―第二十三章b 第三項論と現代社会
目次→2004-11-28 - caguirofie041128
([えんけいりぢおん](第二十三章a−第三項論つづき) - caguirofie041210よりのつづきです。)
第二十三章b つづいて第三項論と現代社会〔(52)〜(60)節・完〕
(52)今村氏も もしそうとすれば 無神論という一つの信仰に立って 同じことにも焦点をあて それとしての訓練を始めているとも考えられる。
《倫理学的態度の深化》と《〔排除の視線・それとしての承認欲望に対する批判的な〕認識論的訓練》とを区分しつつ これら両者をともに見据えているというところに 〔その信仰の立ち場は〕現われている。と同時に この今の焦点をめぐる問題にかんしては みづからの重要視し実践する《認識論》とそしてそのほかには 《主観主義的倫理学の〔あくまでも〕諸命題》との二つの行きかたしかないと見ているとするなら われわれのように 信仰ないしその存在思想〔の実践の系譜〕という事柄に はっきりと焦点をあてることも 重要かと思われる。
(53)資本関係を経験現実の中の第一の現実として 犠牲儀礼の内面化を類型的にはなお保ちつづけて営まれている現代社会にかんして その中で経済の面でも心の面でも 人から承認を受けることを目指す欲望は――これについて かんたんに触れておくなら それは―― けっきょく経験領域に限られ まずまったくの心理的な起動力であるにすぎないと考えられる。
従って この意味は ただちに全体的な経済制度の問題に行き着かなくとも 個人のおこなう具体的な日常生活上の行為にかんして たとえば今村氏の説き明かした承認欲望なり排除の視線なり そのような第三項形成(その日常一般化した相互の第三項化)の認識などを われわれは 面と向かって 間接的にせよ 指摘しあうことはできる。そういう話し合いの過程における具体的なあり方までは 考えることができるし 実行しうる。
言い換えると すべてが必ずしも 全面的に無条件絶対的に われわれのあずかり知らない《主体なき過程》のなせるわざだとは 見ないし 見ないで済むとも思われる。すなわち 《主体なき過程》の構造によって決定されて現われると見なければならない側面と そして一個の個人が実際に行なっているという側面との二つを 同時にとらえていることができる。後者の側面は その認識だけでは どうすることも出来ないとわかっていると同時に まずそこまでの認識を共有するにいたる道筋をつけるまでを 達成しうる。というよりも 話しは順序が逆で 初めに 有限ではあるが 一人ひとり主体でもあるところの自己の誕生を得て その認識とそれの共有への道筋と それとしての話し合いの社会的な基盤をつちかっていくことが出来るのではないかと思われる。つまり このような一つの行き方・進め方も ありうるのではないか。そして この基盤を得てこそ その上で 学者・研究者だけではなく一般の人びとにあっても 今村さんの主張する認識論的訓練を実行していくことができるように思われる。生活態度ないし行動じたいが 一人ひとりの個人にあって 認識論を形成するとさえ 考えられる。立ち場を異にしても 信仰一般の基礎で志を同じくするときには 話し合いの過程で 互いに協力しあっていくことができる。
(54)これを敷衍するなら――たしかに相対的・一般的な主観主義であって―― 自己の排除の構造のけっきょく経験心理的な起動力とは 別のところにあると思われる契機。もっと言うならば われわれの推進力は――やはり自由な信仰(大きく有神論と無神論)として――あらゆる経験思考にかかる心理の起動力を 利用・活用して進むものと思われる。ただいまやって来るメデューサ効果の視線を すべて一たんは受け止め これを利用してさえ 進む。そしてそれでこそ――つまり個人のささやかな現実の主体的行為としても 実践していってこそ―― 認識論的訓練がたしかに 鍛え上げられていくものと考えられる。自らひとりの力でその進む過程が 実現へと導かれるとは思ってもいないにしても そのことが必要だと考える。
そうでないと――これは消極的な理由であるが―― 認識論〔的訓練〕は われわれの排除の前科と現在にもおける罪(つまり排除関係の共同正犯であること)を ただ自覚させるだけのものに終わるおそれがある。決して本意ではありえないと思われるにもかかわらず 結果的に 《客観(?)主義的倫理学の諸命題》に終わりかねない。
