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哲学いろいろ

第十二章 コーラン

目次→2004-11-28 - caguirofie041128
[えんけいりぢおん](第十一章−アブラハム) - caguirofie041121よりのつづきです。)

第十二章 イスラム/クルアーンコーラン

宗教ということになれば 善行にはげみ 自分の行動を神にゆだね 純正の信者アブラハムの教えに従う者にだれがまさるであろうか。神はアブラハムを友となしたもうた。
世界の名著 17 コーラン (中公バックス) 4・125 藤本勝次訳)

前章で見たアブラハムの存在思想が 系譜の一つとして イスラームの聖書《クルアーンコーラン)》に 受け継がれている。この点について やはり少しく触れておきたい。
ここで 《宗教 / 善行 / 教え》などの語は――それらは われわれから見れば 二次的なことであり 善悪にかんする道徳形態にも移行するかに見え 社会的な制度・慣習に より多くかかわるから―― 必ずしも ふさわしいとは思われない。

  • 念のために繰り返すなら 《きょうわたしはおまえを生んだ》と 《道徳》が 言ったのではないということ。

語義に注目して 上の文章を次のように解するなら まず同じ系譜に立つと考えられる。

〔自己存在の〕告白(D-W-Nからなる語)〔の表現〕にかんして美しい(=正しい。H-S-N)〔と思われる〕者は誰か。
自己の顔(=行動・意志)を アッラー(神)に 〔そうすることが健全・安寧(S-L-M)であるとして〕ゆだね それが美しくあり 〔そして〕この信仰(M-L-L)からはずれる者がいれば それを 〔話し合いを通じて〕認めさせる(H-N-F)者としてのイブラーヒーム(アブラハム)に 自ら従う者のほかに〔誰がいるか〕。
(同上)

《宗教》と訳される語(diin < D-W-N三つの語根子音の活用から成る。iiの二重母音は iの長母音のことです)は 《告白する》の意から成り ここでの《信仰》は どういうわけか 《倦む・疲れる(M-L-L)〔または ことば・語る〕》の意を共通とするとも見られる。まず これに関連して 次のような背景説明が参照される。

〔ムハムマドは このように旧約聖書の誕生思想を受け継ぐ限り〕ユダヤ教徒アブラハムらの聖書の徒)の主張に反論するだけでは彼らを説得できず かえって彼らからムハムマドの主張は ユダヤ教の模倣だと反駁された。
そこでムハムマドは モーセよりもはるかに古く アラブにとっても民族の始祖とされるアブラハムの意義に注目し 彼こそ一神教の信仰心あつい預言者で 《純正な人(haniif < H-N-F)》であり 《神に帰依する人(muslim < S-L-M)》であり 彼の信仰は神にたいする絶対的な《服従・帰依(islaam < S-L-M)》であって ムハムマドの説く宗教とはアブラハムの宗教 すなわちイスラムであると宣言した。
(藤本勝次編:世界の名著 17 コーラン (中公バックス) 2・124注)

まずここでの《宗教》は 基本的には われわれの言う存在思想と解することとする。《ユダヤ教徒》という表現も 必ずしも適切ではない。このような条件のもとに 最初に引用したコーランの文章について 基本的には 誕生せる自己の存在思想を受け継ぐかたちだと見られる。またそこでは 自己の誕生にかんする表現として ムスリム=《わたしはそこで自らが健全・安寧(S-L-M)であると知覚し認識し これを受け容れて わたしは すこやかならしめられた(muSLiM< S-L-M。初めの m- は いわゆる過去分詞の接頭辞)》というふうに捉えられた。

  • ちなみに 従ってのように《こんにちは》という挨拶を 《アッサラーム(al-SaLaaM = 平安を!)》と表わす。サラーム(安寧)は ヘブル語での 《シャローム(S-L-M)》。

あるいはまた いま系譜が同一であると解されることとして参照される表現は 次の如くである。

まことにわれら(アッラー=神 の第一人称・複数での語り)が 汝(ムハムマド)に啓示したのは ノアとそれ以後の預言者たち(つまり われわれ=引用者の言う旧約聖書における存在思想の表現者たち)に啓示したのと同様である。われらは アブラハム イシマエル イサク ヤコブの各支族に また イエス ヨブ ヨナ アロン そしてソロモンに啓示した。また ダヴィデに詩篇を与えた。
世界の名著 17 コーラン (中公バックス) 4:163)

