caguirofie

哲学いろいろ

―第十三章 ヨブ

目次→2004-11-28 - caguirofie041128
[えんけいりぢおん](第十二章−コーラン) - caguirofie041123よりのつづきです。)

第十三章 ヨブ――誕生後の試練――

外からきて内なる心理としてわたしを圧倒するうたがい

存在思想にとって 別の真実(他の存在思想)との闘いは 不可避である。互いに異同があって ときに矛盾対立することも 避けられないことと思われる。それは 基本出発点というように 何ものか《根源・根拠》を扱わざるをえないということから そうなると見るよりは 単純に捉えるなら わたしにとって一個の存在思想が芽生えるということは その時 すでに別個の存在思想があったことを意味するからである。ちがいを明らかにし 互いに自己の存在思想をそれぞれ説明しあい 自由に 話し合いの過程に入る。これを どこまでも つづけていく。
そこで このことは――つまり真実と真実との対立ということは―― 当然のごとく わたし一個の存在の内にも起こるのである。話し合い・あるいは時間過程の問題だという所以である。いうならば 自己自身との対話としてこの闘いが起こらざるをえない。このような内的な試練の過程 この角度からも われわれの存在思想を吟味してみよう。その恰好の材料は ヨブの物語だと思われる。
ヨブも たとえばまず

裸でわたしは母の胎を出た。
裸でわたしはかしこに帰ろう。
ヤハウェー与え ヤハウェー取りたもう。
ヤハウェーの み名はほむべきかな。(1:20)

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

 

と語るごとく われらの基本出発点たる誕生の思想に立っている。まず このように確認されるとき 他の人びととの対話もさることながら むしろ自己の内に たとえば基本的な問題として

ヨブといえども 理由なしに(只で / いたづらに)神を畏れたりするものですか。
旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4) 1:9)

というような《敵対者(サーターン・訴える者)》の声をも聞かざるをえない情況に陥った時のこと これが ここでの論点である。
初めにわたしの結論を述べて 話を進めたい。
一般に 時間過程にある人は その時間的な存在たることが 誕生せる自己の存在のことであるのだから さまざまな 時間的な情況変化に伴なう誘惑を 少なくともその心理の領域で 必然的に受けているものと思われる。言いかえると 《わたしは生まれた》と表現するその時じたいにおいて それとは別様に 心理的のさまざまに訴えてくる時間的情況の声を 聞いている。もし図式的にとらえるならば わたしにおいて わたしの誕生は わたしの精神(つまりまた身体)であり ここにまつわるサタンの訴えは その心理上の出来事である。すなわち 心理とは むしろ自らの外の情況のことであり これが しかも確かに内面にとらえられて何らかの形態を持ち その心の動きを持つ。

  • ちなみに その声が 外から来る心理上の動きでなく 誕生せるわたしの内面なる精神のものであったとした場合 これは もはや問題とならない。内面に摂取すればよい。

もともと 《主よ わたしに敵する者のいかに多いことでしょう》(詩篇)という一個の認識をも その誕生の時点で伴なっていたわけである。しかも 《わたしはわたしである。/ わたしがわたしである。》という自己に還帰したとの表現を得た。その情況の全体をながめてみる限りで この《誕生》のなかにと言うべきほどに 悪魔とも呼ばれるサタンの疑いの声が すでに かかわってきている。《きょう わたしはおまえを生んだ》という声を聞いたと表現するときの誕生とそしてその持続のもとに すでに 表現上その《わたし》たるヤハウェーも そしてこの《おまえ》たる自己も あるいはまた その《自己》にまといつくサタンの声も おさめられていることになる。という一つの見方もなされうるかも知れない。
こうであるなら まずは逆に言って サタンの声としての疑いとそれにかかわる不安とは 心理上の出来事である と言ってよい。つまり そこには わたしはいない / その声はわたしではない という内容をもっての 誕生となったわけであるから。言いかえると そもそも この基本出発点にあっては いわゆる神と悪魔との二元論ではない。二元論――これによって 善悪思想の道徳が派生しうる――とは わたしたちは 無縁なわけである。仮に声が一つではなく 二つあるとしても 二つの根源という意味での二元論というものは ありえない。存在思想ということは つねに 単一の自己の生誕としての一元論である。(いわゆる宗教としては これを 一神教と言い換えたりする。)もし仮に たとえ二つの声を二つの根源としたり さらには多くの声をそのまま受容する多元論として わたしが誕生したと表現するなら それはそれで 二元論ないし多元論(多神教?)という内容と形態とを持った存在思想としての一元論なのである。そうでなければ わたしは 分裂して誕生したことになる。