言い換えると このとき もし今村氏の主張が けっきょくのところ 無神論という一つの信仰(それとしての自己存在)に立つという場合には まったく同じことを語ろうとしているのだと思われる。上の批判は 不当なものである。
(55)この限り 精神分析のF.ドルトらの欲望理論・すなわち どんな些細なことでも それを排斥せずに受け容れ あらゆる欲望に付き動かされつつも 神(ないし自由な変身)に到るという見方 これに似ている。そして 同じくこの見解も それを排除するのではなく しかも方向を逆転させることができるのではないかと これまでわれわれは主張してきた。すべての欲望(承認欲望・そのための模倣欲望・あるいはその他もろもろの欲求)を受け止めつつ それと同じようにはなるが しかも それに同化せず 限られた範囲でなりと(サマリアの女に対するイエスのように) その欲望に付き動かされずに済むような歩みも――つまりは それだけではなく積極的に その欲望の視線なり何なりをも 利用していくような自己の歩みも―― 可能だと言っていいのではないか。
わたしにとって課題となることとして述べることが許されるなら
キリスト・イエスのものとなった人たちは 肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
・・・
この十字架によって この世はわたしに対して わたしはこの世に対して はりつけにされているのです。
(パウロ:ガラテア人への手紙5:24/6:15)
とパウロの語るところに導かれたいと考える。倫理学的に訓練しょうとは思っていないところに その生活態度の深化があり この自己の確立が得られていくものと信じる。わたしの誕生を見た人は 無神論の信仰者にあっても同じく このように偉そうに(自己の弱さを誇るかのように) 表現しつつ 進むべきだと考える。そのうち何とかなるというのではなく じつは この自己の誕生〔とその実現〕こそが そうとすれば われわれの呻きつつ求めるところであって その誕生せる自己は なお この地上に滞留しつつ その誕生を阻もうとする悪魔の声(必然の王国の習慣・慣性のちから)をも聞いているはずであるし すなわち 資本関係からの現実経験的な強制的変身に迫られてもいるというのが 実際のすがたなのであるから 《主観主義》のみの自己満足・または自己欺瞞をともなった幻想ではないと 論証・保証しうると思われる。
われわれは 何か観念の目標を持っているなどということはないのであるから その前提で言えば 《完全な者になりなさい》(パウロ:コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)13:11)と聞いている人びとの社会が来ると思っている。一方において たしかに《倫理学的態度(ないしふつうの生活態度)の深化》を軽視しないが 他方において基本的に このすでに信仰に出発進行していることじたいが いうとすれば認識論的訓練を たとえ嫌でも・あるいはむしろ嫌というほど伴なうことになると考えている。そういう一つの立ち場の主張である。
(56)ドルトの主張は 次のような聖書の文句を語っているようにも思われる。これを付け加えておこう。《強制的変身を迫る敵を愛し 自分を迫害する(石化の視線を投げかける)者のために祈りなさい》ということばを受けてであるが
〔天の〕父(つまり存在せしめる者・ヤハウェー)は 悪人にも善人にも太陽を昇らせ 正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書5:45)
《欲望》は まわりまわって《自由な変身》への導き手でこそあるという思想内容にかんして 上のような見方のもとにも 捉えられる。それはすでに しかも実践なのであろう。
これに対して今村思想は 一方で《主体なき過程》を前提におくことによって 同じことを語っていると思われるし 他方で 排除の視線に対する批判としての《認識論的訓練》を重要視することにおいて 《天の父》なり《真理》なりを まったく無化する地点に立っているとも思われる。《あらゆる観念を排除する》という意味で 《無化する》のであって 《無神》としての真理は けっきょくのところ その本意ではないとしても 想定されているように考えられる。
(57)再び細かい議論に入らなければ成らない。今村理論では
近代貨幣と近代資本は 第三項排除効果によって生成した第三項である。貨幣や資本は 排除された第三項のすべての属性を兼ね備えている。・・・
(排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)??−??)
