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もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813
性・対関係・相聞 1 ――インタスサノヲイスムについて――
前章で 次のようなことを述べた。
一般スサノヲ市民から成るヤシロの中で みな一人ひとり原形的な《アマテラス(A)‐スサノヲ(S)連関》としての主体である。このことによって 誰もが アマテラス(能力および出世間)の欠如であるやみからの出立というアマテラシテ(能力およびその境涯)の獲得を その自治共同の過程において問い求めている。そのとき このアマテラシテを社会的に特殊な役割と捉え この職務を自ら追い求めるようにしてこれを獲得し これを担うとき S−A連関主体である者が 《もっぱらのアマテラス者》となる。
これは 一般に武力と知恵によって 獲得すると考えられているかも知れないが その武力は 一時的な要因であり 単純なるもっぱらのアマテラス状態である。百年・五百年あるいは数千年続こうとも 一時的な要素である。そうではなく 人間の知恵としての 第一の栄光 あるいは王化の徳といったアマアガリが まず人間的な持続性だと考えられる。しかも――結論を急ぐならば―― われわれは この栄光からさらに第二の栄光へとその道を問い求め模索していた。
このもっぱらのアマテラス主体であることは 一般にあたかも野生としてのスサノヲ主体であることを脱ぎ捨ててのように 徳の衣を着ることによっていると考えられる。人間的に ますます人間的になるとき だれも 人間の能力によって完全な人間になることは出来ないから その自らの徳のおしえるところによって 自らの不徳であることを知ることになる。
一般スサノヲ市民は こんな話は 百も承知である。もともと人間の力だけによってアマアガリすることなど できっこないと 議論の余地なくわかりきっている。だから まわりにこのアマアガリを追い求める人が出ると つまりその人が どうしてももっぱらのアマテラスになりたいというときには かれを敬して遠ざける。ヤシロの仮象形態(似すがた)にでもと・つまり 祠か神棚にでもと まつり上げる。カミさまにしておいてやろうとする。その意味で ヤシロから追い払おうとする。第一の栄光としての知恵である。(第二の栄光としてのそれが待たれる。)
あたかも精神の光に擬されるアマテラシテ能力を持ちこれを発揮し 人びとのためにもっぱらのアマテラスになろうする人に対しては 一般スサノヲは ヤシロの上に もうひとつのヤシロをつくって そこに かれらをまつり上げた。社会にとって 第二階であり これは スーパーヤシロと言う。また これを オホクニヌシの国譲りと言う。
こうして ヤシロのスサノヲ圏に対して スーパーヤシロのアマテラス圏が出来た。また 一般に アマテラス種族というべき社会的な集団としての範疇ができた。
むろんここからは このアマテラス族は 黙っていない。さっそく 一般スサノヲ市民たちに対して 社会的な主導性を奪うかのように――ちなみに 観念の資本=うたの構造は 簡単に奪い得る・つまり真似る・まなぶことが出来るし 互いに取り替えっこすることができる そのように――して むしろかれらのA圏のS圏に対する主導権を主張し いわばアマテラス社会統治行為というちからを養い形成する。
このちからは かれらが ヤシロ(それは いま唐突に言わば カミの似像である)のそのまた似像としてのスーパーヤシロに立脚しようとする限りで いわゆる信仰をその基盤としている。ヤシロが 自然の信仰を基盤とする限りで これを真似る。つまり 信仰を基盤とするというのは 自然もしくは超自然の存在なるカミ(かみがみ)を合い言葉とする または観念の貨幣とするといったほどの意味である。つまりは まつり(祀・祭)のことである。
このA圏主導的にあらためて形成されようとする信仰は S圏のまつりの真似事として まつりごと(政治)と呼ばれるようになるが そして やがては S圏なる第一階とA圏なる第二階からなる二階建てのくにいえ(国家)を築くに至るが おおきく ふたつの類型に分けて捉えられるような形態を採るだろう。
- 《シントイスム‐クリスチア二スム》連関の観点から 次のごとく捉える。このとき クリスチア二スムは 世界の中で 勝義の信仰形態であろう。シントイスムは それぞれあらゆる民族・地域的な自然信仰を言っている。また ブッディスムは 自然宗教ではないが 神仏習合(シントイスム‐ブッディスム連関)として 一般概念としてのシントイスムに含めている。
一つに アジア的な社会体系においては ヤシロが 情感の共同性を基軸としており その社会の第二階も その情感の情況と形態を真似た仮象であろうゆえに 一般に 観念の共同といったかたちを採る。あわれという情感が 一種の観念となり この観念が運河のように 社会の中に張りめぐらされるのである。その意味でうたの構造をかたちづくる。観念の資本である。これらは 情感を土壌としているかぎりで 一般に事実問題として 呪術的・幻想的である。
