caguirofie

哲学いろいろ

さかしらを避けるもののあはれ

《さかしら》は《漢ごころ》ないし《アマテラス規範語の使用による弊害》に限らないと思われます。
 要するにその《理屈を用いるのときの ひとの心に起こる方向性――中立の意味での志向性――》を問題にしているように思うのです。

 まづ《漢ごころ》の説明として:

 ◆ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 (小林秀雄) 漢ごころの根は深い。何にでも分別が先に立つ。理屈が通れば、それで片をつける。それで安心して、具体的な物を、くりかえし見なくなる。そういう心の傾向は、非常に深く隠れているという事が、宣長には言いたかったのです。
 (江藤淳) 文字を操るようになった人間の中に宿命的に生じる認識のねじれといいますか、そういうことでしょうね。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ このような・人間的自然とそして文化(つまり 非自然)との葛藤のような溝とそのねじれでしょうか そこにおける知性優先という問題のほかに そのほかに 人間の素朴な良心ないしそのへそ曲がりといった問題も捉えているのではないか。

 引用です。
 ▲ (排芦小船 第二項) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 思ふ心をよみ表はすが〔歌の〕本然なり。
 その歌のよきやうにとするもまた 歌詠む人の実情なり。・・・

 よき歌を詠まむと思ふ心より 詞(ことば)を選び意(こころ)を設けて飾るゆゑに 実(まこと)を失ふことあるなり。常の言語さへ思ふ通りをありのままには云(い)はぬものなり。いはんや歌は程よく拍子面白く詠まむとするゆゑ わが実(まこと)の心と違(たが)ふことはあるべきなり。
 その違ふところも実情なり。
 そのゆゑは 心には悪心あれども 善心の歌を詠まむと思うて よむ歌は偽りなれども その善心を詠まむと思ふ心に偽りはなきなり。すなはち実情なり。
 たとへば花を見て さのみ面白からねど 歌のならひなれば随分面白く思ふやうに詠む。面白しと云ふは偽りなれど 面白きやうに詠まむと思ふ心は実情なり。

 しかれば歌と云ふものは みな実情より出づるなり。
 よく(上手に)詠まむとするも 実情なり。よく詠まむと思へど よくよめば実情を失ふとて 悪けれど(下手だけれど)ありのままに詠む。これ よく詠まむと思ふ心に違ふて 偽りなり。されども (上手に詠んでは)実情を失ふゆゑにありのままに詠まむと思ふも また実情なり。
 (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 p.458注五)
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