  • もし仮に 二つの根元にそれぞれ応じるわたしが誕生したという場合にも その両様のわたしをまとめて一元として誕生し存在していると言わざるをえない。二元だ あるいは多元だと唱えているのは その一人のわたしなのだから。
  • もしさらに仮りに わたしは 意志が 異なる二元から成り立っていると言う場合には そういう人間論=社会論を唱えたことになる。その人間と社会とは 立ち行かない。
  • たとえば まんじゅう恐い お茶が恐いと言って 饅頭やお茶を所望するというのではなく それだけではなく わたしは自分が怖いと言っていて どうかこのわが存在を抹殺するのに手を貸してくれなどと言っていることになる。根元が複数というのは そういうことである。言いかえると 一元の内にも 多数の属性は存在している。

しかも われわれの基本出発点にかんする限り 自己自身の誕生について その受動性(非経験への開け)の弱さを誇るようにして表現しているというのであるから このことは 自己の内にも その誕生にかんするさまざまな疑いが つねにといってよいほど 自由に現われ出ると言うべきであろう。言うならば 現実世界の時間的な情況につねに直面し ここに滞留しつづけるというのであるから むしろ悪魔の声なりその他多重の声が 聞こえていないというほうが 不思議である。従って たしかに一面では 社会倫理の問題・つまり単純には 善と悪(ないし罪)の問題が たえずいまにも 起こりうる情況のもとにある。そしてしかも 誕生したと表現する自己は 単一のすがたであるだろう。仮にそこに 多重音声をひきくるめて 還帰したのだと言うばあいにもである。
ここで はっきりさせなければならないことは 多重音声をそのまま自己の存在とする誕生思想は 成り立たないということであろう。もしそれが成り立つというなら それは もはやこの世でその人にとって 真実と真実との対立がまったくないという大前提に立った時のみである。あるいは 真実と真実との対立は 各主観のあいだに生じることは事実だが そのいづれの真実を選んだとしても 自己にとっては まったく同価であって ちがいはないと宣言している時のみである。従って こういう人たちに対しては 何の無理もなく われわれの主観真実としての存在思想を われわれは自由に 生きていくことができる つまり かれらの多神論をここで取り上げる必要はない。

  • これら二種の多元論は いづれも絶対的な相対主義である。それが 絶対つまりかれらの神となるときには 信仰ではなく 思い込みであり 集団をなせば 宗教である。《絶対的》にとどまり 絶対にはならなければ ふつうに 話し合いが可能である。

ただし 多元論・多神教はこのようにして 論点から はずすことができたとしても まだ 善悪の二元論は 残るかもしれない。

  • ちなみに このように議論をはこぶと 多神教論者は いや そうではない われわれはただいわゆる一神教だけは 受け容れがたいというだけなのだと答え返してくる。だったら 自由に 広く一般に話し合いの過程に入るべきである。言いたいことだけ言って あとは話しは しないというのが多い。日本社会のなかにいれば それで 済んでいけるのかもしれない。要するに いわゆる一神教は排他的だととらえ これに対して 自らは多神教という名の一種の一神教としてその排他性を行使することは ほめたことではない。もっとも われわれは 宗教としての一元論を勧めているわけではないのだが。
  • そうすると このような不平を言う多神教のばあいを含めて 話の典型としては 二元論をとりあげておけば 足りるであろう。〔不平というより 対話をするという人格ができていないという問題のように思われるときがある。〕

