caguirofie

哲学いろいろ

哲学は けんかである。

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

哲学は けんかである。けんかを哲学的にやろうとすればよい。

1. 哲学は けんかである。哲学的にけんかをすればよい。

2. 同じくけんかである自然科学は しかしながら その仮説を実証しえたなら 結着
は〔一たん〕つくのに対して 哲学の場合には なかなか決着がつかない。社会科学にし
ても政策をめぐる見解が違ったなら 社会の一部ないし全体において実験をするしかない
が 哲学なら――特にはその基本が存在論にあるだろうから―― 結着をつけることは並
大抵の問い求めではむつかしい。主観を避けた存在論では 絵に描いた餅になる。

3. ゆえに 段階を互いにそのつど高めつつも 永遠に対話をつづけなければならなく
なる。この意味で 哲学は けんかである。

4. けんかならば けんかの方法があるはずだ。




5. 何よりもまづ先に 相互に見解を明らかにしたならば とうぜんそれを認識せねば
ならない。

6. それには相手の言い分をまづは全面的にただしいと見なして受けとめるのがよいの
ではないか。そうすると 間違いについて早くよく分かる。

7. とうぜんのごとく 同じ内容を共有する部分とそして異なった見解を持つ部分とに
分かれる。特には後者の――けっきょくこちらとしては間違いだと思うところの――相手
の見解について批判する。そうして互いにさらになお問い求めをつづける。

8. 批判がなければ 全面的な互いの同感に到ったという対話の場合を除けば 哲学・
思想ではないであろう。




9. むろん哲学は 思想がおのれの見解に従って突っ走るのに対して そうではなく一
たんはその独走を禁欲し あらゆる可能性を考慮しておくというかたちであらゆる場合に
ついて迂回作業としての認識や思索を 行動への準備段階としておこなう。おこなうので
あるが ただし それではまだ生きていない。それだけでは 生きていない。

10. したがって まったく同じ世界観を共有する場合を除けば 哲学するということ
は 互いの見解についての批判合戦となる。

11. このときどういうわけか人びとのあいだでは 批判はするな・自己主張はやめよ
・議論をするのはみっともないといった通念がまかり通っているように見受けられる。

12. とすると どういうことになるか? いつかどこかで――たぶん外国発という―
―お墨つきが出れば それを有力な仮説なりあるいはすでに定説なりとしてすでに押し戴
き その説の中身を《研究する》ことが 哲学だということになる。らしい。

13. そのような手枷・足枷をありがたがっている傾向がいちじるしい。あとは熱心に
――自己主張を禁欲して――研究に没頭する これが 哲学であり学問だというのであろ
うか?


ご教示ください。



14. ちなみに《価値自由》を説いたM.ヱーバーとか言うひとも おのれの価値判断
を―― 一たん控えるとしても――しないと言っているのではない。

15. 自分で自分の手足を縛る《ダルマさんの禁欲主義》は いったいどこから出て来
たのか? 《お墨つき》〔ならそれをありがたく戴く〕というのは 明らかに価値判断で
あり自己主張であり ダルマさん主義から自由な少数者に対しては けんかを売っている
にひとしいことなのに。

16. だから 哲学は むしろ社会通念のほうから けんかを売られている。というこ
とになる場合が多いのではないか。哲学としてのけんかではなく 哲学するなかれという
通念が売るけんかであり 哲学する側にとってはその売られたけんかを買うかそれとも放
っておくかの問題となる。

17. つまり煮詰めに煮詰めれば 世の中のクウキには右へならえするべしとクウキが
説いている大日本クウキ教のもんだいであろうか。