
そしておそらく これら日本の事例は そのことを目の前に提出されたなら 一般的な応答としては いや そうではないだろう / つまりまた たとえいくらかそうであっても 決してそれでよいなどと思っているわけではないはずだ というように こたえが 返ってくるものと思われる。すなわち 太子や道真らを ある種の仕方で 聖化し内面化しているといっても 言われるところの第三項排除効果に従っているわけでもない / 少なくともそのような 懺悔と賛美によって かれらのいわれなき〔被〕排除の行為事実を 内面的に解除しようというわけではないはずだと あたかもそのように各自の信仰をこそ表明するものと思われる。ちょうどこれと同じように――単純化して語っているのだが―― 信仰領域としては ほんとうのところでは 一般に・ごくふつうに 人はこの第三項排除効果を免れている〔部分を持っている〕とも 思っている。――ただ いわゆるキリスト教の社会と文明においては この制度化が ほとんど一元的に 圧倒的な拡がりと深化とを見せたということでもあるだろう。
さらにまた 説かれるごとく 《商品−貨幣−資本》にまつわる第三項排除の効果は こんどはそれこそ 世界史的であると見られるべきかも知れない。――この意味は 簡単には 次のように解される。いわゆる建前としては 人間たる犠牲を もう 一人も出すわけにはいかないとして また 人間たる犠牲身体(イエス)にかかわる儀礼内面化・聖性の制度化も それに制約されることは 困ると考え 今度は その《呪わしいもの=と同時に 至福をもたらすもの》の位置に 《貨幣》を人びとは 意に反してでも 立てるに到ったというようなことではあるまいか。
しかも信仰は これらすべての効果をかぶって なおかつ自由であると言うことに(そう 思い続けていることに)なると考えられる。単純だが 一つの結論であると考えられる。水のなかに入って なお濡れていないと言うようなものであるが それとしてでも まずは 信仰一般が 存在していると思われるのである。 


(15)《キリストの愛がわれわれを駆り立てている》(本章はじめのほうに引用)というのは 片やこれら内面化された儀礼制度たるいわゆる宗教の側面ないし方向と そして片や 存在思想の系譜に立ちつづける信仰の問題と これら二つに分かれるものと思われる。確かに前者としての一つの可能性があって そのような派生の系譜が 現われた歴史がある。つまり単純に言って この別種の系譜からこそ あたかもその主役をイエスから貨幣に代えて 資本主義〔の内面化された人間〕へと駆り立てていると解する方向も 現われたのかもしれない。《キリストの愛が》と堂々と唱えていたのかもしれない。
呪わしいものが 至福をもたらす聖なるものとされ この聖性が 儀礼制度(むしろその心理)へと内面化されたなら 人は救われたとして(または 救済は人に不可知だとして) あたかも全体として いわゆる予定調和観のもとに 経済活動を初めとする経験行為の領域へ 駆り立てられて行ったということであるかもしれない。そこに 貨幣が 聖性がそうであるところの・人びとの社会関係にとっての共通項(=第三項)としては 恰好の材料となったのかもしれない。
(16)《いよよますますかなしかりけり》という表現を得て 自己の誕生を見た人びとの信仰ないし存在思想の系譜は 儀礼からまったく自由だと思う。儀礼とはむしろ――イエスの以前と以後とをつうじて―― 《誕生せる自己》の観念的な内面化〔としての派生〕でもある。《文字は殺す》と言われる文字観念また経験心理の問題として現われたものである。
またつまり 自由ゆえ その儀礼化の心理とその共同化への可能性とが たえずつきまとう。悪魔?そのように付きまとう動きは 理法のちから?
つまりこの葛藤も イエス・キリスト以前からそして非キリスト教圏においても 人間の一つの条件をなすものであるようだ。そのうたを歌った旅人さえ 社会的な孤独や無常の中で 《ひたぶるに崩心の悲しびを懐き》《犠牲〔としての自己〕》という考えをさえ 持ったかもしれない。一瞬としてでも そのような 誕生せしめずにおこうとする声と誘惑とが 心の内に思い浮かんだかもしれない。これの慰霊(自己の慰め)を内容とする儀礼的な その声の受容=内面化をも 望もうとさえしたかもしれない。ちょうどそのように 聖徳太子の心を推し量ってというように 慰霊=聖化の儀礼制度を たしかに 人びとは作り出したのかもしれない。(というよりも そういう経験事実としては ほんとうである。)
そもそも 人の死に葬礼を出し その命日に故人をしのぶということが 淡い内容をもって 第三項排除の効果に関係しているかもしれない。また それら 古代の詩歌や人物たちの解釈や鑑賞は 文学・教養・文化をかたちづくるものであると じっさい 考えられている。――いわばこのようにして 第三項排除効果の 生活日常的な一つの見取り図が描かれるとも考えられる。
(17)《この効果がなければ 社会も文化も現実存在しない》((7)節に引用)という分析内容は あらためて言って 経験領域およびその習慣(慣性)としての根強さを 理論的にとらえようとしたものであると言ってよいであろう。また 犠牲やその儀礼化の以前から すでに 始まっていたであろう。このことを免れる人は 誰もいず と同時に これを捉える視点・その人個人・その信仰は たとえ無理に言ってでも この経験領域から自由でありうると表現する志向性を持つと思われる。


(18)社会科学的(認識論的?)な分析内容のみで 満足していないのは 今村氏とて 同じである。
第三項の排除から受容へ すなわち おぞましきものから絶対者ともいうべき聖性への転化 このような《変身》〔の各自 内面化〕が 経験科学的な現実であるとしても われわれの存在は これに限定されるとは言い切れないという主観真実にかんして たとえば次のように述べる。変身には ふつうに見られる《強制的変身》と希望のある《自由な変身》とがあるという。