われわれの基本出発点にかんしても そもそもこれじたいから 二元論が派生する余地があるかに見える。たとえば 自己の単一なる存在の誕生は 表現上 存在せしめる者=ヤハウェーとそして自己との二項関係からなっているからである。あるいは より詳しく言えば ヤハウェーは表現の問題であり しかも非経験の領域としての想定にすぎないのだから やはりこの誕生せる自己は わたしという単一性でしかないと言えるが この単一なる自己に対して とうぜんの如く経験領域では たとえばそれに対するサタンの声とそうでない普通の自分の声とが 重なりあうかのようにさえ かかわりあっている。つまりこの後者の二つの声・言いかえると 自己の内の二つの側面 これらはほとんどそのまま 二項関係をなし ここからは 二元論がみちびかれるかに見えている。もし自己の欲し選ぶほうを 表現上《善》とすれば 必然的にこれに対立する声のほうは 《非善》である。自己の存在は 単一であるが その意志が具体的に欲求し選択することがらは 可変的である。その上で 一定の選択を――主観真実の限りで――《善》だとすれば それに敵対するいま一つの選択は 善の欠如となり その限り 《悪》と表現される。
ここから ほとんど苦もなく いわゆるふつうの社会経験上の 善悪の二項対立関係が その観念の共同化をつうじて 慣習的に・あるいは制度(法律制定)的にまで 広がっていく。倫理学は 容易に道徳論を打ち立てる。
だが どうして ここから・つまりこれらの現実情況から 存在思想の基本出発点に 善悪の二元論が出てこなければならないのか 理解に苦しむ。善悪の対立・葛藤あるいはいわゆる罪の問題 これらは あくまで経験領域でのことであり その意味で 人間にとって ただ心理の問題であるにすぎない。もちろん経験的な社会秩序にかかわる倫理の問題であり その限り 道徳も重要であると思われるが どうして これら倫理・心理の経験事象が 非経験との自己の関係としての存在思想に 善悪二元論などとして 顔を出してくることになるのか。それは 顔を出したとすれば 越権行為である。それとも 人びとは ほんとうは 単一なる自己に誕生する一元論としての存在思想こそが 普遍的な主観真実であると思っていて わずかに 現実経験の上では 自己の欲すること(その意味での善)とそうでないこと(悪)との対立・葛藤があるから その心理的な思いを ほんとうは一元論なる自己存在のさらにこまかい内容として あたかも善なる神と悪なる神とというかのように 投影し そこに託しているのであろうか。一元論ならたしかに《存在せしめる者》は善神であり これに敵対する=すなわち《存在せしめない / 誕生させようとしない》その声を寄せるものがあるとすれば 悪魔なる神だと見なし この心理の思いをも受け容れることが 現実の苦をやわらげ 自らをなぐさめてくれると 夢見ているのだろうか。
これは 逆であると知らなければならない。悪魔は 外から来る経験領域での心理の声であるに過ぎない。もしくは仮に 悪魔なる神として 非経験の領域にこれを想定するとするならば――それは 確かに自由だ―― しかもそれが 《悪魔としての非経験》であるかどうかは わからない。わかっているのは 非経験の領域を想定して 自己の誕生を表現するのに その想定上のことばを 用いることがあるということと もう一つは 善とか悪とかいうことばは あくまで経験的な思考・選択・判断にかかわる経験的なできごとだということである。経験上の善悪ということがらを 非経験の領域にそのまま当てはめることは 無理である。善とか悪とかは われわれ人間の経験思考に発するものでしかありえない。だから仮に 非経験の領域を 《存在せしめる者=ヤハウェー》などと表わすよりは 《悪魔=サタン》といいかえたほうがよいという ただ表現上の問題として言うのなら 話は別なのである。だから 存在思想にかかわる非経験の領域を あれこれ想像し たとえばそれは善と悪との二元から成るといったとしても 自己の誕生にとっては 意味がない。仮にそれらが意味を持つとするならば 明らかにそれは すでに自己が誕生したと表現したあとのことである。だが そのときには 自己が非経験の領域へ開かれているということにかんして 善へ開かれていようと悪へであろうと あるいは じつは善と悪とから成る世界なのであったと知ることになろうと 何ら 既に誕生せる自己にとっては 問題とならない。つまりは 善悪の思考と判断とは 経験世界に限られるのである。(つまり 別様の存在思想へ鞍替えするというのなら 意味があり 話は別である。宗旨替えしたなら やはりそこで 《わたし》の存在は 単一なのである。)
存在せしめる神ヤハウェーが 善であるか悪であるか あるいは両方であるか これらについて想像をめぐらし また詮索することさえ 自由であるが それは 意味がない。(実際には 表現上とうぜん 善だというのであるが。)自己の新しい第二の誕生・その事件のみが 問題である。その事件に出遭って誕生せる自己の表現を得た人のそのことばの中から あれこれ概念として取り出して非経験の領域を想定する言葉(神)を 経験領域にそのままあてはめたり あるいは逆に経験領域でのものごとにかかわる言葉(善悪)を あたかもそれらが非経験の領域でそのまま起こっているとしてそこに当てはめてみたりしても 意味がないどころか 間違いである。このように交通整理しうると思う。
おおよそ このようにしても われわれは自己のおかれた現実情況から たえず身に迫るものとして 自己みづからに起こりくる疑問ないし誘惑の声を 聞いているし その聞いていることを 知っている。
ここでは もっとも些細なものをも含めて さまざまな心理上の疑いとそれへの誘いの声があると思われるが これらを一つにまとめてその中心となるべき〔表現上〕サタンの声 すなわち 次に述べる不安に集中して 考えてみよう。つまり 《おまえが自らの誕生を受容し そこに立つと言ったことは 決して〈理由なく(つまり表現上 存在せしめる者=ヤハウェーのために)〉ではなく おまえ自身の利益のために そうしているのであろう》という問いに収斂すると思われる。そのような不安である。《おまえは自らが生まれたと言っているが そしてすべては表現の問題であり主観真実にすぎないと語るが それらすべては まやかしであろう? / 言い換えるなら すべては 単なる利害関係の問題にすぎないのではないか? / 要するに すべては嘘であろう?》と言って迫り来る一つの声とその不安についてである。

