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哲学いろいろ

#24

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§37 存在(本質)について――哲学ふうに――

それで先ず 或る知られ得べきもの( aliquid scibile ) 言い換えると 知られ得るもの( quid sciri possit )が知られないで存在し得ること しかし知られ得べきでなかったものは知られることはあり得ないことは 明らかである〔ということについて〕。――アウグスティヌスは述べている――
・・・だから 愛について何を語るべきであろうか。
なぜ 精神(記憶)が自己を愛するとき 自己の愛そのものも生まれた と見られないのであろうか。精神は自己を愛する前に自己にとって愛され得べきものであった。なぜなら 精神は自己を愛し得たからである。ちょうどそれは精神は自己を知り得たから 自己を知る前に自己にとって知られ得べきものであったようにである。もし 自己にとって知られ得べきでなかったなら 決して自己を知り得ないのである。そのように もし自己にとって愛し得べきでなかったなら 決して自己を愛し得ないであろう。それでは なぜ 自己を認識することによって自己の知を生んだように 自己を愛することによって自己の愛を生んだとは言われないのであろうか。
(9・12〔18〕)

アウグスティヌス三位一体論

アウグスティヌス三位一体論

人間は 理性(精神・記憶)をもった動物である。人間は 社会的動物である。等々と 精神は自己を知る。知られ得べきものであったゆえ この認識(知解)が持たれた。あたかも精神はこの知を生んだのである。
けれども 精神がこの知を持つことと 自己を愛することとは ちがうことである。自己が人間として社会的動物であると知り この知解を持ったことを歓ぶことは そのとき精神は自己を愛していることにほかならない。この愛そのものは 知解が生まれたというのと同じように 生まれたとは言われない。また 言わないのである。知られ得べきものを知り得たことと 愛され得べきものを愛し得たこととは 別である。精神が自己を知ったとき この知解を生んだというのなら 精神は愛され得べきであった自己を愛したとき この愛そのものは言わば発出したのである。
知解の生成と愛の発出とをまとめて 精神の自己表出と言うとするなら わたしは身体をともなって精神をとおして 記憶し知解し愛する存在である。愛は意志とも言われうる。
わたしは 社会的動物であるとの記憶にもとづいて知解し このわたしが生んだ知識にもとづき 時間過程的に 価値(時間)を生む。これが 労働である。わたしが 労働するわたしを愛するというのは 同じく社会的動物であるという記憶にもとづいて これをわたしが意志するゆえである。この労働はすでに 協働と言われ また この協働の自治・経営ないし政治として 同じく愛である。記憶はこのとき 精神の秩序であり 社会的動物という点にかんがみて 協働にかんする自治の・経営の組織秩序にかかわっている。
この限りで わたしは 《記憶(精神)‐知解(知識)‐愛(意志)》の三行為能力を持って自己表出してゆく時間過程的な動態である。社会的にこれら三行為能力は 《組織行為‐労働行為‐経営行為》という生活過程の三つの領域にちょうど対応している。これら三行為領域は 《社会組織‐経済活動‐政治行為》といった大きく生産の三つの領域として捉えられる。わたしは ここで 生きている。
ところがいまの問題は こうである。わたしは もしくは 社会は 労働を生んだと言われ得ても 社会は この協働を経営することによって自己の経営(したがって 社会の共同自治)そのものを生んだとは言われない。そのときどきの経営の行為形式は 知られ得べきものとして知られ得るようになるなら この知は人びとが生んだのである。しかし経営行為そのものは すでに初めに経営され得べきようにあったごとく 発出されている。
だから 経営という人間の行為について何を語るべきであろうか とは正当にも 問われるべきである。

それについては次のようなことが言えるであろうか。精神は愛がそこから発出する愛の原理であることはたしかに明らかに示される。すなわち 愛は精神そのものから発出するのだ。精神は自己を愛する前に自己にとって愛され得べきものである。そのように精神はそれによって自己を愛する自己の愛の原理である。
しかし 愛は精神がそれによって自己を知る自己の知のように精神から生まれたと言われるのは正当ではない。なぜなら 生まれた( partum )とか 生じた( repertum )と言われるものはすでに知によって見出された( inventum )からである。目的としての知において休息しようとする探求は しばしば認識に先行する。探求は発見しようとする欲求( appetitus inveniendi )あるいは同じことであるが再発見しようとする欲求( appetitus reperiendi )である。
しかし再発見されることは いわば生まれることである。だから それは子に似ている。それは知そのものにおいてでなければ どこに生まれるであろうか。知においてそれは いわば引き出されたものにおいてのように形成されたのである。私たちが探求によって見出すものがすでに存在していたとしても 私たちが生まれる子のように思う知そのものは存在しなかったからである。
したがって問い求めることに存在する欲求は問い求める人から発出し 或る仕方で不安定であり そして問い求められるものが見出されて問い求める人に結合されるときはじめて志向した目的が達せられて休息するのである。
この欲求 すなわち尋求は 勿論知られたものが愛される愛ではないように見えるが――なぜなら ここではひたすら探索し認識することに志向があるから―― やはり同じ種類のもの(愛)である。問い求める人はみな見出そうと欲するから それはすでに意志( voluntas )と言われ得るのである。
また 知に属するものが問い求められるなら 問い求める人はみな知ることを欲するのである。もし 熱心に根気良くそのことを欲するなら その人は勤勉である( studere )と言われる。この語はなかんずく あらゆる学問の追及と修得に言われるのが通例である。だから 精神の出産に或る欲求が先行し この欲求によって 私たちが問い求めと発見によって知ろうと欲するものが知そのものである子として生まれるのである。
このゆえにこそ 知を懐胎し出産するあの欲求は正当に生まれた あるいは子であると言われ得ない。或るものを認識しようと渇望する同じ欲求は熱望された子すなわち知を保持し抱擁し 産出者に結合するとき 認識されたものの愛になる。

