caguirofie

哲学いろいろ

もくじ→[社会]スサノヲとアマテラスの物語(基礎理論) - caguirofie041018

物語じたいの目次

  1. 神の国について→[社会]スサノヲとアマテラスの物語 - caguirofie041116
  2. スサノヲのミコトの物語=本日
  3. オホクニヌシのミコトの物語→[社会]スサノヲとアマテラスの物語 - caguirofie041118

2 スサノヲのミコトの物語

 スサノヲは アマテラスの世界から追放され イヅモのくにに来て スガの地に宮をきづいたのでした。

吾(あ)れ 此地(ここ)に来て 我(あ)が御心すがすがし。(古事記 (ワイド版 岩波文庫)

このスガの宮――つまり 形態的なスサノヲ共同体ではなく 死からの再生が成るという内なる神殿(やしろ)の受け取り――これが 神の国であるというわけでした。形態的な国・市民社会としての《スガの宮》ももちろんあるわけです。
 スサノヲの子孫であるオホクニヌシのミコトも 八十神(やそがみ)なる兄弟たちに迫害され 死から復活して さらに新しい国づくりに向かうところを 古事記などは語っています。詳しいことは 原典や解説書にゆづるとしたいのですが ただし 神の国の歴史的な進展にかんするそれぞれの画期的な基軸については われわれはここで それらの新しい解釈をほどこさなければならないのです。

 スサノヲは 復活する前に アマテラスの世界で あの疑いによって悩まされていた。かれは 理屈で弁明するよりは 非行・愚行を繰り返すという破廉恥な抵抗によって 自己の知恵の同一にとどまろうと欲したのです。その一つに。

 アマテラスオホミカミが 忌服屋(いみはたや)(清浄な機屋)に坐(ま)して 神御衣(かむみそ)を織らしめたまひし時 〔スサノヲが〕その服屋の頂(むね)を穿ち 天の斑馬(ふちうま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕(おと)し入るる時に 天の服織女(はたおりめ)は見驚きて 梭(ひ)に陰上(ほと)を衝きて死にき。

天つ神の世界 (古事記をよむ)

天つ神の世界 (古事記をよむ)

とさえ記されています。
 もちろんスサノヲは 殺そうと思ってそうしたのではないでしょう。ですが あえてこのような事をも辞さなかったのでした。
 そこで これらの天つ罪と呼ばれる非行のあと 罰を受けて追放されたのでしたが そしてなおかつ スガの宮の復活を受け取ったのでしたが こうなると つまり 神の国が生起して復活し つまり少なくとも 復活の約束が与えられて 前史から後史へ入ったとしますと この神の国は 過去へとさかのぼり 後史が前史をも覆う つまり前史を完成させるということが 生起するのです。それは このようなことです。すなわち この世にあっては 神の国は地上の国と混同して互いに入り組んでいると見出してのように 地上の経験的な人間の愛が ちょうどその向きを変えられ回転せしめられてのように あの神なる愛につらなるという〔観想的な〕事態のことです。なぜなら 《その皮を剥いだ馬を機屋の天頂から落とし入れて その結果 服織り女たちは驚いてしまい ひとりは 梭(=杼=shuttle)にほとを衝いて死んでしまった》という経験の中のスサノヲの前史の心を すでに その後史の心がおおうと見られるからです。ちょうど

王はその宮からわたしの声を聞かれ
王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました。(旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)18・6)

と すでに言ってのように 前史の愛のなかに後史(または 王の本史)の愛が たしかに はたらいていたと見出されるのです。

〔神の愛は〕処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿のように 道をかける巨人のように躍り出た。
旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)19・5;アウグスティヌス告白 上 (岩波文庫 青 805-1)4・12〔19〕)

というのが 事の真相であると のちのスガの宮にあっては 見出されました。これによって機織り女が驚いたのでないなら それは 何故でしょう。もっと言うならば このように・そのように キリストが躍り出たのです。機織り女も 肉の眼によってではなく 心の内なる眼で かれ(神の愛)を見たのです。
 この事件のあと 《ゆえにここにアマテラスオホミカミは見畏(かしこ)みて 天の石屋戸(いはやと)を開きて さし籠もりましき。》・つまり その身を隠したのです。
 もしこの一例が あまりにも神秘的だと考えられるなら 次の例が人を納得させると言うべきでしょうか。
 スサノヲは アマテラスの疑惑を疑い返し やはり自己の知恵の同一にとどまろうとして この上の事件の前に 次のような愚行をおこなったと記されています。

アマテラスオホミカミの営田(つくだ)の畔を離ち(境界を取り除き) その溝を埋め また その大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿(アマテラスの神聖な御殿)に尿(くそ)まり散らしき。
古事記 新潮日本古典集成 第27回