ヨブの物語

サタンの声として響く問題のうち《利害関係》をめぐることがらは 大きくやはり《時間》の問題のもとに 《因果律》という見方にかかわって捉えることができると思われる。とすれば 意外と簡単で 時間過程での経験的な思考と行為とをめぐる関係の展開もしくはそのもつれ具合い このことに わたしの誕生せる自己は どのようにかかわっているのか これである。
そしてその前に 上のサタンのかけた疑惑にかんして 次のことは 簡単に解決しておくことができる。
《わたしは生まれた》という存在思想は あくまで主観真実における表現の問題であるから 《嘘》は 大いにありうる。もちろん故意にではないが 《まちがい》も起こりうる。すなわち 人間のことばによる表現は 一般的にいっても 大きく《虚構》であり この虚構をとおしてでも 自己の主観真実が表現され 伝えあわれるというものである。従って 《まやかし》や ためにする故意の《嘘》すなわち《偽り》は 論外である。《虚偽》によって 自己の誕生を表現していることは 問題にならない。虚偽によって成り立ったわたしを 持続させても おもしろくはない。または それを面白いという人は そういうただ――決して褒めたことではない――趣味の問題でそうしているのであろう。これを ここでは扱わない。
さて 社会的な経験が積み重ねられたところで その歴史を考察し そこから ある種の法則的な因果関係をとらえ これをさらにいわゆる因果応報のごとく見通したうえで 一つの存在思想を打ち立てるということが 実際におこなわれる。サタンの声による誘惑は 一つに この因果応報にもとづく一つの存在思想との闘いとして考えられる。
たとえばヨブのばあい《ヨブは 理由なしに神を信ずるであろうか といういわゆる宗教における幸福主義の問題》として 次のように解説されることがある。

律法(存在思想の規範化されたもの)において神の意志は イスラエルに啓示されたという古くからの信仰と結びついて イスラエル(いわゆる広くアブラハムの系譜)においては 単純な因果応報ではなく 神の律法に従った者には幸いが それに違反した者には災いが臨むということが確乎たる信念になっていた。(この趣旨は イスラームと同じようだと考えられる。)・・・ヨブに甚だしい苦難がふりかかり ヨブはその理由を理解するのに苦しみ 神の世界支配の義しさを疑うようになる。
旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4) 関根正雄・解説。括弧内は引用者。)

