caguirofie

哲学いろいろ

あいまいな日本のわたし(下)

――大岡信の詩を出汁にして――


 しかし詩人・大岡は みづから この多義の系なる共同観念をうたって描く。わるく言うと いわば繭の中で 堂々巡りのように。
 ただしまた この共同観念あるいはつまり 社会共同の心理情況を 映し出しつつ それを超えた視点をも引き出してくる。


   ひとびとはただ集中する視線だった
   ひとびとはただ女に向って集中した
   死を前にした美しさで
   女は広場に催眠術をかけてしまった
   ・・・
   ひとびとはいま
   つひに女と結ばれた
   ・・・
   私は舐めてゐた わが眼の中で女の白い足を
   私は女を抱きしめてゐた 広場の中で 無限に遠く
   ・・・
   ああこの催眠の恍惚の中で
   死にかけるのは ただ
   広場だった
   広場に群れるひとびとだった
    (《女は広場に催眠術をかけた――《彼女の薫る肉
    体》の Post Scriptum として――》1976)


 このあいまいさは――《多義の中の自己のあいまいさ》と《多義の系じたいのあいまいさ》とは―― 作品の系譜として 次のような詩が直接 受けもっている(いた)はずのものである。(ことばの使用は 作品のままとする)。 
 

   水の底で空気がアオミドロにとらえられたまま 凍りついたとしたら
  こんな微光を発するであろうかと思われるような夕暮れ 私は ひとり
  の女に出会った。
   女は 狂女のようにみえたが・・・
   ・・・私は有頂天になって叫んだ。
   ――あなたは 気違いだ。狂女だ。魔女だ。
   ――かわいそうに ときどきわたしに本気で恋してしまう若者がいる。
    わたしに抱かれて 空を翔んでいるような幻覚をいだく男がいる。わ
    たしには すべてを見透す力が与えられているけれど こういう男を
    どうしてやる力もない。かれらは本当の狂人になってしまうのだから。
    ・・・
   (《彼女の薫る肉体》1969)


 一九七六年の詩人は 六九年の詩人からの展開であり しかもそれは 発展であると位置づける必要があろう。しかも 一九七七年の詩人は 後退するかのごとく あたかも石女の子をはぐくんで 《多義の系じたいをあいまいにしている》。


石女の妊娠を 心の妊娠として 宣言し はぐくんでいる。きわめて自然に そしておだやかに。


 そしてこの後には 試験管ベービーとクローン人間の時代がやってくるという寸法である。《非在のあなたは 精神の敵》であるだろうか。《だが 魂の思われびとかも しれないのだ》。


 だが この《両義性》は 両性の関係を持たず 妊娠などしないのだと知るべきである。《多義の系》なる共同観念は どっしりと腰を落ち着けて それじたいでは動かないのだと 精神は 知解せよ。二十一世紀のあなたでは。


   まわれ
   まわれ
   わが環球よ
   まわれ
   真っ赤な虚空を
   ・・・
   わが環礁よ
   まわれ
   まわれ


(おしまい)