caguirofie

哲学いろいろ

思考を超えている状態 これは 何かに漬かるということがあり得ない。思考をしているでもなく していないでもない状態 このときには人は わづかにその非思考の状態を 存在としては受け留めている。
 
 非思考の場を 存在としては 受け容れてもいる。つまりそれは 諾と言って受け留める場合に分かりやすいのであるが しかるにそうではなく 否と言って受け付けないかたちでその場が成り立ちその限りで何ものかによるノックを受け留めたという場合 それは 否というかたちでそのナゾの何ものかと接したことになる。すなわち 存在としては受け留め かつ 受け容れている。
 細かすぎて屁理屈のように聞こえるかも知れないが 諾や否と言うことになるかたちは すでにじつは思考の状態にあるからだ。つまり 思考の状態では イエスかノーかがありうるのだけれど その前の一瞬においては どちらの態度を取ろうとすでに受け留めかつ受け容れていることになる。ノックがおとづれたなら 受け容れていることになる。ノックのあることに対して 人間は どうすることも出来ない。

 そうして 非思考のナゾを受け容れるとき そこでは 何なら感覚は――中止されているわけではなく また禁止されてなどいないから―― 普通にはたらいていると言える。ので 感じていると言える余地がある。