アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。
いわゆる地域主権について問うものです。
なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?
それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずです。
すっ飛びの仮説によって考えてみます。
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感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。
イリ(世界への入りをおこなう)人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。
ヨセ(世界を束ね寄せる)人は まぼろしに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。
ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。
このヨセ人なるアマテラス種族が 平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。イリ知性のスサノヲ市民村におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。
かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 二階建てである。
《ひかり もしくは まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 誰れの発言(自己表現)にも 本音と建前がある。あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。
広くマ(間・間合い)がそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ており むろんその問題をあつかう。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。
第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?
細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。
つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。
イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。
こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 反措定の反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?
マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての大政奉還。
これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。
アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。
マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?
じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。