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哲学いろいろ

もののあはれ

▲ (日野:《物の哀れを知る》の説の来歴) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 人間の価値が確立されていない前近代の社会においては 《人間の真情》がそれ自体で〔* A としての概念をになう〕価値と認められるということは その場その場の一瞬の事実としてあるだけで 理念としてはありえない。
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 ▲ (日野:《物の哀れを知る》の説の来歴) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 宣長が 《物のあわれを知る》心は人間の真情であると主張するにとどまらず その心は《直く雅やかなる神の御国のこころばへ》(『石上私淑言』)であるというところまで遡源させたのは・・・その心に道徳などの公的規範に対抗し得る価値を賦与するためであった。
 人間の価値が確立されていない前近代の社会においては 《人間の真情》がそれ自体で価値と認められるということは その場その場の一瞬の事実としてあるだけで 理念としてはありえない。したがって《物のあわれを知る》心の価値づけを求める宣長が 公的規範の当時最大の根拠である儒教に心強くも対立してくれる神道に傾斜していったのは 確かに運命的必然であったと 一応は言いうる。(前述書 p.533)
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▲ (日野龍夫:《物のあわれを知る》の説の来歴) 〜〜〜〜〜〜
 しかし宣長の理論に混乱がないのは それが一種の同義反復であるからに過ぎない。宣長の言っていることは 要するに 《物のあわれを知る》人々によって構成されている社会では 人々が《物のあわれを知る》ことによって社会は穏やかに平和に治まる ということなのである。
 つまり《物のあわれを知る》心は儒仏の教えに代わるべき人間の生き方の規範であるという宣長の理論が有効であるためには 社会の成員のすべてが《物のあわれを知る》人であるような社会がその前に出来上がっていなければいけない ということになる。・・・
 (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 p.544)
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▲ (日野龍夫:《物の哀れを知る》の説の来歴) 〜〜〜〜〜
 宣長の歌論の特徴的な主張 《歌は 実情を偽り飾って雅やかに詠まねばならない》・・・。
 歌はありのままの気持ちをありのままに詠ずればよいという それなりにもっともな意見に宣長は反対するのであって 単なるありのままではなく 表現の美をも求めなければいけないというその主張もまたそれなりにもっともであるが ことさらに《実情を偽らねばならない》という言い方をする点が特異である。
 前に《江戸時代人の生活意識の隅々にまで浸透している儒仏の影響を払拭し 純粋な〈物のあわれを知る〉心を復活することは 無限に困難なのである》と書いた。右(上)の歌論は この認識に対応するものである。つまり 真に 《物のあわれを知る》ということは 素直にありのままにしていれば達成できるような甘いものではない と宣長は言いたかった。意識下にまで儒仏の影響が浸透している当代人にとって 《物のあわれを知る》ということは 《物のあわれを知る》心を自分の心の中に虚構するということと ほとんど同じなのである。それが《実情を偽る》ということであった。
 (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 解説)
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今の歌は古えの歌のまねをして詠むのであり そういう意味ではいつわりであるというのが宣長の考え方。
 排芦小船第三十六項:

世のうつり変るにしたがうて 常の言葉はなはだ変り きたなくなりゆき 人情もおのづから軽薄になりたる世なれば 詞(ことば)を飾らずして 心のありていをよまむと思へば はなはだ下劣の歌になるべし。・・・されば今の世の歌 十にして七八はみな実情にあらず。偽りなり。みな古人のまねをするなり。詞も今の平生の言語にあらざれば 古への雅言を借り用ゆるなり。いはば古への雅言を借りて今の情(こころ)を詠ずるなれども その情もまつたく今の情にはあらず。そのゆゑは たとへば今心にもつぱら思ふ事も 古へより歌によみ来たらぬ意(こころ)は 異(こと)やうなればよまず。されば意もまた古への意を借ること多し。大方(おほかた)三代集などまでは 大方心も詞もみな自然(じねん)より出でて 古へを借ることなし。その後は多くは心詞ともに古へを擬し借りたるものなり。・・・
 古人の詠みおける歌どもに心をひそめ 起居それに慣れしめば またおのづから情も化して 古人の雅意 心に生じ 自然の風雅もあるやうになるなり。今現に卑俗の人は面白がらぬ月雪も 歌人詩人はなはだ心に愛するやうになり もとは不風雅なる人も 詩歌を心がくれば おのづから花鳥風月に心を慰めもてあそぶ心になる。これまつたく古歌に心を用いて化したる自然の情なり。

(p。220注二)

《歌の本》とは 《歌は実情を詠ずる》ということ。実情を飾らずして詠むのが歌の本来のあり方ではるが 人の心の賤しくなった時代にありのままの情を詠めば かえって歌が賤しくなるし 人間には表現をつくろい飾ろうとする自然の傾向があるのだから むしろその傾向に即して つくろい飾ってでも古人の風雅に学ぶべきであるという考え方。

排芦小船第四二項:
上古は人の心素直にて 偽り飾ることなければ 歌も己れが分量(分際・身分)を出でず。その身の上にて思ふ事をありのままによみ出でしものなり。されば上古の歌は実(まこと)にして天子の歌は天子の身の上の事 公卿百官はそれぞれの公卿百官の身の上の事 民百姓は民百姓の身の上の事をよみて よく分るるなり。しかるに世だんだん末になり 後世になるほど 人の心偽り多く 思ふ事ありのままにもいはず つくろひ飾るやうになりゆくにしたがひて 歌もまた偽り多く 思ふ事のありていにはあらぶやうにだんだんなりゆくにしたがひて 上たる者のよみたるも下たる者のよめるも分かれがたく混じゆくなり。・・・

(p.226注六)

p.458注五

排芦小船第二項:
 思ふ心をよみ表はすが〔歌の〕本然なり。
 その歌のよきやうにとするもまた 歌詠む人の実情なり。・・・

 よき歌を詠まむと思ふ心より 詞(ことば)を選び意(こころ)を設けて飾るゆゑに 実(まこと)を失ふことあるなり。常の言語さへ思ふ通りをありのままには云(い)はぬものなり。いはんや歌は程よく拍子面白く詠まむとするゆゑ わが実(まこと)の心と違(たが)ふことはあるべきなり。
 その違ふところも実情なり。

 そのゆゑは 心には悪心あれども 善心の歌を詠まむと思うて よむ歌は偽りなれども その善心を詠まむと思ふ心に偽りはなきなり。すなはち実情なり。
 たとへば花を見て さのみ面白からねど 歌のならひなれば随分面白く思ふやうに詠む。面白しと云ふは偽りなれど 面白きやうに詠まむと思ふ心は実情なり。

 しかれば歌と云ふものは みな実情より出づるなり。
 よく(上手に)詠まむとするも 実情なり。よく詠まむと思へど よくよめば実情を失ふとて 悪けれど(下手だけれど)ありのままに詠む。これ よく詠まむと思ふ心に違ふて 偽りなり。されども (上手に詠んでは)実情を失ふゆゑにありのままに詠まむと思ふも また実情なり。