caguirofie

哲学いろいろ

第一・ニ・三章

目次→2004-11-28 - caguirofie041128

第〓部 わたしの誕生

第一章 《きょうわたしはおまえを生んだ》

・・・
主はわたしに言われた――
おまえはわたしの子だ。
きょう わたしはおまえを生んだ。
わたしに求めよ わたしはもろもろの国を
嗣業としておまえに与え
地の果てまでもおまえの所有として与える。
おまえは鉄の杖をもってかれらを打ち破り
陶工の作る器物のようにかれらを
打ち砕くであろう。
・・・        (旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)2:7−9)

 ここでは――全体の課題として―― 《きょうわたしはおまえを生んだ》という表現に注目したい。この表現の意味するところを基軸として 経験思想の及ぶ限りにおいて 過程としての信仰・その内容を尋究していこうと思う。

 それにしても このことばを語ったという《主》とは何か。このように詠った人にとって 《主》とは何であるのか。――それにしても このような内容をみずからの人格のもとに受け容れて生きる人の 生活とは いかなるものであるのか。《もろもろの国が 地の果てまでも 〈主〉の嗣業として与えられる》と受け取っている人の思想が いったいいかなるかたちで では この現在の世界の中に 表現されてくるのか――それにしても あらためて 人が《きょう わたしは おまえを 生んだ》と《主》から言われたと表現するとは 一体いかなる事件であるのか。

 この作者にとっても あるいは一般にわれわれにとっても 世界が自己の所有として与えられるといったことは 考えられないことである。また わたしたちは すでに 生まれている。
 それでは――人間に即してみれば――これらは 単なる気概を示したものなのか。

主よ わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。
わたしに逆らって立つ者が多く
《彼には神の助けがない》と
わたしについて言う者が多いのです。(旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1) 3:1−2)

というように。
 表現とは あるいは人間の誇りとは そして改めて人間の言葉による表現とは なんと自由で 想像力の豊かで しかもまた 気概というほどに なんと弱々しいことであろう。この表現内容に関して その実現性の点で。
 不可能なこと そしてまたむしろ不法のこと――なぜなら 《自己による世界の所有》!?――ここにまで及んで 人は 自己の生活を思想として表わすにいたる。《〈主〉との関係》 それは その表現者の主観のもとにまったく真実であろうが しかもこの真実は――いまの場合―― 非経験の領域を 出ない。言い換えると 経験の世界に立ち至ることができない。《陶工の器物を砕く》ように 人が世界にあい対することは ありえない。《鉄の杖を持つ》ことも あるまい。
 一般的にいえば すべては 想像力の世界である。もしそれが真実であるとすれば 誰にとってでもなく自己にとって真実であるならば――かれ自身は あたかもそのように生きており 少なくとも かれを取り巻く情況は かれ自身から見てそのように現実的であるのだろう―― ことばによる表現とは《いま・ここ》を生きるかれ自身の 自己に還ることなのであろうか。むしろ 人間として・個人として その自己の弱さの確認 これを 表現しているということであろうか。しかも このことを 人は生きる限り 表わしつづけていくのであろうか。自己の埋没を防ぐという最小限の意志のありかたとして。

    *

 あるいは人は いったい何を 表現する というのであろう。表現することじたい 必要なのであろうか。何をにしても その表現をもって いったい何を求めているのか。それを聞く人・読む人は 何を求めているのか。何を伝えられることによって みずからも 何を誰に伝えようとしていることになるのか。
 もしくは 誰がいったい存在しているのか。すでに生まれて来ている誰が 《きょう わたしはおまえを生んだ》という声を聞くのか。その声を聞くまでもなく 人は ここに いま 存在しているであろうか。――それとも このような想像力の世界の無が 人間の存在を成り立たせていると言うべきなのか。――さらにもしくは 表現行為とは そもそもいったい どういうことであるのか。

第二章 わたしがわたしである。

悪しき者のはかりごとに歩まず
罪人の道に立たず
あざける者の座にすわらぬ人は
さいわいである。 (旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1) 1:1)

 それにしても この心の真実の反面で 何が《悪しき者のはかりごと》なのか。《罪人の道》とは どんな内容か。――このような《ことばによる表現》は いったいなにをつたえようとしているのか。
 かれの考えによれば 世の中には 《悪しき人/罪人/あざける者》がいる。みずからは その《はかりごと/道/座》から 離れると言う。《さいわいな人》の道に従うというからには。

このような人は 主のおきてをよろこび
昼も夜もそのおきてを思う。(承前=旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1) 1:2)

