caguirofie

哲学いろいろ

#143

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第六章 八雲立つ出雲八重垣

第六節 アマアガリするスサノヲ者の身体は 第一のスサノヲ(アダム)の身体に優る

すでに 前節に見た《神の国について》第十三巻第二十章でも その表題に要約されるとおり

復活後(アマアガリ)の聖徒たちの身体は 堕罪以前の人間(第一のアダム)の身体にまさる

が説かれているということです。この《第二十章》は 前節に全文を引用しましたので 読み返していただくということもお願いして いまの主題をもう一度言いかえると

《アマアガリしたスサノヲ者の身体》は――朽ちるべきものであったものが 朽ちないものを着てのように―― 復活した結果であるが それは 《あの楽園における墜落以前のアダムの身体に戻る》ということではない。そうではなく――その第一の死から復活してのように第二の死を向き変えらせて―― 前者は後者に勝るものとなる。

これです。
《第二十一章》から《第二十四章》まで すなわち第十三巻の最終章までの四つの章において このいまの主題が展開されて論議が行なわれている。


   第二十一章 楽園の霊的意味
   第二十二章 聖徒の復活後の身体
   第二十三章 魂的な身体と霊的な身体
   第二十四章 アダムに吹き込まれた神の息と 主の弟子に与えられた聖霊


これらにおいて 《魂的な身体》と《〔第一の〕アダムに吹き込まれた神の息》とは 同じものを言っており それぞれ 第一の死を迎えることにもなるはじめに創造された身体を意味します。したがって 霊魂 生命のことも含みます。あとの概念すなわち 《楽園の〔形態的なでなく〕霊的な意味》 《聖徒の復活後の身体》 《霊的な身体》および《主の弟子に与えられた聖霊〔による身体〕》は すべて同じものを意味表示し いまわれわれの言う《アマアガリ後の神の似像(その霊魂・身体つまり生命)》を言います。
これら――もし 《身体》の語で言い表わすとして――はじめの身体とあとの身体 これら二つの身体は 互いに異なります。しかも 前者・第一のアダムの身体よりも 後者・第三のアダムの身体のほうが 優るということを われわれは観想し論議しなければなりません。

  • なお 《魂的な身体》とは 《生ける魂を持っていても まだ生命を与える霊を持たない身体は 〈魂的〉と呼ばれる。これは魂ではなくて身体である》(13・23)と言われることにおいて解すべきです。
  • 要するに この《魂的な身体》とは 堕罪以前の・すなわち墜落して第一の死を死ぬ以前のアダムの生命であり 《霊的な身体》とは この第一の死から――キリストの恩恵によって――復活し しかも第二の死に渡されない生命=アマアガリの身体 これを言います。

そこで 《第二十三章》では 次のように聞かれます。たとえば

霊を持つ身体(アマアガリ)は 《霊的》と呼ばれる。わたしたちは これがやがて霊となると考えてはならない。それは肉を実体として持つ身体であるが ただ生命を与える霊の下にあるので 肉の腐朽やにぶさを持たないのである。そのとき人はもはや地的ではなく天的な存在となるであろう。
その身体は土から造られたままではなく 天からの賜物により 本性は失われないが性質を変え 天に住むのにふさわしいものとなる。最初の地的な人間(第一のアダム。われわれの中のその側面)は土から出て生ける魂を持ったが 生命を与える霊を持ったのではなかった。それは従順の報いとして のちの日のためにとっておかれたのである。その人間の身体が霊的ではなくて 魂的であったことは疑われない。・・・しかしかれが罪を犯したとき 楽園の外で養われることは拒否されなかったとしても 生命の木から遠ざけられ 時間に引き渡され 年老いて終わりを迎えるよう定められたのである。これは少なくとも魂的な身体にかんしてそうである。

また

しかし《〔あの死(つまりは 時間)の木の実を食べたのち〕アダムよ きみはどこにいるのか》と神が言ったとき 神は アダムが神を捨てることによって生ずる霊魂の死をさして言ったのであり また 《きみは土である。きみは土に帰るであろう》と言ったとき 霊魂の分離によって生ずる身体の死をさして言ったのである(これらが 第一の死である)。しかし第二の死がここで言われたと考えてはならない。なぜなら 神は新約聖書の啓示――その中で第二の死がはっきりと語られている――のために それを人びとの目に隠しておいたからである。
したがって 最初にまづ すべての人に共通な第一の死があり その死はひとりの人においてすべての人に共通に実現した罪から生じたことが明らかである。次に第二の死がくるが これは決してすべての人に共通ではない。というのも 使徒が言うように 《神はあらかじめ知り預定した者を ご自身の計画に従って召した》のであるが このような者には第二の死は来ないからである。神はかれらを《独り子の形に合わせ 独り子をして多くの兄弟の長子たらしめた》。かれらは神の恩恵により 仲保者によって第二の死から解放された者である。
神の国について 13・23〔1〕)