というこの部分は わたしには今ひとつよく分からない。犠牲身体(たとえば十字架上のイエス)が 俗から聖へ儀礼制度として転換しその中で内面化するというとき この第三項の極致が《貨幣・資本》であって この後者は いけにえのイエスの受容=内面化(そういった属性)をも兼ね備えているということ これは わかる。(貨幣は もろもろの商品に共通の価値を それらの商品から排除された第三項として 具現する。多かれ少なかれあらゆる人に共通に見られる負い目・罪を イエスは 排除された第三項として 体現するとされた。)しかも細かく見れば 供犠制度にかんする犠牲身体としての第三項と 貨幣としての第三項とは 同列に扱いうるものなのか まだわたしの理解は 行き届かない。別々に切り離しての議論なら うえのような理解に到達する。
(58)もし第三項排除効果とその心理的な起動力たる承認欲望とが 通史的であるとするなら――つまり 犠牲身体と貨幣とをその前提のもとに 同列に扱うべきだとするのなら―― 近代貨幣たる資本は 第三項排除効果によって・しかも それの社会全般的な日常化を展開させて(――なぜなら それは 儀礼的にして強制的の変身の《極致》である――)人びとは 否応なく相互の第三項化をはかるようになり 一方で排除しあいつつ・他方で互いの受容をも行なっているというとき その主要な交通の手段だということになると思われる。
手段以上のもの(つまり関係構造)になるというのも 実際であろうが この貨幣を第三項排除効果にとって恰好の手段であると見なし この発見のもとに その実用化を目指して 人びとは突き進んだというなら そこには もともと《手段である》という一面も かすかながら 残っている。人間としての犠牲身体は 排除すべき第三項として手段化もされたが これを手段と見なすべきではないという見方も つねに伴なわれていたものと思われる。つまりそれゆえこの人間犠牲たる第三項に代えて 貨幣なら貨幣という別の手段を探し出して これを 犠牲身体と同じようなもの・またはその属性を兼ね備えたものと見なすことになった。
これを言い換えるなら――細かい議論であるが―― 人間なる犠牲身体として排除された第三項と 貨幣としてのそれとは 微妙に異なるところがあるのではないか。前者は 手段化されうるが いわゆる主体性をもった存在として手段化されえない・すべきではないと見られうるのに対して 後者の貨幣は もともとそのまま人間社会にとって 手段としてあるものだと考えられる。
(59)すなわち まとめて言うならば 貨幣ないし資本は 次のような社会情況における交通の手段であると表現しきったほうが よいのではないかと思われる。現代社会において人びとの交通関係が 限定的・部分的な相互の否認(視線による排除関係)を伴ないつつ・すなわち言ってみれば この限りで 人びとは 相互のはりつけ状態にあるという排除関係と また反面での聖化=内面的受容(近代市民の自由・平等・兄弟愛)との 二つの側面の相互往復・反復を すでに日常性のもとに 遂行しつつ このように振る舞いつつ しかも このことをも限定的に否認しあっている=すなわち隠しあっている こういった情況におけるあくまでその交通の手段であると言うべきではないだろうか。
一手段であることから目的そのものになったり あるいは 社会構造として全面的に広がったりすると言わなければならないが この貨幣は その基本の一側面としてあくまで交通の手段であるとするなら それは 必ずしも排除すべき第三項そのものではないように思われる。その上で 犠牲身体の被排除性や聖性への転化やなどの属性を この犠牲身体に代わって 備えるということになった。
貨幣=資本という手段を介して 人びとは なおも儀礼制度的な承認欲望を――それが経験思考上の《原動力》であるから―― 満たそうとしているのであって げんみつには それを 第三項化しているのではないように思われる。《第三項の極致》として実際 そうしているとしても 貨幣を第三項化して何故わるい いっこうに構わないではないかという考えが 排除の原動力の以前に・排除とかかわりなく 人びとに一般的に持たれてもいるのではないか。
言い換えると 貨幣の価値・あるいはそれにまつわるもろもろの社会身分的な価値などを その人にかんして相互に承認しあって振る舞いつつ(つまり この貨幣をめぐって 相互に排除しあいつつ) しかも そもそもの考えとして どうでもよいものとも見なしているところが あるのではないか。けれども なお現代においても その第三項排除効果として 近代以前からの犠牲身体に発する儀礼慣習が 人びと共同の心理内面として続いているとするなら それは この貨幣を手段とし その価値関係を交通の過程で介在させてこそ おこなっているものと考えられる。このゆえにこそ――貨幣が交通手段であることに基づいてこそ―― 人びとは 互いに排除しあいつつも その排除のことを 隠蔽しあい しかも これは ある程度 妥当なかたちで 隠しおおせているのだと考えられる。
実は誰もが 相互の限定的な排除も それの隠蔽のことさえも 互いに知っているし 一面では そのように難なく生活しあっているとも解しうるように思われる。このとき 一方では それでも この貨幣=資本の社会構造的な過程は どうしようもなく確かにまったくやりきれない排除の関係をもたらしているというときには その限りで人びとは 《虚無の力に服している》(第二十章)。他方では 貨幣が手段であることを承知していて これを排除された第三項に代用するのなら まだましだと思っているところがあるように思われる。もし そうだとするなら そう解するかぎりでは それは――飛躍して言ってしまえば―― 誰もが それでも いま・ここで ひとりひとり《わたし》として 存在している・存在しうると思っているといった大前提があるからではないか。その限りで 人びとは 希望を持ちえている。虚無の力に服しつつ 希望を失わないでいる。