このヨブ記理解は 制度としての存在思想つまり宗教(あるいは律法)の側面に やや視点を傾けたものであると思うが サタンの声による誘惑と疑いとは このような情況にあると まず考えられる。
ヨブは 身内の不幸そして自らの経済的な不幸といった・思いもよらない災いと苦難に出あう。このとき 《ヨブの三人の友だちは 〔かれを見舞いつつ〕伝統的な応報思想に堅く立ってヨブの悲惨な現状から推して ヨブが何か隠れた罪を犯したに違いないとの冷たい判断を下し ヨブに悔い改めを迫る。》(関根正雄・解説)といった情況へと展開する。おまえの《誕生せる自己》とは まやかしであり まちがいなのだよと言うことである。さらにこの解説に従うなら 《ヨブはもちろん自分に全然罪がないと考えているわけではないにしても 彼だけに臨んだ特別な苦難に応ずるような罪を犯したことは絶対に考えることが出来ず 応報思想を盾にとって彼を責める友人たちに烈しく抗議するだけでなく 彼を不当に苦しめている神に向かってもおのれの義を主張し 反抗し 最後には自己の潔白を誓いつつ 神に挑戦するにいたる》(同上)その過程がつづく。すなわち もし 神ヤハウェーが 主観真実の内での表現の問題にすぎないとするならば 自己にかんするいわばもう一人の自己からの(つまり心理的なのだが)疑問の声としてとらえることも出来 いわば内的な試練の問題となる。
まず 上のような解説に見られる見解にかんしては やはりわたしは ひとことで答えることができると思う。一方で 友人たちとの討論については 言ってみればわれわれにとって ふつうの闘い(話し合い)に属し 他方で 自らの内に起こったサタンの声との闘いとしては 結局 その自己の誕生思想という表現の中で 神=存在せしめる者ということばを用いての自己表現 これが そのように――つまりその神に反抗し挑戦するまでに至ってのように―― 練られていくことであるのだと。つまり どこまでも 時間過程を伴なっての 表現の問題なのである。
従って この段階で もし経験的にいうとすれば まず 経験領域に起こるこの災難にかんする原因と結果との連鎖は それとして捉えるべきことは 捉えているであろうと思われる。これは 人間にとって当然のことである。しかもこの時 総じて言って この因果応報によって 自己の存在が成り立ったと考えている(信じた)わけではないということ これが 一つである。言いかえると 旅人が《いよよますますかなしかりけり》とうたって 自己の誕生思想に立ったことは その友人たちの大きなる助けに接してのことではあったが そこに何か因果応報を見て(つまり その経験思考じたいはありうるとしても) あの時友人たちに自分はあのように助け手となった ゆえに その結果として かれらは今 わたしを助けてくれるのだという思考(あらためて このことじたいは ありうる)によってこそ わたしがわたしに還帰したということでは あるまいからである。経験的な思考と行為との社会関係的なめぐりあわせとしての因果応報を明らかに見たとしても あるいは一般に人は その経験領域での因果律に支配されているとたとえ捉えたとしても このことは 一つのきっかけとなったとは考えられても この応報思想そのものがわたしなのだと言ってのように それによってそのわたしが誕生したとは 見ていない。少なくとも かれは 非経験の世界――すなわち経験上の因果律をも超えた領域――へと自己が開かれていることを知っており ここでこそ 自己の誕生ととらえたものと考えられるのである。
旅人らは 必ずしもそのような誕生思想にかんする表現を残してはいないが 当然そのようないわゆる目に見えない領域のことをも 見ていたであろう。ヨブは 明らかにこの因果律のみにはよらない非経験の領域のことへも自らが開かれていて そこで友人たちの因果応報説による悔い改めのすすめに抵抗したばかりでなく 誕生せる自己じしんについても――その神に反抗し挑戦するというまでに―― 格闘していったと考えられる。
