caguirofie

哲学いろいろ

amaguappa さんより

だいぶ日が経ちました。
あちらのQ&Aサイトでの仏教批判もたまに見ていますが、
あまり食指は動きません。しかしかつてkigurumiさんが
検証番組「ツァイトガイスト」の内容を武器にして
キリスト教批判をしていたのを思い出します。
人々の感情にとって似たようなことになりませんように。


schneewittchenさんについては、そうですね、、、、んー
bragelonneさんのブログに来た彼女なりの理由があるんでしょうからね。
理由が狂っていても、でも、そこに気持ちとか心とかあるんですね。そこをどう受け止めるかは、難かしいものですね。


それにしても、
schneewittchenさんはagrippaさんの存在を無いことにするでしょう?
あれは何か寒々しさをおぼえます。
たぶん、ご存知のようにaqrippaさんの名前が、いくつもわたしに似せられていた時期があるので、そんな表面的なことのために、彼女には2人の人間の違いが
心底わからないのでしょう。
ほかにも誰かと混同しているようで、それが改められることはないと思いますが、
そもそもわたしの文がそれなりに蓄積されたサイトで、
それらを読んで、わたしが(歴史家であって)宗教的なことを言わない
ドラスティックな人間だと気付かないのは、ある意味、
明白な勘違いぶりにも恥じ入らないわけでさすが太いなと。

bragelone より

こんにちは。
 ★ 人々の感情にとって
 ☆ ですか。つまり人びと一般ということだと受け取りました。


 つまり 感情も理論も理論をめぐる議論もそしてその相手の人も 人として 受け留めているつもりですが 人びと一般ということになると どうなのかなとは まづ思いました。
 質疑応答の場への訪問者の人びとも入るでしょうし。


 そうですね。つまり わたしの承知していないところで何か起こる可能性があるのではないか。こういう危惧ですよね。


 そうですね。
 いえ。ただし きぐ○○氏のキリスト教批判は よく受け留めてもいわゆる組織宗教としてのキリスト教への批判ですから そのことは わたしもおこなっています。ただし キリスト信仰について誤解も六解も七解もあるようですので その点が――〔人びとの感情にとってのほかに〕わたしには基本的な欠陥だと捉えられる問題点として―― 成っていません。
 つまりその場合にはぎゃくに批判の内容が成り立っていないことにより 人びとの感情を害するという側面がゆるめられていると思われます。


 ということは わたしはわるびれず堂々と わたしのゴータマ・ブッダ批判は 的を射ておりどうしても必要な作業であると考えていますし むしろほとんど誰もやらないのですから よくやっているとさえ自負しています。


 それでも 善意の第三者の気持ちを害しないか?


 いま考えたことですが この仕事は やはりすべてを覚悟の上で一定のおしまいまで遂行しよう。こう考えます。


 その理由は 何にも増して いわば日本人にとっての《ローマ教会批判》がどうしても必要である。という考え方です。
 ローマ教会批判は ひとつに 例のアラヒトガミの虚像をそれとして認識するということだと思いますが これは じつは必ずしも人びとは 催眠術にかかっていたわけではなく かかった振りをしていただけだと見る度合いがわたしにはつよいのです。いわゆる人間宣言も出されたことですし あまりこだわっていません。


 それよりも何よりも もしローマ法王の不可謬性が批判され地に落とされたという事態を 日本社会にあてはめるなら それは まさに《ゴータマの神格化への批判》だと思うからです。
 これは 早晩やらねばならない。是が非でもです。


 もうひとつの理由は あくまで言論としての批判をおこなっているに過ぎず 人びとはそれに対して反批判をすればよい。といった単純な事態である。と言ってよいからです。


 再考が成りましたら またお伝えいたします。


    *

 ★ 〜〜〜〜〜
 それにしても、
 schneewittchenさんはagrippaさんの存在を無いことにするでしょう?
 あれは何か寒々しさをおぼえます。
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 ☆ この感覚は あんがいわたしや ひどっちさんにも通じている。こう思います。
 そして 相手を相手としてものを申すという段階は わたしにとっては――単なる感覚としてですが――通り過ぎた。とも思っています。この日の日記本文に書き込んだとおりです。


 ★ 〜〜〜〜〜
 そもそもわたしの文がそれなりに蓄積されたサイトで、
 それらを読んで、わたしが(歴史家であって)宗教的なことを言わない
 ドラスティックな人間だと気付かないのは、ある意味、
 明白な勘違いぶりにも恥じ入らないわけでさすが太いなと。
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 ☆ 蛙の面に小便。少々下品ですが このことわざがふさわしいかも知れません。
 と言いますか 《さすが太いな》をも通り越えて いったいどういう心性あるいは精神構造をしているのかと思います。
 そのような誤解や曲解を持ったまま生活して行けるというのは どういう心なのかと思います。


 そして そのことについてもう考えることもしなくてよい。という判断を持ちました。
 答えを知っても どうということもないと思われ またもし万が一重要な内容を持つ答えであったとしてもそれは ご自分が自分で明らかにする責めを負っている。こう考えるからです。


 つまり わたしの場合 もうわたしが何かをするということはないと判断したところです。(感覚にもとづいてではありますが)。


  あぐりっぱ氏 そう言えば顔を見せませんね。