caguirofie

哲学いろいろ

<小山田古墳>巨大方墳に驚き…研究者ら「天皇」、「豪族」

毎日新聞 3/1(水) 22:37配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170301-00000115-mai-soci

 飛鳥時代最大級の方墳と判明した小山田古墳。一辺約70メートルという
破格の大きさに研究者は驚きを隠さない。被葬者は初の官寺建設や遣唐使
遣などで知られる舒明(じょめい)天皇か、それとも天皇をしのぐ権勢を振
るった豪族・蘇我蝦夷(そがのえみし)なのか。


 飛鳥時代の大型方墳は、推古天皇陵とされる山田高塚古墳(大阪府太子町、
長辺約60メートル)、石舞台古墳(明日香村、一辺約50メートル)など
がある。当時の権力中枢からは離れるが、千葉県・龍角寺岩屋古墳は一辺
78メートルある。


 奈良県橿原考古学研究所(橿考研)が新たに発見した石室通路(羨道
(せんどう))の幅は約2・6メートルあり、石舞台古墳(2・1〜
2・6メートル)に匹敵する。小山田古墳が築かれたとみられる7世紀前半
について、菅谷文則所長は「他の古墳が縮小していく時代に巨大な方墳を造
れたのは天皇しかいない」と指摘し、舒明天皇の初葬地説を取る。木下正史
東京学芸大名誉教授(考古学)も「大寺を造るなど国家形成の歴史の中で
画期となる人物」と指摘。今尾文昭・関西大非常勤講師(同)は石室通路の
石を抜き取った跡に着目して「抜き取り穴が丁寧に埋められている。改葬後
にも公的管理が続いた印象がある」とし、討たれた蝦夷の墓とは考えにくい
とみる。


 一方、前園実知雄・奈良芸術短大教授(同)は「舒明天皇は火災で飛鳥岡
本宮から別の宮へ移った後、二度と飛鳥に戻らなかった。飛鳥の中心地に墓
を造るとは考えにくい」と反論し、蝦夷説を推す。日本書紀は、蝦夷
642年に自分と息子入鹿の「双墓(ならびばか)」を造り、「大陵小陵」
と称したと記している。


 白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(同)は、小山田古墳は蝦夷、入
鹿父子が邸宅を建てた甘樫丘(あまかしのおか)から南方に延びる丘陵にあ
ることを指摘。「一帯は蘇我氏の根拠地。大王墓より大きな墓となれば、7
世紀の政治史を解き明かす大きなヒントになる」とする。塚口義信・堺女子
短大名誉学長(日本古代史)は、古墳の盛り土から見つかった瓦の破片が、
蝦夷・入鹿の邸宅と関連があるとされる甘樫丘東麓(とうろく)遺跡の出土
品と同型である点に注目する。「蘇我氏に有利な資料。西隣の菖蒲池(しょ
うぶいけ)古墳と併せて大陵小陵と考えたい」と話す。【矢追健介、皆木成
実】

…………………………

 ◇小山田古墳築造前後の出来事

592年推古天皇が即位

626年蘇我馬子死去

628年推古天皇死去

629年蘇我蝦夷らの後押しで舒明天皇が即位

630年舒明天皇が初の遣唐使送る

639年舒明天皇が初の官寺、百済大寺建設を命じる

641年舒明天皇死去

642年皇極天皇が即位

〃 舒明天皇を滑谷岡に葬る

〃 蝦夷が息子入鹿との双墓を造る

643年舒明天皇を押坂陵に改葬する

〃 入鹿が聖徳太子の子の山背大兄王を自害させる

644年蝦夷と入鹿が甘樫丘に邸宅を建設

645年乙巳の変蝦夷、入鹿が滅ぶ