 《主》とは何かとともに その《おきて》を《よろこび/思う》とは いったい何のことであるのか。――その心の世界の真実の思いとその持続 これを かれは生きているというのか。いま そう 捉えることにしよう。
 みずからの心が あらゆる人にとって普遍的に正しく ましてやそれが世界を支配する力となるなどということは 考えられないことだから この詩作者の心についても その主観真実性を まったく自由に・かつ正当にも 認めなくてはならない。わたしの表現の自由は あなたの表現の自由であるから。さもなければ 何を言っているのか 分からないと――この場合 正当にも・かつ自由に――伝え返して応じるほかにない。さもなければ この詩の表現を読み解く道を歩み始めることは 難しい。
 
    *

 すなわち 自己が自己であること/わたしが自己であること/わたしがわたしであること/わたしがわたしすること これの――表現をとおしての その主観における――同一性の持続 このことをまず単純に その人の生きている真実であるととらえることから 始めよう。すなわちこれは 他者との関係世界にあって その関係ではむしろ 《非同一性》である。この詩人も 他者〔の《わたし》〕とのいわゆる差異を見ている。同じようには歩まないとさえ語っている。――この限り 《独立主観》を想定することができる。そしてその時にも 《関係存在性》は 大前提であるだろう。

第三章 鳥にしあらねば

しかし主よ あなたはわたしを囲む盾 わが栄え
わたしの頭を もたげてくださるかたです。(承前=旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1) 3:3)

と詠う人の思想とそしてつまりその経験的な考え方の上で たとえば次のうた

世の中は空しきものと知る時し
いよよますますかなしかりけり  (万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)  五:793)

と詠う人の現実認識と どこで どう ちがっていると言うべきであろう。つまりわたしの言いたいのは こちらのほうの作者・大伴旅人が 伝えられるところによれば 《独り断腸のなみだを流す》とき 《但し〔誰かは知らぬ〕両君の大きなる助けに依りて 傾命(老残の身)をわづかに継ぐのみ》と前書きして詠うこの詩において その希望をつなぐのは 上の《詩篇》の作者(ダヴィデ?)の場合と 決して異ならないであろうということだ。表現をとおしておこなう人間の 自己への還帰とその保持という希望は 両詩のあいだに 何らちがいはないであろうと。すなわち この表現行為にかんする限り 片や《主》との関係 片や現実の人間である《両君》との関係 これらの情況現実および各自の主観真実は 何も互いに異なるところはないのではないかと。
 それらの思想の広く社会的な実践形態――つまり生活社会〔の 特に習慣の部分〕―― これは 互いに変化を生じているかも知れない。だが いまは このことは措くとしよう。まずは 《わたしは頭をもたげる》と表現する時のほうが 《世の中は空しく わたしはかなしく思う》と表現する時よりも その空しさも悲しみも より少ないと誰が言うであろうか。あとは ことばの選択の問題として 一方は 現実の人間関係に焦点をあて 他方は 自己の主観の中の《主》との関係に 想いを託しているというのみである。想像の世界〔での表現〕が 現実の社会関係を離れて成り立っていると言う人は 現実または人間を知らない人である。

わたしは主に寄り頼む。
なにゆえ あなたがたはわたしに向かって言うのか。
《鳥のように山に逃れよ。
見よ 悪しき者は暗闇で
心の直き者を射ようと弓を張り
弦に矢をつがえている。
基が取り壊されるならば
正しい者は何をなしえようか。》と。 (旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1) 11:1−3)

かく言う人が 想像の世界に逃れゆき もはやそこに自らを世界から隔絶させようとしていると誰が 言うのか。そうではなく

世の中を憂しとやさしと思へども
飛び発ちかねつ
鳥にしあらねば     (万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫) 五:893)

と どうして 共に 語っていないであろう。《憂し/やさし(=世にある自己の現在の姿として 自らの意志の思うようにならないことの恥ずかしさ)》というからには 《心の直き者/悪しき者》の問題を見ていないという法はない。――そして もっと言うならば むしろ想像をとおして何かあらぬ存在たる《主》との関係を語るうたのほうが わが和歌の表現上の精神よりも なお現実的であり むしろ生臭いとさえ 思われる。
 一般にも 和歌のほうが むしろ まず正当にも自己の確保としての孤独にかえるとともに さらには――表現の上で――社会から離れてのように 孤独に浸りがちだとも考えられる。または このうたの表現を介してこそ 人との関係をとらえ そこで初めて 人との交通に現実に入るといった迂回の形態が 想い浮かべられる。従って 逆に むしろ主(神)との関係を語る人びとの思想(生活態度)のほうは それが より現実的であるとするならば そのことによって 人に対して 攻めようとする姿勢をさえ示しがちであり 一般に より攻撃的な性格を帯びる――少なくとも 表現のうえで。
 だが――あるいは 従って――ここでは 人が《神》との関係にあると表現するといった事態は 何であるのか これを 明らかにしようという課題をもっている。表現の問題一般のもとに この課題を具体的には 思索していきたいと思う。


(つづく→[えんけいりぢおん](第四章−詩篇) - caguirofie041024)
(photo=Davide)