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哲学いろいろ

韓国語は日本語のルーツか?(6)

日本語にとって韓語は アメリカ語にとってイギリス語にあたるか?

 イヨンヒ(李寧煕)説への批判を継ぎます。


菅野裕臣が指摘しているのは 歌を解釈するにあたって《音訓ごちゃまぜ》ではないかということですが(『フシギな日本語』p.199) それはそれでもよいとしますと そこから別の事実が証明されることになります。
 万葉仮名の漢字を日本語で訓み その音を頼りに韓語で類似する音を持つ語を探し出す。そのあと解読にあたる。そのこと自体も問題ありとしなければいけないと思いますが そこから次の問題が現われます。


 韓語にはない日本語の存在が たとえごく一部にしても 証明されたということです。
 言いかえると その万葉歌をうたってその表の意味とは別に裏で暗号として しかも韓語で 隠された思いを伝えようとしたというとき これを貫くことはできず 一部には日本語をも使ったし 使わねばならなかったとなります。
 そういう場合 わたしが考えるに おそらく別の韓語を使うか歌を作り直すかすると思うのです。


 アメリカ語が イギリス語と違ってきているのは 発音や同一語の意味の変化を除けば 現地にしかないものを表わす語くらいではないでしょうか? (フランス語・スペイン語などほかの言語から採り入れた語はそれとわかるはずです)。このような場合が 何何語のルーツは何何語だという事例だと考えるのです。


 そうではないことを ご自分の解読の手法において 証明しているというように考えます。

 どうでしょう? 
 半島からは少数のいわゆる王族に近い人物たちがやって来ているのではないかという歴史の方面での課題のほうが 重要かも知れません。
 ただし 韓国語と日本語との似通りについては これからも対照させあって解明されていくと思います。