そしてこのとき同時に ムハムマドの口から 神が語るかたちで その表現が与えられていることをも知る。その神は アブラハムダヴィデやそしてイエス〔キリスト〕にも 啓示を与えたと言っている。
すなわち まず アブラハムらが自己表現の中に用いたヤハウェーという語は 《神》という普通名詞(イラーフ=神)に 定冠詞(アル)をつけた語(アル=イラーフ > アッラーフ > アッラー)として 現われているが これは これまで見てきたユダヤ・キリスト信仰の聖書のばあいと変わりない。

  • ヘブル語も アラビア語の神=イラーフと同じ エル / エローヒーム〔イラーフの複数形〕をも用いている。

また その神が みずから語るという表現形態 これも それほど変わらない。ただ 少し変わったと思われることは たとえば同じ直接話法で《きょうわたしはおまえを生んだ》というように神=ヤハウェーが語るばあいには おおむね それが人間の側からの表現全体の中におさめられていたと思われることである。この詩篇の作者ダヴィデ(?)やイザヤあるいはアブラハムらが それぞれ人間たる表現主体としても いうとすれば神とあい対していた。しかるに コーランのばあいには アッラーが 人間ムハムマドの口を借りて みづから直接に語るという点だと思われる。ゆえに ムハムマド個人の主観の問題であるよりは 広く人びと一般の そしてそれぞれの主観に対しての 問題であるという表現のありかただと捉えられる。
アッラーが語るとき そのあいだ中 人間ムハムマドは 必ずしも一個の表現主体であるのではないという状態にある。たとえばムハムマドの口から次のように 語られたというかたちである。

おまえたち(ムハムマドを含めた信徒たち)は言うがよい。《われわれは神を信じ そしてわれわれに啓示されたものを アブラハムとイシマエルとヤコブともろもろの支族に啓示されたものを モーセとイエスに与えられたものを 信じる。また もろもろの預言者が主から与えられたものを信ずる。われわれは これらのあいだで だれかれの差別はしない。われわれは神に帰依する(〔m-〕S-L-M)。》
世界の名著 17 コーラン (中公バックス) 2:136)

すなわち この全体が 神アッラーの語りとなっている。従って もしここでわれわれの側から 表現の問題で 異同があり それとして批判があるとするならば それは 次の如くであろう。
《誰かれの差別はしない》という命題 これは 存在の誕生の系譜に立ったその思想の一内容だと捉えられるが 一方でイスラムの側では この神の語ったという言葉を受け容れ これに従い 人間たるわたしたちが みづからも語りあったりするということになる。他方で キリスト・イエスの系譜に立つわたしたちは ダヴィデにしても イザヤにしても そのかれらの自己還帰の表現に接して そこに自らのわたしをも捉え これを受け容れて この系譜につらなるということである。

  • もう少し詳しく 神ヤハウェーにあい対するダヴィデならダヴィデの生誕する自己 ここに 自らのわたしをも発見すると言ったほうがよいかもしれない。

その結果 わたしたちの日常生活での自己経営においてわたしたちは モーセにも イザヤにも アブラハムにも 同じ誕生せる自己にかんする表現を見出す。重ねて言いかえるなら 神が《〈誰れかれの差別をしない〉と言うがよい》と語ったと表現すること・またそれを受け容れること この地点から わたしたちの信仰が生じるのではないし あるいは誕生の思想が芽生えてくるのでもないということ ここに 違いがあると思われる。アブラハムダヴィデや誰れやかれやが同じひとつの系譜であるという認識は どちらにも 共通である。
さらに考えられることが もしあるとするなら 次のごとくとなろう。コーランでいま 上のように示されたとおりに人が語ったりするとき そしてまた《神に帰依する》と締めくくっているとおりであるとき この表現形態は 微妙に 誕生せる自己の持続過程において なんらかの影響をこうむらせるかにおそれられる。存在思想の系譜において 誕生せる自己の持続過程は 単一なる自己の自乗の前進であった。しかるに 《誰れかれの差別をしない》と言いなさいと教える神に帰依するというときには その表現が もしそうとすれば 型にはまったかっこうになるかに おそれられる。存在の思想――少なくとも 経験思想――の次元では 誕生せる自己も さすがに 表現の問題であり 時間の問題においてあり むしろ経験合理性にもとづく思考の対象となると考えられるからである。その経験思考を中止させかねないかに おそれられる。

