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哲学いろいろ

第五章 何もしない闘い

目次→caguirofie041128
[えんけいりぢおん](第四章−詩篇) - caguirofie041024よりの続きです。

第五章 何もしない闘い=話し合い

 《いま・ここなる〈わたし〉が わたしである》 これが基礎である。基礎への自己還帰 しかも この還帰した出発点からのわたしの踏み出し いや というよりは 出発点の持続としてのわたしの自己経営 いやいや すべては 生きたわたしの《存在》の問題として そのわたしのあらゆる形態における生きた自己表現の過程。繰り返すなら 過程動態としての《出発点》 これが わたしの現実であり その基礎(basis=歩み)だと思われます。 
 しかも この出発点に立って 次のことも 現実であろうと思われます。たとえば あらためて

主よ わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。
わたしに逆らって立つ者が多く
《彼には神の助けがない》と
わたしについて言う者が多いのです。   (旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1) 3:1−2)

 自己のむしろ弱さを誇る自己生誕の表現 これの持続過程を歩むわたしたちは あたかも自己に閉じこもって和歌を詠み いつまでも空想に耽っていると見られ 神の・あるいは学問の・あるいは世間の知恵の一端をも 必ずしも知識としては学ぼうとせず 口に出してしゃれたことをも語りえず そんなことなら 《鳥のように山に逃れよ》と語りかけてくる人びとと共に  しかしながら 同じようにこの世の中にいることも 現実の一端であるのだろう。――ここからは 滞留しつつも もしそう言ってよければ 闘いが 始まる。自己という存在の持続過程を歩むわたしたちは それをもってする 何もしないたたかいである。
 この闘いをもって 人と交通するときには その姿勢が それらの人びとには 対決と映るのであろう それゆえ たとえばこう語り返してくる。《〈もし誰かが あなたの右の頬を殴るなら 左の頬をも向けてやりなさい。〉(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書5:39)と言うではないか。〈和を以って貴しと為す〉のだよ》と。この知が かれらの神なのだ。これを知っていることが かれらをして 存在せしめていると語ったことになっている。あるいは 《存在と時間》を探求し これを親切ていねいに解説し その学識に加えるには 時に 慈悲こそが(あるいは 無意識?あるいは錯乱?こそが)宇宙の真理であると唱え わたしたちを教えさとそうとする。これらに教えさとされず 聖書の文句を決して字義どおりには生きないわたしたちは 社会の中で通行手形を持たないとでも言うかのように 金と権力を握らない者は 《神の助けなど何もないのだ》と かれらは 闘い返す。世間を知れというわけである。ここには 闘いがある。これも 現実なのであろう。大きく言えば

なにゆえ もろもろの国びとは
騒ぎ立ち
もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。
地のもろもろの王は立ち構え
もろもろのつかさは ともに はかり
主とその油そそがれた者とに逆らって言う
《われらは彼らのかせ(自己生誕にかんする弱さの誇り)をこわし
彼らのきずな(《生まれた》という確信の関係)を解き捨てるであろう》と。
旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1) 2:1−3)

 大きく言えば 注解した意味において この闘いである。しかも この闘いは どちらの側の真実が 真実であるのか 最終的なかたちでは決められない事情がある。そもそもわたしたちは この弱さをも誇っている。この弱さの持続過程が 現実としての存在の動態である。これを保持しつづけることこそが もし言うとすれば 現実の・社会経験としての 勝利なのである。すでに われわれも 対決の姿勢を示してしまっているが 言い換えるなら 《話し合い》なのである。かれらにとっては このわれわれの存在の《おきて》(つまり弱さの誇り)が 《かせ》だと言うのであり そんな《きずな》も 神のもとに立つと言い・学識豊かで・世間の力を駆使するかれらは 《解き捨てさせてやろう》と唱える。《きょう われわれこそが おまえたちを生まれしめよう》というわけだ。《これこそが 社会の・現実のちからなのだ。それを われわれは握っている》と。
 ここには たたかいがある。何もしない闘い すなわち 話し合い――そしてそれは 動態の過程――である。
 これで わたしたちの基本の出発点(これ自体が動態)に これを取り巻く歴史経験的な社会のありかたを捉え加えて いま わたしたちの生きる現実の舞台は整ったと思われる。
(つづく→[えんけいりぢおん](第六章−イザヤ&イエス) - caguirofie041104)