《かなしかりけり》あるいは いわゆる《わび・さび》というのは この因果応報の経験過程からも 限りなく遠ざかって(遠ざかることを余儀なくされて) わびしく・さびしく また 錆びついてしまってのように生きるとき そこでこそやがて自己を捉えることになったということであろう。善因善果・悪因悪果のとおりに世の中が動けば むしろ問題はないかも知れない。《かなし》が 反面で《いとおしい/ 愛すべき》という意味合いをも持つとするなら その《愛すべき》は もちろんその生きていることじたいに関して《これだ / これがわたしだ》と言ってのようにいわゆる悟ったときの自己であろうと思われ しかも この自己は その生きていることの動態じたいであろうとも思われるが とはいうものの この姿は 因果律の支配のもとにある経験的な自己存在にのみ限られるということではないであろう。いや むしろその経験思考上の認識をも超えて 自己のすがたをとらえたからこそ 《かなしかりけり》と表現したのではなかったか。しかもそれは 当然のごとく 因果律を無視する・また排除することでは ないはずだ。
さらにしかも 鳥のように人間世界から離れ 経験過程や人間関係から隔絶していくことでは さらさら なかったが 自己の誕生は 《今日わたしはおまえを生んだ / すなわち 存在せしめる者がわたしを存在せしめた》というように ほとんど意味のない表現をもって わたしがわたしである瞬間とその出発点に立ちいたったのである。あらためて 《もっとも普遍的で もっとも空虚》なのだとさえ思われる。仮に《もののあはれ》としか言えないという思想は 《存在せしめる者がわたしを存在せしめた》と語ることと 同じことでありうるだろう。
第二には それだからこそ この自己表現の内容を 自己は吟味したりもする。悪魔の声は 経験的な現実情況から来る心理的な問題にすぎないと すでに知ったわけだが そこへも開かれていて つねにこれに直面しつつ 内的な試練の問題としても とらえていく。存在せしめる者=ヤハウェーに反抗し挑戦するのは 自己の誕生表現に 挑戦するのと同じである。
誕生思想の表現には――それが時間過程にあるからには―― 形態や内容の点でその第一・第二・・・といくつもの展開がありえて それらの間には 当然のごとく それとしての因果応報はあるだろうが どうしてこの経験領域での因果律が 自己の存在を成り立たせているということになるであろうか。《わたし》が表現上 深められる あるいは時に 以前のまちがいが正される これのみであって 以前も以後も わたしはわたしなのである。《神の意志》あるいはその《律法・おきて》 これらも ここでは 表現の問題だととらえることとしたい。なぜなら 《〈わたしの誕生〉 これがあなたたちに実現した》という声も すでに聞いているからである。つまり このイエスの声を聞いていない時代にも あたかもすでに聞いた段階としてのように 現代のわれわれからは とらえてよい あるいは とらえるべきだという主張でもある。それが わたしの主観真実であるならばの話しである。単純にいえば 《律法は 揚げて棄てられた》。
もしこうだとしたら ヨブにとって《神を信じること》すなわち一般に《わたしの誕生》が 果たして 誰かの利益のためにそうするのか この問いに対する答えは 明白であると思われる。――わたしがわたしであると言うなら わたしのため・わたしの利益のためだということにもなるが このときの《わたし》とその利益は 経験領域の因果律を超えている。その因果応報だけによらず 非経験の領域へと開かれている。そして そこでこそ《我れあり / かなしかりけり》と表現している。ちなみに 超えているとは 排除しているということではないわけである。
しかも 疑いと誘惑とは つねに起こっている。経験領域に滞留するかぎり いわゆる善悪の問題はそれとして起こっており 利害関係にも取り巻かれていることも 事実なのであるから。