 これは いわゆる反体制の運動なのですが そのあと

 しかすれども アマテラスオホミカミは 咎めずて告りたまひしく
 ――尿(くそ)なすは 酔(ゑ)ひて吐き散らすとこそ 我(あ)が汝弟(なせ)のミコト(=スサノヲ)は かく為(し)つらめ。また田の畔を離ち 溝を埋むるは 地(ところ)を惜(あたら)し(=土地が惜しい)とこそ 我が汝弟のミコトは かく為つらめ。
と詔(の)り直したまへ〔ども なほその悪しき態(わざ)は止まずて転(うたて)ありき〕。
古事記 新潮日本古典集成 第27回承前)

要するに アマテラスは ほんとうにこう思っていたかどうかを別として なお疑惑を解かなかった。《疑うなら つまりそう考えるなら 我れあり。》と考えていました。つまり 開かれた自己の知恵の同一にではなく 前史たる呪術の園を捉えるその見方の同一(つまり これを固定的に・停滞*1安定的に見る自己の知恵の同一)にとどまることを欲した。つまりもっと具体的に言うなら 前史たる呪術の園の栄光を統治する者としてその地位の同一にとどまることを欲していました。
 このあと のちのちの歴史において 反体制運動が 広がったとか それが ともに前史から後史へ転換されたとかいうのではなく――そもそも スサノヲにとっては その方向・志向性において 別であった だから そういうことではなく―― 先にも見たように いまひとつの非行を犯すようにして推移するうちに そこに 王たるキリストが躍り出た そしてスガの宮の新しい生活へと入っていくことが出来たのでした。
 その道筋では ひとつの過程として たしかにアマテラスは これほどの罪を――発端において絶対的な罪であるかどうかは わからないその罪を―― スサノヲが犯しても 疑いを持ち続け 怒りもせずに ついにその身を隠してしまう。というほどに アマテラスは なお取り合わなかったのですから――つまり 無関心が死なのであるというべきかのようであり―― スサノヲは そのとき 次のごとくあの叫びを言い表わさなければならなかったはずです。

わが神 わが神
なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
わが神よ わたしが昼呼ばわっても
あなたは答えられず
夜呼ばわっても平安を得ません。
旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)22:1−2 マタイ福音書 下巻27:46)

そうして――つまり 確かにそうであって この後 追放されるという死を味わう そうして―― 《王はその宮からわたしの声を聞かれ/ 王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました(詩篇18:6)》というのは その後 追放のあと スガの宮で聞かれることになったのでした。ここには ちょうど人間の歴史として 前史から後史へ回転させる力としての愛の王国の歴史が存在するかのごとくであります。スサノヲは 前史の国から 自分勝手に 《神よわが愛よ》と言って その想像において ただちに上昇していこう この呪術の園を軽蔑し去っていこう というのではなかった。むしろ 《ここ》に寄留し その母斑をさえ身につけて あえて愚行をおかすことを避けなかった。そこに 神の国が顕われ この愛の王国(本史)は 前史と後史をつらぬいて 一本の道として つながったと了解されたのです。
 もちろん だから罪を犯せということにはならず すでにこのように 前史の母斑を克服する道が 歴史したのであると了解されたならば この歴史を日本人の歴史としなければならない。ということが ここで帰結されうるにちがいない。このような前史があった。しかもこの前史は後史へ回転させる力としての愛の本史が視られ 復活したとこそ言うべき。
 これが 日本人の歴史の総点検のひとつの例・基本的な一例です。
 オホクニヌシのミコトの場合も同じようであります。この章では省かせてもらいます。言いかえると スサノヲの子孫であるオホクニヌシの場合は すでにスサノヲの歴史を受け取っていたというほどに もはや罪を犯す愚行に訴えなくとも 迫害に耐えることによって 愛の王国が生じる。わずかに そのような違いを人は見出すでしょう。人は終えられたところから始めるというわけですが ただ神の国の歴史的な進展にかんするその基軸については 同じようであろうと言ったのは 人はおのおの ひとりの存在としての一個の生涯で あたかもかれの愛の国が完結すると言ってのように 基本的には スサノヲの歴史をもう一度 経験しなおす つまり 実際にそれを繰り返すのではなく 観想的に追体験しつつ 社会の全体的に 神の国の歴史的な進展*2につらなると言っていなければならないようであるからです。
(つづく→[社会]スサノヲとアマテラスの物語 - caguirofie041118)
 

*1:停滞安定といっても 高度成長はあったと考えられる。→おほきみは神にしませば水鳥のすだく水沼を皇都となしつ万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)巻十九・4261番 大君は神にしませば荒駒の腹這う田井を都となしつ   おほきみは神にしませば真木の立つ荒山中に海をなすかも 三・241

*2:大きな・基本的な議論については

神の国 1 (岩波文庫 青 805-3)

神の国 1 (岩波文庫 青 805-3)