caguirofie

哲学いろいろ

はじめに

人類の育て直し

これは 《わたし》のいまの一挙手一投足について 即座に見直して正しつつあゆむという理論を言っています。途方もないくわだてです。


たとえば わたしも『歴史――日本人の――』で 歴史の総点検をおこなおうとしました。考え方としてある程度やったと言えますし ほとんど基本的な行為形式にかんして捉えようとしたのみとも言えますが 問題は そこでは 端的に言って人と人との関係として《まなざしをそそぐ側とそそがれる側との分離およびそれとしての連関》を点検のための基準としておこなっています。
つまりは《スサノヲ‐アマテラス》連関として 《身‐心》のそれや 《市民‐公民》のそれなどです。
言いかえると 《もっぱらの公民》なるアマテラス族が 日本の社会には現実に出たと見ますが それがどうして・どのようにしてそのように権力を握るに到ったか。これの研究になります。
《 S - A 》連関を基準にして 歴史を総点検した。のみです。

 それのみだという意味は たとえば アマテラス族こそが 《和を乱す》原因になったとそこでは見るのですが もしここで《人類の育て直し》という原則をきっちりと当てはめるなら こうなります。つまり 和を乱して社会の第二階へと上がって行ったアマテラス族をワルモノにするだけではなく スサノヲ市民一般のあいだにも 和を乱すなり何なりの行為としてワルモノがいなかったか。これをも点検のための基準とするということになります。
 そういう意味でさらには 一挙手一投足について点検するというおそろしい行為原則です。


 たぶんあなたの感性は そこまでのものを要求したのでしょう。
 そして もっともな話ではあります。

 そして確かに どこから手をつけてよいのか まどうところです。
 まづは ここまでを述べて問うてみます。

言い換え

3.
【D】「静止が解除された」→「静止が解けた」
※「静止が解除された」には解除した人がいるが、「静止が解けた」には解いた人はいない。
※「静止が解除された」は受動的だが、「静止が解けた」は自発的。

これは 可能性の全部を述べておらず 一部の場合に触れているのみ。
・たとえば 自分で静止を解除したあと 《「静止が解除された」》と表現してみることは ふつうにありうる。
・一生懸命に静止を解こうとしていて やっと解けたときに 《「静止が解けた」》と言ってみることは ふつうにあり得ます。
・ゆえに つねに《「静止が解除された」は受動的だが、「静止が解けた」は自発的》とは言えません。もっとも その言葉としての表現形式は 《受け身》だとか《自動詞としての自発性》だとかは そのように一般に受け留められることです。