やっとヨブの具体的な話にたどりついた。
《理由なしに(=非経験の領域に触れてこそ)神を畏れる(=非経験へとも開かれた自己のその受動性=弱さを 持続する)》人 つまり初めの 単一なるまたその表現が《普遍的で空虚だ》と思われる自己の誕生をどこまでも持続して生きる人 そのヨブは こうして 内的試練の過程を経ることになった。苦難に遭って

わが魂は 生きることを欲しない。
わたしはわが嘆きをつつまず表わし
わが魂の苦きままに語ろう。
わたしは神に申そう わたしを罪ありとしたもうな。
何故わたしと争われるかを示したまえ。
旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4) 10:1−2)

そうしてこれが確かに 因果律のかかわる経験領域に位置する自己の情況を むしろそのまま示しているのだと思われる。ここからも 出発する。
わびしさに満ち まだ 詫びる姿勢になく さびしくあり まだ 錆びついていない。しかもこれが 経験的な因果関係のなせるわざとしての現実情況また苦難であるとするなら――そこに 自己のおかれた場はあっても そして心理上の格闘はあっても 自己のわたしなる存在は そこにないというのだから――わびることもなく その経験事態そのものによって自己が錆びつくこともないというのだと思う。われわれは 誕生せる自己に立ちつつ あたかもなお自己の弱さを誇るかのように また 引け際のわるさをむしろどこまでもやはり誇るかのように 自己を追求するというはずである。大きなる助けを与えてくれた友人たちに対しても その因果律にのっとった上で 人間として感謝もし またその経験過程にそれとして従っていくわけであるが それだけで 人間関係をきづき 友情関係をつよめていくわけではない。因果応報にかかわる経験上の認識と思考とまた感謝の心あるいは時に悲惨の思い これらを考慮することと それを自己の誕生そのものとすることとは 別だと思われる。むしろ 自己の誕生があるから すでにあった地点に立つから これらの経験上の思いと考えとを その自己の貸し借りの関係で生きていくものなのだ。苦難にあってさびしいなら まずわびよ 感謝の心を持たねばいけない というのは 世間の知恵である。それとして 因果応報のもとに 成り立っている。ところが 自己の存在は 人が二人三人と集まって 集まったからこそ その一人ひとりの精神・人格が成り立つというものではない。しかも そこに(つまりそう成り立つものではないところの自己の存在に) 社会的の関係性がある。われわれは 一人ひとり同情によって成り立っているのではない。互いに自己の利益を融通しあうことによって また そのために 存在しているのではない。同情関係また利害関係に 自己の誕生を見るなら それは 人間の強さである。自己の新しい誕生はもう要らない つまり非経験へと開かれていることは不必要だと言っている。人間が人間だけで この世に生きていると語ったことになる。真実と真実との闘いは 強さと強さとの闘いではない。もし後者であるなら 社会の中で 長い者に巻かれることによって それぞれ《我れあり》と存在宣言することである。むろんそのことも 自由であるから もしそうでない人・つまり同情や利害の関係のもとに存在宣言をするのではない人を 社会から排除しなければ 問題ないと思われる。われわれは 同情できないのではない。助けあわないのではない。強さと強さとの闘いの中でのそのような因果応報の思想に 自己の誕生を見ることはできないというのみである。弱さが排除されているなら それは ほんとうの《わたし》ではないであろう。従って それが《偽りのわたし》だと知っていても 経験領域での利害関係ないし因果応報の訴える声 またその疑念と誘惑は 心理上 つよいわけである。

恐ろしいことがわたしの上に降りかかり
わが栄誉は風のように吹き払われ
わが幸いは雲のように過ぎ去った。
・・・
夜わが骨はわが中に砕かれ
噛まれるようなわが痛みはやむことがない。
・・・
彼(ヤハウェー)は わたしを泥土の中に投げ込み
わたしは塵芥に等しくなった。
旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4) 30:15−19)

ここで かれヨブは 自身が錆びついた。試練の過程で一つの結論にたどりついた。しかも これが 初めの基本出発点であった。何もしない闘いは ここから〔再〕出発する。

わが神わが神 なにゆえわたしを 見捨てられたのですか。
マタイ福音書 (希和対訳脚註つき新約聖書) 27:46)

と言うところからである。ヨブの物語において その後の過程は 一つに 自負の表現という側面もあろうし 一般的にいって 付け足しであるとも考えられる。
ちなみに 話しが前後するけれども 友人たちの主張するところを 見ておこう。

それ故 心ある人びとよ わたしに聞け。
神が悪を行なうなどとはとんでもない
全能者が不法をなすなどとは。
げに彼は人の行ないに報いられる。
人の歩む道に従って人をあしらわれる。
旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4) 34:10−11)