けれども わたしの誕生にかんするユートピア的契機は 存在にかんする主観真実以上の実態にまでは 必ずしも到達しえないとも思われるのである。だとすれば この・一方で《虚無のちからに服し》つつ 他方で《希望を持ちえている》そのわたしの姿は まずふつうの生活態度であるとも 考えられてくる。――ここで・まさしくここで われわれは 《資本の変身運動と自由な変身〔の可能性〕との関係が 問われるべきである》と考える。そして これを個人の問題として捉えるときには いまの普通の生活態度のもとにあるわたしは 確かにその誕生(自由な変身)にかんして 《選択的 先取的 自覚的》な実践に入り進むと思われる。そしてただし 実際には その以前に それぞれの個人が いづれかの時と所で 自己の誕生に出会うという事件を持つことになっているのだと考えられる。つまり 信仰ないしその存在思想のほうが 先行領域としてあるのだと思われる。
(60)付け足しの議論となる。
もしこの《虚無のちからに服さざるをえないこと》が――近代資本制のもとに――あまねく社会と人びととに行き渡り 人びとは いわば表現上 死とともに生きている状態となっているとするなら それこそまさに――単なる論理上の問題としてでも―― いまの議論の初めに掲げた引用文(第二十一章)に ここで行き当たる。
すなわち 《一人の人がすべての人のために死んだ以上 すべての人も死んだことになると考えられ これは 生きている人たちが もはや自分自身のために生きるのではなく 自分たちのために死んで復活した人のために生きるためである》という議論――大きく歴史を通観したところの第三項排除効果とそれの廃絶を試みた人の行動と理論―― これが 現代において むしろ・まさに 実現するかに見える。信仰の特殊性にも立って そしてその色眼鏡でも見るとするなら そのように 捉えられるかに思われる。
この限り 一般的には 犠牲身体の内面儀礼化としての第三項排除効果が こうして 通史的であると確認することになるとともに 貨幣=資本は その近代以降の世界史における新たな代用手段であって 一手段にしかすぎないと言える面があると確認することにもなる。
- 第三項排除効果の通史性の確認は 消極的に 強制的変身の確認であり 積極的に 自由な変身の確認であるということ このことは まさに 今村理論の内容そのものである。しかも その二つの変身の情況に貨幣=資本が あくまで――時に 強制的変身の側からさえも―― そこにおける広く承認欲望にもとづく交通関係の〔あくまで〕一手段であるという確認にかんしては 上に確認された《自由な変身》(自己の誕生 / 存在思想)が 基本的に信仰の問題であることを 物語らなければならないと思われる。この信仰とその持続(愛)を先行領域とし その上で たとえば倫理学的態度の深化も あるいは認識論的訓練も 実践されていくと見ることになる。しかも もし言うとすれば これらは 必ずしも学者の実践にとどまるものではなく 学者じしんにしても それである以前に 人間・市民・生活者であるのだから それとしての生活〔上の話し合い〕・これとしての行動こそが すでに・つねに 認識理論を形成していくことになると考える。――言い換えると わづかにただこの一つの大前提を ここでは 主張するにすぎないということにもなるかもしれない。
排除の視線 / これを介しての承認欲望の相互の充足 / そして そこには 資本主義経済が手段領域として横たわること これらのすべてが 大きくなお 犠牲儀礼としてはたらいており これまでわれわれの主張として取り上げた存在思想〔者〕のすべては この排除効果に抵抗しつづけて来ており なかでもイエスは それの歴史的な廃絶の理論を 身を呈して・行動によって 著わしたと考えられる。このような歴史観も 一つの立ち場として提出しうると思う。
すなわち この立ち場としては キリスト・イエスあるいは結局 人びとそれぞれの内なる真理(つまり 自己の自己たる主観真実 / それとしての自己存在)を欺き 犠牲とすべく第三項として排除・殺害したというわれわれの前科・またその現在での虚偽 こういった問題として 認識論的訓練を いま・ここなるわたしにおいて 進めていくということができる。そしてつまり 実際には順序が逆であり 自己の誕生に出会う事件が先行し これを見たならば その上で その自由な変身のすがたにあるわたしと 資本との関係を 問うていくという過程で いま上の認識論的訓練が伴なわれていく。
いいかえると この第三項排除効果たる経験現実の理法にかんして 実際の文章表現として認識論かつ哲学の立ち場から その認識を敢行していく作業とともに わたしには いまのこの虚偽にわたしは死んだと表現する宣言の問題が あるように思われた。
従って 《わたしの新しい誕生》・すなわち《信仰》の生起。つまり 《話し合い》過程。そこで具体的に《排除批判》。――この順序で われわれは生きて実践し その逆ではないと思われたことには われわれが誕生するのは イエス殺害に対して すまないという経験的なこころと思考とによってではないと考えるからである。大胆に誤解をまったく恐れずにいえば イエスは勝手に死んでくれたのである。(そのことが 第三項排除効果を 理論的に排除している。)《わたしのように完全な者になりなさい》と語りつつと 付け加えるのは わたしの勝手である。
日本人として また冗談ではないが愛敬として 付け加えるとするならば 《弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば ひとへに親鸞一人がためなりけり》という信仰は われわれの存在思想に似ているように思われる。(完)