caguirofie

哲学いろいろ

devon cliff


Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

【Q:多神教は 一神教と違うと思っているあなたに】

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9417250.html
――回答No.4

多神教と言うのは、多くの神様が登場する文学を宗教として捉えているか?と言う側面と。
他者が崇める神を認められるか?ということだと思います。
これは、日本人を始めとする多神教国家において、他者を認め尊重出来る心があるかないか?
だと思います。


一神教であるユダヤ〜キリスト〜イスラムでは、一神教であるが故に。
ユダヤは、新約聖書クルアーン外典と呼び、認めません。
キリストは、クルアーン外典と呼び、認めません。
しかし、
イスラムは、旧約聖書新約聖書クルアーン同様大事にしています。
キリストは、旧約聖書新約聖書同様に大事にしています。


一神教と世間で言われる宗教は、日本人の感覚では考えられない感覚があるようです。
ISISのような過激思想の信者がいることで、イスラム教に対して日本人は変な感情を持ちやすいですが。
本来のイスラム教徒はどちらかと言うと、他者の思想に寛容で多神教に近いと思います。


知り合いのイスラム教徒曰く、人を殺して良いなんていう神様はどこの国にも居ないよ」と。

――この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

心のままに反応してまいります。


イスラーム評です。
★ 本来のイスラム教徒はどちらかと言うと、他者の思想に寛容で多神教
近いと思います。
☆ そう言えないことはないでしょうが これは あぶない。


ひとつに どの宗教でも そのように言うことは出来る。

もうひとつに 過激な原理主義が たとえ1%に過ぎないとしても その1
%こそが 大問題である。

クルアーンを読んで感心することはまづないですよ。おっしゃるところの
《文学》としても。


ただし 一般のムスリムの人が みづからとそして人びととの共生をとうと
び平和を愛すると思われるのですが それは どの宗教に遭っても宗教の所
為ではなく もともと人間が生まれつき持っている仲間意識のような共通感
覚によるものと考えます。


★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
他者が崇める神を認められるか?ということだと思います。
これは、日本人を始めとする多神教国家において、他者を認め尊重出来る心
があるかないか? だと思います。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ 《外道》という言葉は ブディズムから出ています。


一神教の優勢な社会にあっては たしかにその事態のままに《信教の自由》
が 認められていても なかなか実際にはむつかしい。少数派は 圧迫感
を持ってしまう。


ただしですね。同じような次元の自由としての《良心の自由》 これについ
ては 多神教の優勢な・たとえば日本社会では あまり気づかれてはいませ
んが 必ずしもその自由が保障されているとは思えません。


端的に言って KY を排斥するナラハシです。良心を曲げてでもお上やその
場のクウキには従わなければ 社会生命がおびやかされます。


このところは ゆるやかに成って来たようにも見えますが なかなか《信教
の自由》が保障されているようには 自由ではない。


一般に 一神教多神教とでは 信教の自由と良心の自由とのあいだでどち
らか一方を犠牲にしてそれぞれ片寄ったナラハシ(つまり 宗教の影響を受
けた倫理などの人間関係)を呈している。のではないか。


多神教も 社会のひとまとまりとして見れば ほとんど一神教と同じくらい
の窮屈さを人びとに対して余儀なくしている。これは あまり普段は気づか
ないことなんですがね。――つまり クウキと呼ぶくらいですから。

ねむりねこ 2016/09/24 13:10

こんにちは。

イスラムは、旧約聖書新約聖書クルアーン同様大事にしています。
キリストは、旧約聖書新約聖書同様に大事にしています。
旧約聖書新約聖書、ならびに、そこに登場する預言者たちこそが、クルアーン預言者ムハンマドの正統性の根拠ですから、これを否定したら、イスラームは成立し得ない。
つまり、イスラム教は、それに先行するユダヤ教キリスト教を否定したくても否定できない(^^ゞ

この回答の回答者はこのことをまず知らないですね。

イスラームは、同じ唯一神のしもべである、旧約・新約、そして、ユダヤ教徒キリスト教徒を排斥はしませんが、これ以外の異教徒、異教は徹底的に排斥します。
キリスト教さながら、イスラームは異教徒を弾圧・排斥する。

兄弟の3宗教で、一番、宥和的なのはユダヤ教ですよ(^^)
《恨(はん)の神》の選民であるウリと同様、ユダヤ教徒は選民だから、選ばれていない人間などそもそも眼中にない(笑)