  • しかも この愛は すでにはじめに自己が愛され得べきものとして動態であったように かつ この愛じたいも知られ得べきものでもあったのであるが まだ知られていないとき 言いかえると それがただ愛され得べきものとしてのみ 過程していたときにも すでに発出しているものなのだ。経営が これである。自治 政治(共同自治)。

かくて 〔われわれの生活に あるいは しかるべく生活しているわたしに〕 三位一体の或る似像(にすがた)がある。つまり 〔第一に〕精神そのもの(記憶) 〔第二に〕その子であり それ自身についての言葉である精神の知(知解) そして三番目の愛(意志)がある。
この三つは一つのもの 一つの実態(ペルソナ・仮面・似像)である。精神がその存在にふさわしいように 自己を知る限り 子は精神よりも小さくない。また精神はその知と存在にふさわしく自己を愛する限り愛は精神よりも小さくないのである。
(三位一体論 承前)

この《精神‐知解‐愛》の三行為能力なる存在が 論理的に捉えたところのわたしであり これをわれわれは 知としての・つまり理論的な意味での資本家もしくは社会資本主体であると言おうとおもう。《組織‐生産‐経営》主体が それである。《デモクラシ行為‐資本生産行為‐共同自治行為》の主体。
そして 資本(価値・糧として)はわれわれがこれを生むのであり 自治はわれわれから発出している行為である。われわれは精神が身体を基体として生きている以上 第二の知解・労働・資本生産が 社会的生活の基礎であり 同時に第三の愛・意志・経営は その中軸である。第一の精神・記憶ないし自己の愛は この動態の核である。
《精神がその存在にふさわしいように 自己を知る限り――と述べるアウグスティヌスは 〈その存在にふさわしい子である精神の知解 その全き自己了解の知〉に対して 悲観的ではないように見られる―― 子は精神よりも小さくない。また 精神はその知と存在にふさわしく自己を愛する限り愛は精神よりも小さくないのである》というとき これら三つの行為能力またはむしろその行為成果のそれぞれのあいだに 楽観的な齟齬をかれは見ていると言うことができる。
社会的な意味あいで言いかえると 《精神‐知解‐愛》の行為主体たるわれわれ《資本家》としての・理論的な意味での存在と 実際の資本家とよばれる存在とのあいだに 差異が生じているのであると言うことが出来る。そうして問題は この差異や齟齬の認識――その具体的な分析はむろん 必要であるが――にあるのではなく ましてや 理論的な意味あいでのわれわれのすがたである《資本家》の像 これを理論的に説き明かすこと――それも必要だが――にあるのでもなく 問題は いますでに発出している――なぜなら それは われわれが時間的な動態であるからだ――経営行為とその過程の自己把握にある。
この欲求(自治 経営 共同自治が欲求である)の自己吟味にある。これが 学問(方法としての また 自己訓練 disciplina としての)の仕事である。
これが 資本家いや 社会資本主体(要するに生活するわれわれ)の現実動態である。みなが学者ではないが みながこの動態としての資本家である。

  • この場合は 取り立てて 理論と実際との齟齬を言う必要はない。
  • だから 三行為能力の一体であるわれわれ人間にとって その存在の根拠はと問われれば 三位一体の真理(神)だと表現上こたえる。それに悪魔を加えた四位一体などという考え方は 必要ではないし有害であろう。
  • 四位一体が われわれの根拠であるならば 理論と実際との喰い違い 善と悪との行き違いは ただ そのような認識としての区別にすぎず それらの間に 《葛藤》など生じていない。もっとも 四位一体の中でも 神と悪魔とが闘っている つまりそのように 善悪二元論を言うのなら それなりの闘いはあるのであろう。ただしこの闘いを 葛藤と表現して認識したとしても そこまでであって つまりそれ以上のことがあっては おかしいわけで 人びとは この葛藤をも とうぜん楽しんで生きているであろう。そのとき《心理療法家》がいるというのは 世界七不思議の筆頭のものであろう。つまり河合隼雄のぎろんは 《全体性》または《はじめ》において 転倒している。

(つづく→2005-11-27 - caguirofie051127)