  • 乱暴な議論をするなら 《神に帰依する》という《南無(=帰依)阿弥陀仏》なる表現類型であり これが 個人を超えて《普遍的》となるとき 誕生せる自己の主観動態であるにすぎないその《空虚さ》が 消えて 普遍性たる社会共同性が 一人ひとりの主観の自由を押さえつけたりすることがないだろうかという門外漢の抱くおそれである。
  • 一人ひとりは 自己の誕生に到ったなら 空虚の部分を持つ すなわち信仰という動態の過程にあるのは 当然であり だとするなら わざわざ 社会共同の側から《神に帰依する》という発言を要請するということは もしそのようなことがあるとするのならば 人は抵抗を感じると思われる。

おそらく 同じことは 逆に 信仰の問題だとも 捉えられることとなり その領域では――そもそも 《誰れかれの差別をしない》と言っているからには――その信仰内容が 存在の問題として 同じだという議論に収斂していくのかも分からない。 
いま一度ひるがえって 出来る限り 信仰の領域から遠ざかり 経験思考の問題としてとらえるならどうであろう。まず 感覚の問題としては イスラームにおける自己還帰では その表現上 明らかに 神アッラーが 一定の対象となって われわれ人間に関係してくる形態を採っているのではないかと考えられる。これは ムスリムの人たちに尋ねてみたい素朴な質問である。
すなわち 重ねて言って微妙な問題であるが 一方でわたしたちが 《きょうわたしはおまえを生んだ》であるとか《この地を去って行け》などと神が語ると表現するとき この時にも そのまま社会関係の場に滞留していて 他者と 経験的な思考と行為とで 交通しあっている。このわたしたちの基本に対して 他方で もしコーランの表現に従うならば そのように他者と交通しあうとき その時にもまず基本的に《われらは アッラーを信ずる》という表現をも語り合うことを その出発点とするのではないかと思われる。このことは まだ わたしの感覚に しっくりしないものとして 残る。
実際問題としては 前者のわたしたちの場合にも 信教・良心の自由にもとづき 自らの信仰を直接に語ることもありうるのだし また後者のムスリムにしても 直接みづからの信仰告白を語ることから始めると言っても それによって 他者との経験思考での話し合いが禁じられているということでもない。まったく そうではない。この上で――あくまで この上で――なおもし言うとすれば ちょうどいわゆるキリスト教という宗教が一面では善悪の問題を先にかかげて道徳慣習となったように しかもこれとも 善悪論の点で微妙に違って イスラームの場合には アッラーへの信仰告白がそのまま何ものにもまさって優先されるという表現形態をつうじて 人と人との交通がおこなわれるかに見える。はたして そのようであるのかどうか。そのようであるとすれば それは どういう経験現実であるのか。そのようでないとすれば どうなのか。つまり ほんとうは そのよう(コーランに従い 信仰告白が互いの交通の始まりとなる様式)であるべきなのか。いや そのようでないのが 正解であるということなのか。
いわゆるキリスト教の場合 道徳論は 《文字は殺し 霊は生かす》というときの 《文字》どおりの聖書の受容から 来ると思われる。イスラームの場合は 偶像〔としての文字や道徳の観念〕への崇拝がないとすれば ないということなのだから しかも表現上まずは《我れムスリムなり》という表明から 人と人との交通が始められるという様式であるのなら それは どういう現実であるのか。


話し合いという何もしない闘いの点では まず《宗教には無理強いがあってはならない。すでに正しい道と迷妄とははっきり区別されている》(世界の名著 17 コーラン (中公バックス) 2:256)と明言されており わずかにその帰趨にも アッラーの意が 表現上 先にかかげられているかに見える。