いま一つに 西欧的な社会体系においては ヤシロが 個人の意識の流れを基軸としていて やはりある意味でその意識と意識との関係・対立過程の仮象形態として 第二階・アマテラストゥームが作られる。この主観の共同は あたかも角をぶつけ合うことを通して 幾何学的にして理論的・法律的である。神学絶対的にもなり(les croisades ) 倫理規範的( scholastique )でもある。またなお 偶像崇拝的( l'idolatrie )もしくは 物神礼拝的( Fetischismus )などである。法の仮象を求め あたかも法の顕現者としての英雄を偶像として立てる。人物でないとすれば 物神は 簡単に 権力や貨幣である。
ここに S圏とA圏との連関から成る社会形態が形成されていく。簡単に ふたつの類型を捉えた。いづれも 大きくは ヤシロとスーパーヤシロの二つのあたかも異なった概念世界から成る一つの社会形態ができあがる。古代市民という類型の時から S−A連関主体としての人間の社会は こうして 国家 ihé national をかたちづくった。
《社会形態》は 国家として 殊に共同観念的な世界を前面に押し出して・または それを一つの社会総枠としての一種のデモクラシとみなして(国民として統一されるなら) A圏主導のA−S連関体制となって現われた。
このとき もしこの国家形態も 《ヒト》としてのS−A連関存在といううたの構造に基づくとするならば そのような基礎にある概念=現実は どこまで行っても無視することのできない重要な要素である。その意味は 《ヤシロ》を・もしくは《ヤシロ(S)‐スーパーヤシロ(A)》の連関を その根底とするものだと考えられる。
これを言いかえれば 《社会形態》は 市民社会=ヤシロを根幹とし 国家形態としては A圏主導のA−S連関制をとると同時に 概念(基礎なる観念の資本)としては ヤシロの普遍性・普遍的な動態過程にもとづくヤシロ(主導S圏)−スーパーヤシロ(A)連関の形式(=内容)を 基本とするであろう。これは・つまり 国家形態としてと 概念としてとの二面の実態は 事実問題として 社会の現実二重性であり また うたの構造としては スサノヲイストの言語二重性である。スサノヲ語(人間語)とアマテラス語(世辞もしくは概念・理論)とから成る。
以上の認識は 次の一点において 古事記の叙述とは違っている。すなわち 古事記では スサノヲのミコトが アマテラスのタカマノハラを追われたと言うのに対して ここでは 逆に スサノヲ圏のヤシロから アマテラス者が 一段上位のスーパーヤシロへと追いやられたとする点である。これは どういうことを意味するか。
われわれは しかし上の基本認識を撤回するべきには至らないとまず主張するのであるが それは 次のような事情を明らかにすることと相即的であろう。
一つには 言われているように 古事記が段階的に少なくとも一度は 別の人の手が加わって 現存の形態へと成立するに至ったであろうということ。もっとはっきりと言いかえれば そのように改ざんされたのであろうということ。もっとも ここでは この事情を証明しようとは思わない。また その証明作業は 難渋をきわめるであろう。そこでわれわれは 次の点において 上の基本認識の妥当性を主張するのがよい。
したがって もう一つには 上の論述の中にも少し触れたように そこでは(――つまり 古事記として シントイスムのうたの構造が明示的に表わされていく過程でということだが そこで――) 端的に考えられることは その観念の資本(つまり うたの構造)が その主観の制作主体を替えて 持たれるに至ったということ。おそらく タカマノハラ(高天の原)(=A圏)が はじめにあったとは思われない。したがって トヨアシハラ(豊葦原)ミヅホ(瑞穂)のくに(=S圏)が当然のことながら はじめにあった。
より精確には ヤシロがはじめにあった。このヤシロに その中核としての現世・此岸世界のほかに 死の世界(ヨモツクニ・ネノカタスクニ)が 人びとによって考えられていた。また 現世の範囲で平面的な彼岸世界としては 海の向こうに アマ(海人)ツクニが 人びとのうたの構造の中に思い浮かべられていた。だから この前提の上に タカマノハラが そのあとに表象されたと思われることである。人間精神のアマテラス能力は 光であり 天上に擬せられる。言いかえれば 平面的な視点によるアマ(海人)ツクニの観念を おそらくなお現世の範囲でのことであろうが 垂直的な視点による彼岸世界として いまアマ(天)ツクニとして成立したものだと捉えられる。だから このアマテラス種族を ヤシロから タカマノハラというスーパーヤシロへと 概念的にも歴史的にも スサノヲたちが――第一の限りある栄光としての知恵として――追い遣ったものだというのが われわれの主張である。
ヤシロの共同自治を このスーパーヤシロをあらたに含めて それとの連関のもとに おこなっていこうというのが はじめの歴史的な実際であったろう。
うたの構造が 社会的に そのように構造的に開かれたのである。情感の交流の道筋が そしてその感覚の滞留としては観念の運河なる道筋が 社会的にかたちづくられていった。つまり単位的には 人間と人間の関係として・つまりもっと基軸としていえば 男と女の一対の関係において あたかも一方の性がスサノヲであり他方のがアマテラスであるというかのように S−Aの連関を成すとき その連関の動態において 過程する情感の共同およびその破綻と修復などなどの形態が あたかも社会形態にも 応用されて かたちを持っていったのだろうか。