すなわち 因果応報の理論 あるいは道徳規範に根拠をおく思想にたっている。つまりそれを 観念の世界(経験思考)において 非経験の領域なる神に 帰しているにすぎない。と見られかねない表現形態である。因果律が 経験領域での妥当な観察にもとづくものであることも 道徳倫理が経験領域でのそれとしての秩序を保たせるものであることも 誰も否定しない。問題は そこにはなかった。もしこのように道徳と因果応報の理論に立って 人に忠告を語るのなら 人びとの《わたしの誕生》はすべて このような別種の存在思想によって 初めから終わりまで律されており その情況の画一的な実現こそが 理想の人生かつ社会だということになる。すなわち 実際には《神》も《全能者》も 表現としてさえも なくてすむのだし もしくは逆にいって 人が自らこの《神とその道徳律》を口に出して唱えるなら すべては うまくいくこととなる。そのときには 意地悪く解釈するなら 《神》を利用していることになる。そのとき 心からの実質的な内容が伴なわなければ だめなのだと言うなら 実際問題としては いかにうまく人をだますかで すべては決まることとなる。つまりは 世間の裏と表の二重構造でよい ないし それとして 長い者に巻かれていれば――その偽り・まやかしがばれない限り―― だいじょうぶだということになる。罪のない人はいないと思われるときには そうなる。すなわち 経験律の因果応報にのみ拠る存在思想は 自己を非経験に対して閉ざすことにより 自分たち強い人間だけの社会を 囲い込むようにして きづきあげ 弱さはすべて排除することになる。しかも この時 その因果応報の思想は 神なり仏なりの非経験の領域に想定されることばを 経験律のもとにある理念として 持ち出している。もしこれがないならば 自由な 妥当な一個の存在思想なのである。そうではなく そうではないのだから いわば 神を自らの道徳規範の親分だとすることと同じなのである。このような存在思想は この自由な社会に 自分たちの縄張りを張っていることと同じである。
もう一点 ヨブを責める友人の論理は こうである。例によって 引用の途中で注釈をはさもう。

いったい人が神に益を与えることができようか。

  • (この考え方こそが 善悪の問題にもとづく存在思想を表わし 表現構造における二項関係にすぎない神と人とを 一歩自分の外に出れば 互いを分離し それぞれ二つの実体とすることに由来している。)

いな 賢い者も自分自身を利するだけのことだ。

  • (そのとおり。道徳問題ないし因果応報による存在思想に立つならば そうでしかないことを 自ら 認めたことになる。)

君が義しくても 全能者に何のかかわりがあろう。

  • (ここでも 神と人とを二つの実体とした上で 議論している。自分たちの因果応報の思想とその縄張り社会にとって 神は 親分だと語ろうとしている。もしくは さもなければ 《かかわり》があろうとなかろうと 誕生せる自己の存在をわれわれは 持続するのみだと 答えてやればよい。)

君の道を全うしても 何の益があろう。

  • (そのとおりであろう。そのとおりであるからこそ 《理由なしに 神を畏れる》自己の誕生に立ちつづけるのだよ。)

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4) 22:2−3)

ここでは 信仰の問題に入ってしまうけれど 次のように確認しつつ 次の話題へ 進めていこうと考える。パウロが語るには

あなたがたが聖霊を受けたのは(=おのおのが それぞれ《わたし》の誕生を受容したのは) 律法(あるいは 道徳・因果応報)を 実行したからですか。それとも 福音(誕生思想の表現)を聞いて信じた(受け容れた)からですか。・・・それは 《アブラハムは〔理由なしに=無条件に=非経験とのかかわりにおいてのみ〕神を信じた。それで 彼は正しい人とみなされた》(旧約聖書 創世記 (岩波文庫) 15:6)と聖書に言われているとおりです。・・・
ガラテア人への手紙 3:6)

《自己の存在の非経験とのかかわり》ということが 《信仰(その受容)》であり その《誕生せる自己》に確信を持つとき 表現上 《正しい》とも 主観真実において語る。つまり 相対的で 表現 / 存在 / 時間の問題のもとにある。
哲学やその哲学の克服といった主題のもとでは 比較的かんたんに 話し合いにおける結論・解決を得ることができるけれども 現実情況との兼ね合いでは 自己の誕生は つねに疑念と誘惑とにさらされ これの試練の過程がともなうものと考えられる。弱さのもとにあるわたしは 主観真実において 普遍的であると思われるときには 経験律としての因果応報の思想とも 闘わなければならないと考えられた。
さいごに 非常に煮詰めた・ぶち明けた問いかけとしては 《それでは わたしがわたしである人は 社会から排除され 弱者として 生活しなければならないのか》という声がある。そのとおりである。と同時に むしろこの問いは経験律としての因果応報の思想に自己の誕生を見出すと言って 具体的には 同情・思いやり・優しさ・感謝の気持ち・助け合いなどなどを その信条とする人びと これらの人びとにこそ 向けられるべきものである と考えられる。われわれは これらの強い人たちと 闘わなければならない。無理に付き合うことも まして闘うことは 必要ないが この社会に寄留するかぎり 闘いを余儀なくされている。
(つづく→[えんけいりぢおん](第十四章−仏教) - caguirofie041127)
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