歴史上の(経験領域としての)変身は たいていは強制的変身である。しかし 変身の契機を理論的に吟味する場合には 別の変身の可能性をも考慮にいれる必要がある。強制的変身に対して 自由な変身のケースがありうる。自由な変身は 強制的変身とは対極的な動き方をするが それが変身でありつづける以上は 第三項排除効果の全体過程の一局面を構成する。

  • ここまでについて まず この《自由な変身》こそが われわれの見方では 《自己の誕生》の問題である。われわれとしては むしろ表現上 つねに《信仰》の動態として・一個人において 経験と非経験とが関係しあい 実際上 互いに交錯する全体の現実だという。《第三項排除の隠された不可視の効果》というときにも この《不可視》は 決して《目に見えない非経験の領域》を言うのではなく むしろ間接的・構造的な因果関係を前提するなら なお人間の自由意志によっておこなう経験行為事実〔の累積〕にかかわると考える。もしそうでなければ 《強制的変身》と対極的な《自由な変身》は 考えても 無駄となる。あるいは 無駄であるかないか 考えても努力しても ついにその結論は出ない。このような趣旨が 実際には 次の《ユートピア的(つまり非経験的)契機》として 述べられていく。

それは この効果の最後の局面であり こういってよければ 《ユートピア的》契機である。それは 制度ではなくて 制度の支配を免れる前望的実践である。自由な変身は 変身の観念(イデオロギー)とは区別される現実的変身である。

  • 非経験・心理・神(ないし無神)は 非思考であり信仰であるから 観念・イデオロギーではありえない。表現の問題としてその説明のためにのみ 経験思考にかかわる。また――揚げ足取りになるが――従ってわれわれには 《最後〔の局面〕 / 前望〔的実践〕》という表現のしかたも 基本的に 用いない。
  • 終末論であるとかその待望(ないしそこからの逆行としての実践)などは ここで 別問題となるだろう。そしてそれは やはり基本的に 終末をめぐる観念の操作になるだろうから なるとすれば われわれの採らないところである。ここの《最後の局面》というのは いま現在において 想定として そう表現されるというのみであろう。《前望〔的実践〕》というのも 《前=最後の局面》に焦点がおかれるのではなく 《望=つまりその主体の現在の位置》のことを言うのであろう。《〔第一の恩恵が実現されると想定するところの〕第二の恩恵》をめぐる問題と重なると思われる。それでも 異を唱えたのは 第二の恩恵をいま現在 待ち望んでいるゆえ そのまま いま現在わたしの置かれた位置と情況に あたかもべったりとさえ就くというのが われわれの実践にかんする説明表現であるから。

ただし この自由な変身は 《自然発生的》経験‐歴史的であるよりもむしろ 先取的・自覚的・選択的である。

  • われわれはこれを 信仰として 主観真実における 神(ないし無神)の受容への選択であると言っていく。つまり 《自己の誕生》であって それは もちろん《自然発生的》な自然身体の誕生ではなく そしてつねに どこまで行っても 個人の問題であり 実際には――生活現実ではあるが―― それぞれの主観真実の域を出ないとも言わなければならない。つまりこの意味で つねに《いま・ここなる私》の問題として捉えている。その前提で 《先取的・自覚的・選択的である》と同意したい。

これは 《事実においてあった》のではなく 《これから実現されるべき》実践である。
排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫) 〓−〓)

節をあらためよう。
(19)つねに繰り返しになるが(つまり 《誕生せる自己》の自乗の問題として言うことになるが) 主観真実においては 信仰の問題として=その限りで生活態度として 《すでに実現された》とさえ表現するにいたっており――そのようにして 《選択的 先取的 自覚的》であり―― この限りで〔存在思想の歴史的な系譜としては〕《事実においてあった》とも表現しようとしている。この地上で《事実としてある》ことは 《第二の恩恵を待ち望む姿勢とその持続過程における確立》のほかには 無理だと考えるから この《信としての存在》は《事実としてあった》という見方を採ることになる。
以上のような点での違いを見た上で 今村思想とは 方向を同じくすると言ってよいであろう。
すなわち 繰り返すなら 存在思想ないし信仰の系譜として 過去・現在・未来を問わず一人ひとり個人にあって 自己が自己であるということ 従ってこれは 《〔自由な〕変身》であり 《〔自己への〕還帰》であり これが 確かに つねに《ユートピア的契機》でありつづける。(ただし 個人の問題という前提・その意味での独立人格の前提に立つから 《永劫回帰》という表現を 好まない。)
さらに言うとすれば 《われわれは この世に属していない》(cf.日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書8:23)とさえ表現していく。この世に属さない使徒たち(アポストロス)は 闘い=話し合いの過程において 表現上 神の国から遣わされた(アポストロス)ところの・この地上の国への使者・外交官(アポストロス)であるという。もちろん《これから実現されるべき》ことがらを残しつつ 《いま・ここでつねに実践する》主観真実の実態であるという。すなわち 《最後の局面》への《前望的実践》として いまそのように《先取的 自覚的 選択的》の自己に立って 語ることは この今 その弱さを誇るようにして これが《油を注がれ 実現した》と表現して語る地点に立っていることだと 言ってよいと思う。われわれは この持続過程を歩む。
(つづく→[えんけいりぢおん](第二十二章−第三項論) - caguirofie041208)