あるいは 《魂(πνοη プノエー/ flatus )》と《霊的( πνευμα プネウマ / spiritus )》の言葉の違いについては 《第二十四章》で

エスが・・・身体の口からの息をもって弟子たちに与えた時に呼んだ霊(――アマアガリのスサノヲ者と解する。たとえばまた いま乱暴にスサノヲの子孫であるオホクニヌシに比定する――)は ギリシャ語の聖書では 《プネウマ》と呼ばれている。実際それは 聖書のどの写本でもそれ以外の呼び名では現われない。けれども 《神は人間を土くれから造り その顔に生命の霊を吹きかけた(あるいは 注いだ)》と書かれるばあい そのギリシャ語は聖書の一般の用例に従って《プネウマ》ではなく 《プノエー》である。(これは あたかも《第一のスサノヲ》である)。
神の国について 13・24〔3〕)

スサノヲのミコト(第一のスサノヲ)は アマテラスのタカマノハラから追いやられたとき それは A者からS者が追いやられたと捉えられているが――また 古事記の記述ももちろんそのようであるが―― その内実は――すでに述べても来たように―― S者ないし《S者‐A者連関》から 単独A者が かれが分離していきたいと欲したほどに アシハラS圏から追いやられてのである。これも 類比的に あの第一の死と考えられるであろう。(関係を断ち切ったのである。精神なるA者を 存在なるS者から 分離しようとしたのである。精神が 身体を切り離したという死)。
また スサノヲの子孫であるオホクニヌシが 地上のタカマノハラA圏に対して 《国譲り》を為したとき これも やしろ形態としては オホクニヌシのイヅモ・コミューヌS圏から 単独分立志向のA者たちが 追いやられてしまったのである。(コミューヌないしムラであるなら S圏というよりは 《S圏‐〔S圏従属の〕A圏》連関形態と言うべきであり そうであったところから A者ないしA圏が 単独分立する動きのことである)。もう少し詳しく言うと オホクニヌシらは この単独分立したいと言う《A圏》に あたかもこの第一の死(ないし罪)の共同自治の主宰権を ゆづったのであり その意味で A圏は S圏市民社会から追いやられたとも言えるし あるいは むしろそのA者=A圏は 第一の死の管理を 精神によって行ないうると考えたし その管理ないし統治を みづからが単独分立して 独占的に行なうべきだと信じたのであるらしい。
オホクニヌシらは あたかも第一の死からそのとき復活して(つまり アマアガリし得てのように) 第三のスサノヲ(=第三のアダム)となったごとく 第二の死を向き変えさせたのである。この歴史的な事実と史観的な現実とが 明らかになるためには あたかも真の(神格としての)スサノヲ者とも呼ばれる人間 第二のアダムすなわちイエス・キリストの歴史的な出現とその福音を俟たなければならなかった。
ここで 単独アマテラス者の陥る第二の死の実態が 把捉され これが回避されねばならない。この《単独アマテラス者》とは ほかならぬ楽園から追放されたアダムすなわちすべての人間をまづ意味し 概念としてはとりわけ楽園の中の《善悪(時間知)を知る木》からその実を――あの悪魔に属くことによって――食べた そしてなお その第一の死から復活にあづかってその後も ふたたび食べつづける従順の子らがここで理解されなければならない。
この第二の死が あたかもあのオホクニヌシの信仰が意味表示したように 従順なる史観によって 回避され 人は アマアガリへと変えられていく。このオホクニヌシもしくは《第三のスサノヲ》〔の身体・霊すなわち生命〕は はじめの《第一のスサノヲ》〔の身体・魂 としての生命〕とは 明らかに異なるものであり――それは 第二のアダムの史観が保証するものであり―― また 優って異なるものであるということにならなければならない。これは キリスト史観である。
ここで 八雲立つ出雲八重垣が キリストの聖霊に支えられてのように 共同主観過程の中で アマアガリして様変わりしたかたちにおいて 捉えられなければならない。 
(つづく→2007-10-06 - caguirofie071006)