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哲学いろいろ

Marsilio Ficino

マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino 1433年10月19日 - 1499年10月1日)はイタリア・ルネサンス期の人文主義者、哲学者、神学者メディチ家の保護を受け、プラトンの著作を翻訳した。

マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino 1433年10月19日 - 1499年10月1日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%8E
フィチーノの人間観は次のようなものである。人間の魂は肉体に捕らえられている。人間の肉体と魂の一部(五感など)は動物と共通であるが、理性と知性を持つ点で動物と異なる。理性は五感から受け取った物事を分析、判断し、また想像力を働かせる能力である。また、知性は直接真理、イデアに到達し神の領域に近づく能力である。この意味で、人間は動物と神の中間にあり、様々な葛藤にさいなまれる不安定な存在であるが、理性によって現世で正しいことを行うとともに、知性によって真理と一体化することができる。

・たましい:(1)身体組織としての感性  (2)こころ  (3)霊
・こころ:(1)感覚を意識し 認識すること。また 認識した内容。 
 (2)それらを基体として 自己および他者あるいは世界に相対するときの存在のはたらき。
 (3)さらには たましいが霊としても捉えられるように 肉(つまり精神および身体)をあたかも超えて 伸びるかに思われるところがある。→《信じる》
・信じる・信仰:非経験思考(経験思考に非ず。または 思考とは呼べないのだが非経験の思考。または 表象しえぬものの その代理による表象)。あるいは 絶対とわれとの関係。→《絶対》
絶対:そういう想定である。経験的な相対世界を超えたところと規定し 想定する。
・肉:(1)身体  (2)身体および精神 すなわち 経験的な存在の全体
・精神:こころのこと。特にこころの(2)のはたらきとして 基本的に 記憶・知解・意志の三つの行為能力を捉える。
・・記憶行為:精神の秩序。感性内容を意識し記憶する。その組織・その過程。先験的に 存在じたい もしくは その自然本性じたいの秩序を司ると思われる。
・・知解行為:記憶組織という宝庫から ものごとを捉えて認識し さらにあらたな整合性をもった認識内容につくる。
・・意志:大きく広く 直接的にせよ間接的にせよ 記憶および知解を行為するときに すでに それらを促すように 発動していると思われる。知解行為の結果から 取捨選択し その内容を みづからの意志(おもむくところ)として判断決定する。実行にも及ぶ。 
・三一性:これら 記憶・知解および意志の三能力行為は 経験的・時間的な行為を為し 他者のそれらと 社会的な関係をむすぶ。このとき 時間的な隔たりを持って 三行為は けっきょくのところ 一体性を有すると考えられる。社会形態(一般に国家)にあっては 順番に 司法・立法および行政という役割に それぞれ 相当する。
・三位一体:これは 《絶対》という表象しえぬものを 人間のことばという代理物で 仮りに表象し仮りに表現しようとしたもの。記憶能力が 父なる神。そこから生まれる知解行為が 子なる神。それら両者から発出するかのような意志行為が 聖霊なる神。  絶対の領域では とうぜんながら 三つのものは 一体である。三つのそれぞれの個は全体と 全体は各個と 各個は各個と それぞれ 等しい。無限の半分も三分の一も 無限である。
・霊:絶対のこと。
・イエスはキリストである:霊なる神が 肉(精神および身体)になった。という物語。
人間:このキリスト・イエスつまり かみ=ひと なる存在に似るが それは 霊なる神を分有するというかたちだとされる。《絶対》によって触れられている。または その方向へ 窓が開けられている。それが 《分有する》という意味である。
・人間は神の似像である:三位一体のはなはだ不類似にして類似の三一性をそなえた人間は 神にかたどって 造られたと表現された。一定の社会形態も 三権分立かつ協業というかたちで 一種の三一性を有し 似姿の様相を呈している。