caguirofie

哲学いろいろ

 Elian #6

もくじ:2010-10-16 - caguirofie101016


訳詩《 Elian 》(吉本隆明:エリアンの手記と詩)について


 この詩編が 抽象普遍をねらったアマテラス語のものでないという保証はない。なぜなら たとえば江藤淳の言うように 《十七歳の純粋》を定着させるがごとくしてうたうことは この詩のエピグラフにあるパウロの語句《もし誇るべくんばわが弱き所につきて誇らん》の《弱き所》を 或る律法の地位にまで押し上げるなら それは まづ律法のごとき地位に立つことじたいが アマテラス語のものであることになり 一般に観念共同化させるおそれがあるからである。そのようなかたちの《アマアガリ》がまといつく。


 けれどもわが国の歴史と社会の情況からして ここにうたわれる詩の内容を一度通ったことを確認することは 一つの譲歩としてだが 故無しとはしない。


 一般に吉本の詩は 建物を建てるときのはじめの足場のようなものである。ここに掲げているほかのヨーロッパの詩人の詩は 暗い孤独を映しているがそこに寂寞はない。吉本の詩は 暖かみを持って寂寞を克服しようとしている様子が見えるが 孤独を何か捕まえようとしている。寂寞のないしかし暗い孤独の中からほんものの暖かみの生まれること これをすでに受け取ったとわれわれは宣言するゆえに これらの詩編を引用しているのである。
われわれはこれらを 批判して受け容れることができる。受容して批判し突き放すことができる。


 またこれらはすべて もはや前代の母斑からわれわれ自身 解放されんがためのもので すでにある。このための言葉と文章とは 一見 われわれ自身を感覚的なものへと用い尽くすようにして 愚痴を言い怨念といったものを吐き出すがごとくではあるが たとえば吉本の詩が それじたい《固有時との対話》と言われるように ともあれ 観念の共同化を拒否する姿勢を保つがごとく 意識の〔内なる人としての〕流れではあっても その意識の排泄ではない。観念と言ったのは 主観の中に見出される感覚でもあり またその周縁に付随する情感・情念をも含むものである。(観念と言った時点では もう抽象化されている)。


  わたしの考えでは この意識の排泄に近いたぐいの文章は それが学問的な研究成果を発表しているにもかかわらず(また ひょっとすると そうであるがゆえになのか) 梅原猛のそれであると つねに感じる。これについては 別の話しとなる。
(つづく:2010-10-22 - caguirofie101022)