これらの使徒にも われら(=アッラー)は 上下の差別をつけておいた。かれらのうちには 神が直接語りたもうた者もある。またある者は数段階もひきあげられた。

  • (この文章は 差別の問題ではなく 新しい律法をもたらす使徒(ムハムマド)と それ以外の者とが 区別されたのみと解される。)

われらは また マリアの子イエスに明らかなしるしを授け 聖霊によってこれを強化した。もし神が欲したまうならば のちの世の人たちも 明らかなみしるしが彼らに下ったうえは けっして相争うことはなかったであろう。ある者は信仰にはいり ある者は背信の態度をとった。もし神が欲したまうならば 彼らは相争うことはなかったであろうに。しかし神は 意のままになんでもおこないたまう。
世界の名著 17 コーラン (中公バックス) 2:253)

この点での一つのちがいは 次にあると思われる。わたしたちとしては 信仰の有無を問う信仰の問題と その〔説明をめぐっての・むしろ経験思考での〕意見を闘わせる話し合いの過程たる時間の問題とは 信仰者個人の《わたしという存在》にあっては 不可分であると同時に そうでなく それから区別されるべく 話し合いにかんする経験思考(その意見)の合理性・妥当性の点では 〔信仰問題と時間の問題とは〕 別であると考えている。
すなわち 信仰問題は 存在思想の系譜という基本出発点としては これも 時間の問題(持続過程)であり しかも その時間の問題と不可分であるそのことによって むしろ 試行錯誤の過程に従うものと考えている。その意味で 信仰(誕生せる自己)と その信仰者=自己が持つ具体的な意見とは 区別されると考えている。従って 信仰告白をつねに交通の大前提としたり あるいはその交通という時間過程のすべてが 神アッラーの意のままにあるという認識や思いをやはり大前提に提示したりすることは 微妙にちがうという感覚と思いとが わたしたちには ある。

  • その今の認識は 結局のところ=とどのつまりでは 妥当だとは思っていることも 実際ではある。信仰とは そういうものである。

しかも この上でしかも むしろコーランの表現どおりだとするなら 経験思考とそれにもとづく行為を超えたすべてのことがら〔についての むしろ 判断〕は 神にゆだねるということが 必然だとは思われる。従ってのように 経験論法では 基本出発点そのものにかんして 何もしない闘いが帰結されるはずでもあった。だから 上のコーランの文章も むしろこのことを語っているとは思われる。と同時に 感性上の違いが あくまで表現の問題として 生じてきているように思われる。
マリアの子イエスなりイブラーヒームなりの存在思想が すべてアッラーの力と権威とにもとづき成り立っているということを 直接われわれ人間の口からも表現する形態(その交通関係)が 実際上 優勢となるように思われる。
ムスリムイスラームとしての存在思想の人)とムスリムとの交通が 実際生活のうえで 《アッラーの意のもとにおこなわれる》と互いにそれぞれ表現するということ このことが 社会生活のうえで 優先されてくるのではないかと見られる。その結果 現実に生活がどうなっているのか じつは わたしは わからない。ただ その点 感性のうえでは わたし自身の抱いている存在思想の系譜とは 微妙に違ってきているのではないかとは 単純に推測される。
なお キリスト・イエスにつらなる聖書の思想のばあい そこには 二つの系譜がむしろはっきりと識別されるかたちになると思われる。つまり 基本的な一つの系譜と 道徳論となるその別系とのふたつ。すなわち 基本出発点としてとらえてきた存在思想〔として説明するところの信仰〕にもとづく生活態度と そして いわゆるニーチェらが批判する善悪や聖俗の二元論に立つとも言うべき制度・慣習としての別系 これら二つである。後者は 別の事態であり 間違いであると考えた。(道徳・倫理が それじたいとして よい・わるいということではない。)イスラームのばあい 必ずしもこのような二つの系譜に区別されるのではないと考えられる。(ユダヤ教については なにも論じていないのだが。)そうではなく しかも――だから 信仰告白を交通の前提に行ないあうという様式から来て―― なにがしか道徳論の様相を持つかに推測される。
この一章は 推理による議論で終えなければならない。
(つづく→[えんけいりぢおん](第十三章−ヨブ) - caguirofie041125)