この回答者は、勉強不足ですね。
もっと色々なことを勉強しないと。


☆これは、日本人を始めとする多神教国家において、他者を認め尊重出来る心があるかないか?
◇戦前の国家神道、ひょっとしたら、仏教以前の古(代)神道は、インドの土俗的な多神教信仰に近いものがあるのかもしれませんが、
日本の多神教は、ブラフマニズムやビシュヌなどを至高神とし、その他の神を、至高神やブラフマンの《顕現》としてとらえる、一神教もどきの宗教なのではないか。
だから、ここにおいては《ほにゃららの神》という神の(名の)違いは問題にならない。
「同じ神さまだから」の一言で片付けることができる。アマテラス、スサノヲ、オオクニヌシに始まって、果ては貧乏神、トイレの神さままで、すべて「同じ神さま」にカテゴライズされてしまうからです。
アマテラス、トイレの神さまは、同じ神の顕現、つまり、現象として現れた神の威力・神威、《しるし》の違いに過ぎないのかもしれない。
 ――その理論的背景には、おそらく、本地垂迹説があるのだろう――
そして、このことを無意識的に日本人の多くの人が感じ取っているのではないか。
少なくとも、「同じ神さま」という言葉を口にするためには、「八百万の神」を超える、八百万の神を神たらしめている上位の存在、上位の概念の存在を前提にしていなければならないはずだ。そうでなければ、このような言葉を口にすることはできないだろうから。
哲学的には、このように考えざるを得ないのではないか。

また、
このように考えると、アマテラスはあくまでアマテラスであって、神ではないということになる。
ホニャララの神を神と考えるのは、個別や特殊と普遍を混同、それをゴチャまぜにして語ることになるので、すくなくとも、哲学的には、こうしたことは避けるべきなのであろう。
もっとも、個別の神以外に神は存在しないというのであれば、違った話になるが・・・。

ホニャララの神を選んでそれを拝む、崇拝する、宗教としての神道は別にして、
私なんかは、日本の《多神教》は《汎神論》だと思いますがね〜。
古事記は、少なくとも、イザナミイザナギ、アマテラスなどの八百万の神を超える???を想定して書かれているじゃ〜ないですか。
八百万の神を生む、八百万の神を成りませる???の存在を想定している。
そして、神に該当するのはこの???になるのではないか。
もちろん、《(神の)流出論》でも構わないですが・・・。


クルアーンを読んで感心することはまづないですよ。おっしゃるところの
《文学》としても。
◇日本語で文字として読むからですよ(^^ゞ
(敬虔な)イスラム教徒は、アラビア語で書かれた物しかクルアーンと呼ばない。アラビア語から他の言語に翻訳したら、その瞬間、クルアーンでなくなってしまう。
また、クルアーンは、黙読するものではなく、声に出して、このように朗唱するものですよ。

https://www.youtube.com/watch?v=GRnja9xhx4s

bragelone

ご回答をありがとうございます。


1. クルアーン
この《朗詠》は たしかに見事ですね。歌であるし 音楽です。
これまでモスクから聞こえる声(朗読?)を聞いたことがありましたが それとは違う。
ヰキぺを見ると 《アザーン》と言って礼拝への呼びかけの声であり クルアーンの朗
誦とは違うらしい。

でも・ただし この朗詠がすばらしくいい芸術だとすると・そうだとしても だからク
ルアーンの内容が すばらしいとは限らない。


むかし齧っていたころを思い出すと たとえば《慈悲深い》という言葉。これは 
√RHM で成り立つ語彙のようで 参照すると次のごとくでした。


▲ (第1章 開端章(アル=ファーティハ)) 〜〜〜〜〜
http://islamjp.com/audio/q001.htm
ビスミッラーヒル ラハマーニル ラヒーム
慈悲あまねく(ラフマーニ)慈愛深き(ラヒーム)〔アッラー〕の御名において
  ☆ ここに《アッラー》の語はない。
・・・
アッラハマーニル ラヒーム
慈悲あまねく(ラフマーニ)慈愛深き(ラヒーム)御方
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ つまり 言葉からすると あまり大した文学性があるとは言い難いような。



▲ (ヰキぺ:ジン(アラブ))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%B3_(%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96)
☆ が出て来ますね クルアーンに。アラジンと魔法のランプで呼び出される魔人。
もとは どうも砂漠で迷ってまぼろしを見たような錯覚に落ち入るときの状態を言った
ように受け取っているんですが。つまり そういう意味で 精霊とか妖精とか。


つまり言いたいことは このジンにやられると言いますか そういう時代は イスラーム
以前のジャーヒリーヤの時代だという言い方をもするようなのです。
つまり《 to be ignorant; foolish 》と英語辞書には出ています。つまり ムハンマド
アッラーフの言葉を預言するまでのアラブ人は 阿呆だったとみづから言っている。


こういう時代区分というのは やっぱし幼稚でしょ?