- 男と女の関係 もしくは 人間と人間との関係は 基本的に理論においては ひとりの《S−A連関主体》ともうひとりの《S−A連関主体》との平等なる関係から成る。事実問題としては 視線が 必ずしも 水面同位のもとにあるとは限らないようである。どちらかが上にあって はすかいに飛び交うかのようである。この傾斜のもとにある視線関係は S−A連関のかたちである。一般にSが 下位に身を置く。
従ってそこで 初期国家の成立後に――というのは 日本では 象徴的なかたちで 天智−天武−持統のアマテラス政権の形成・発展・推移の過程に求めることができると思うが―― このヤシロ‐スーパーヤシロ連関という社会形態の概念(それは 歴史的な概念である)にのっとって しかも言わばこのとき声の大きいほう(視線の上位のほう)の側の視点に立って A圏主導性およびこれにもとづくA−S連関制として 表明されたことを物語るものであろう。
従って 歴史記録としては このA−S連関制という社会形態(つまり国家だが)の始まる時点から 歴史が始まるのだと 記されたことになる。その始まりから更にさかのぼっての起点が 歴史の最初の最初だと考えられた。この最初の最初の起点に タカマノハラが あてはめられたはずである。したがって 実際には あとで出来たのであっても 歴史の由緒書きとしては 原初に置かれたはずである。この事情にかんがみて われわれの持論をなお主張する。
もっとも このように言っても 古事記が アマテラス世界からスサノヲの神逐らい逐られた時点の以前の世界を語っていないというのではない。その時点が 逆の言い方では スサノヲたちが もっぱらのアマテラス種族を スーパーヤシロに追いやったとき(オホクニヌシの国譲り)であるが それ以前の昔を語っていないのではない。それは 重要な一つの軸としては 祖先イザナミ・イザナキの歴史の始まりの世界での出来事である。そしてそれは ただし A−S連関制ができあがった時点の以後に その独自の視点に立って すべてが 解釈され解釈しなおされ 古事記のシントイスムとなって表わされたであろうと仮説される。歴史の読み替えは つねにありえたことである。
従って以上のことから われわれは 次の課題として はじめのヤシロのかたちを この古事記(あるいは 万葉集等)の中から 拾い出さなければならない。それは A−S連関形態の成立以前のイザナキ・イザナミの現形的な市民・対関係・相聞の世界である。 もしくは 古代市民的な社会形態の成立以後 その中にあってなお 前古代市民的な(しかもそれは 古代市民‐前古代市民のあたかも連関の過程におけるような前古代市民的な)要素を かつ現代市民的な視点に立って 掘り起こし(――なぜなら 現代市民の中にも 古代市民的な要素はもとより 前古代市民的なそれも 存続しているであろう――) これの評価また理念としてのいわば序列をしつつ うたの構造を再確立し継承していかなければならないだろう。これが われわれのヤシロロジの方法実践的な第一の課題となるものである。
そこで われわれは言う。このヤシロの掘り起こしと原形的なS−A連関存在の再確認とそれらの継承は 市民としての性・対関係・相聞を その焦点とするだろうと。自然と社会そしてその社会の中の近代市民意識的な人工的連関(たとえば 貨幣を媒介とする交通 貨幣の貨幣(金融)を生んだ社会的制度としてのうたの構造 等々)は この性関係・市民相互の相聞の世界を――やはり うたの構造として――その基軸とするであろうからである。
- 相聞としてのおつきあい この交通は 信頼関係であり 信用であり 貸し借りの関係でもあり そこから 容易に 貨幣・金融のうたが制度としてかたちづくられていったと考えられる。
すべてが 性関係に還元されるというわけではない。市民どうしの相聞において うたの構造の基本的な原理が――鏡をとおすようにして――明らかになるであろうというにすぎない。すなわち 生産の現場における相聞(=二角協働関係) 金融制度をとおしての市民の生産行為の相聞 あるいは株式関係をとおしてのそれら もしくは 株式をとおさないかたちでの市民のうたの興り等々 これらインタスサノヲイスムは 原理的には 対の関係なる相聞歌に現われて見られるであろうと考える。
これが この小論の前提であり 課題への出発点である。この出発点は とうぜんのごとく 動態であり その過程が 問い求めの場であり 時間経験的な答えの内容でもある。
(つづく→2006-09-04 - caguirofie060904)
- 安倍晋三氏周辺の思われる稲田朋美議員ほかの《愛国心》論争には それに抗して上の議論をわたしとしては 主張したい。
- 国を愛す・あるいはその心と言っても スサノヲ語(人間語)とアマテラス語とがある。アマテラス語は スサノヲ語という土壌の上に見出され持たれたものならば いわゆる普通の概念あるいは理論のことであるが そうではなく 社会の第二階(もしくは 雲の上?)のアマテラス圏に足を置き同じことだがそこに立脚しそこから繰り出すアマテラス語は まぼろしのようなことばである。スサノヲ語なる蝉の抜け殻のようなことばである。もっぱらのアマテラス族にとっては 自らが生き延びるために中味のある人間語だというものかも知れない。