2.多神教一神教
◇ 日本の多神教は、ブラフマニズムやビシュヌなどを至高神とし、その他の神を、至高
神やブラフマンの《顕現》としてとらえる、一神教もどきの宗教なのではないか。
◇ 〔* 八百万の神々は〕同じ〔ひとつの〕神の顕現、つまり、現象として現れた神の
威力・神威、《しるし》の違いに過ぎないのかもしれない。
◇ 「八百万の神」を超える、八百万の神を神たらしめている上位の存在、上位の概念の
存在を前提にしていなければならないはずだ。
◇ 私なんかは、日本の《多神教》は《汎神論》だと思いますがね〜。
◇ 八百万の神を生む、八百万の神を成りませる???の存在を想定している。

☆ この《???の存在》は 初めの神々でよいわけですよ。アメノミナカヌシなど。

《独り神となりまして 隠れたまひき》でしたか。
つまり 例の《デウス・アブスコンディトゥス(隠れたる神)》という概念を当てはめれば
分かりやすい。ヤハヱ―のことですから。



3. 一神教の排他性・寛容性
◇ 〜〜〜〜〜〜〜〜
兄弟の3宗教で、一番、宥和的なのはユダヤ教ですよ(^^)
《恨(はん)の神》の選民であるウリと同様、ユダヤ教徒は選民だから、選ばれていない人間
などそもそも眼中にない(笑)
〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ ウリナラは エリート民だったわけですか。
どう言いますか 事大主義ですから ほかの民に対するに《隷属的な姿勢》が身についてい
るところを ほかの民よりも《優れている》と確かに自認しているようです。

ゆすり・たかりにおいて選ばれた民であり 先輩やら後輩やらあるいは同輩からも 獲れる
ものはぜんぶ獲るということに気が回り そのすべを心得ている。愚図りまくり 愚図りか
らかすという手段。


そう言えば ユダヤ人は よそものを必ずしも排除はしないんですかね。信教の自由という
問題において。


4.  この質問への《回答№4》氏じしんに対して 分かりやすく対応するという点で
まだまだだなぁと・・・。

最近は 話し言葉で述べることを採り入れて来ていますが。・・・

ねむりねこ 2016/09/24 19:45

こんばんは。


☆そう言えば ユダヤ人は よそものを必ずしも排除はしないんですかね。信教の自由という
旧約聖書を見るかぎり、イスラエルの民は、異教や異教徒を排斥はしませんよね。
 ――これには、例のバビロン捕囚が関係しているという話がありますよね。イスラエルの民は奴隷になったにもかかわらず、支配民族はイスラエルの民からその宗教を奪わなかった。それ故に、イスラエルの民も寛容になった、という話です。出エジプト記を根拠にしてもいいのかもしれないけれど・・・――
禁止されるのは、イスラエルの民がヤーウェ以外の神を祀ったり、それを信じること。


イスラエルの民は神に選ばれた民族であり、同時に、神はイスラエルの民を導くものであるのだから、他の民族がどのような神を信じていようが関係ない・・・。神からの分け前が増えるので、異教徒のままであったほうが有利に働く(笑い)。
これは、さすがに穿った見方ですけれど、このように考えることもできるのかもしれませんね(^^ゞ


ユダヤ教ユダヤ人には聖職者はいませんけれど、だいぶ前に、ラビ(教師)の家系のヒトの論文を読んだことがあります。
他の宗教に対して宥和的で、そうした信仰を認めていることに、強く驚きました。
ウリは東洋のユダヤ人と呼ばれますから、このウリのごとく独善的なことを書いているのかと予想していましたから、予想していたものとまったく違っていたので、とにかく驚きました。
そして、ここで書かれていた神は、ユダヤ教旧約聖書に記されている神とは違い、純化された神、普遍的な神、宗教や民族を超えた神でしたね。


ですから、融和性はあるんじゃないですかね。
新約のイエスも異教徒に対して宥和的ですよね。
「良きソマリア人の喩え」にそれがよく現れているのではないでしょうか。
そして、これは、どちらが《神》についてよく知っているかという問題に直結するのではないですかね。
エスは、ユダヤの民、ユダヤの聖職者は良きソマリア人ほどに《神》を知らない、と言っていますし。

bragelone

◇ 禁止されるのは、イスラエルの民がヤーウェ以外の神を祀ったり、それを信じること。
☆ これは はっきりしていますね。ほかの民族がその固有の神を持っていることについて
そのまま認めている。ただし ユダヤ人がそれを信奉することは認めない。


エスは 考えてみれば あの《律法》の体制に対してよく闘ったと思います。

律法によれば 病気になること自体が 《罪》とされるところがある。そして 取税人は
税金を取り上げるだけではなく それがローマ総督の代理としてなのですから 嫌われる。

これら病人や娼婦や取税人と すすんで交わっているというんですから 宥和性・開放性・
平等志向などが 強いというだけではなく それをつらぬき戦っている。信仰は措いてお
いても 半端ぢゃないと思います。

良きソマリア人の挿話は 自然な生きた姿だと思えます。