caguirofie

哲学いろいろ

#16

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

《シントイスム‐クリスチア二スム》連関(神神習合)について――梅原古代学の方法への批判――(その一)

神神習合の うしろの《神》は クリスチア二スムの神学のことである。前の《神》は 神仏習合=《シントイスム‐ブッディスム》連関の総体としてのヤシロロジを意味する。クリスチア二スム神学(テオロジ / cultus kamii 〔カミの礼拝〕)は ヤシロの奥なる存在を見まつるカミの言葉に近い。シントイスム‐ブッディスムによる市民社会学は ヤシロのかたちを省察するものである。
われわれは ポール・ヴァレリの方法への序説・その補論のなかで この神神習合について触れ しかしながら このことの内実を解き明かすことには さして意味は見出されないであろうと論じた。ここでは これに反して それを試みるというのではなく おおまかに シントイスム‐クリスチア二スムの連関と呼ばれうるであろう一つの視座を用意して これによって 現代における具体的な議論を捉える。そのようにして論じることによって 間接理論的に われわれの方法をゆたかなものにしていこうという寸法である。
現代における何何主義とか何理論であるとか その一つひとつを詳しく取り上げることはしないが 一つには ヨーロッパとアジアとのそれぞれの思惟・内省=行為の形式を 理論的(観想的)に扱い得ればと願う。またそれは 日本においては 《シントイスム‐クリスチア二スム》連関といった存在形式の問題として現われているものであろうと見る。 
あるいはヨーロッパにおいては 各社会形態に固有の民族宗教自然宗教(その残存・潜在的な存続)を 一般的に《 shintoïsme 》と規定するとすれば いまこの《神神習合》とよぶ形態は そのまま ヨーロッパの問題ともなるであろうとの見透しすら持ちうるのではないかと。
さらに繰り返しになるが 現代の世界において広く一般的に この《shintoïsme - christianisme 》連関は 各地平(社会形態)に固有の伝統に沿って 類型的に同じかたちで 共有されうるであろうと 結論としては考えられる。
はじめに このように言うものではないが こうしていまここに提出する一つの視座を一つのカトリシスムとして主張することは――そしてそれはむろん 表現の自由という大前提のもとに立つ限りのことであって 国家(社会形態)としての政治行為の上でそうすることからは自由でなければならないが―― むしろ各民族・その地平・社会の多様性を具体化させることはあっても 一様なる宗教=政治的な共同体の共同へと導かれることにはならないと申し述べておくべきかと思われる。世界における各国のA圏の覆いを集合・連合させるような共同体の共同には導かれることはないであろう。
それは 簡潔に述べれば その視座じたいの直接の明示を控えることによって それを世界的な観念の貨幣とすることから はじめに 自由であるとすること。ここに立脚することができる。それでは 本論に入ろう。

  • 信仰の議論は つねに カミの言葉そのものではなく その中味の翻訳によっているという言い方もできる。かみという言葉じたいが かみという存在(あるいは 非存在・空)の代理表現でしかない。かみの直接の表象は 人間にとって 無理である。表象が無理であるものを そしてそれのみを かみと呼ぶ。このヤシロの第一原理に立脚することができる。


現代市民にとって あの時間の連続性の起源(西暦という一つのかたち)となったひとりのユダヤ人 ナザレのイエスその人のことは 避けて通れない問題である。
このイエスが クリストスなる存在であるというヤシロロジの原理的な思想は その省察を避けることが出来ない。また 各地平・各民族の一員として われわれ現代市民は このクリスチア二スムというカトリシスム以前の時間(時代)における自然宗教とそれにもとづく原形的な市民社会学のそれぞれを等閑に付することも難しい。自然宗教を土壌として展開されたと考えられる自然生成的な――つまり ここでは特に 前古代市民的な――生活習慣としての思想から古代市民の社会学への移行 そこに形成された原型的なヤシロロジ――いまここでは 神仏習合の思想である――を看過することは出来ない。
shintoïsme と称する原形的な(あるいは 先行的な)ヤシロロジは 各地平それぞれにおいて どうしようもなく現実的な日常生活のエートス(慣習)・共同観念として わたしたちの間に存在している。他方 クリスチア二スムのほうは むしろ極めて大雑把に言って 古代市民古典のカトリシスムが近代市民古典のプロテスタンティスムとして転回されることによって だから と粗雑に推断するのであるが  キャピタリスムとなった これが 世界史的な交通となって・だからわれわれの存在形式のともあれやはり生活日常つまりそのエートスとなって存在することによる。
この内実をさらに敷衍して 直ちに言えることは 次の理論的な省察であろう。すなわち 近代市民プロテスタント・キャピタリスムは 旧い―― 一般に旧い――共同観念を主導して ヤシロのかたちを再編成する共同主観であるとみづからを宣言したと同時に 一般に各地平のナシオナリスムという共同観念と連携することにおいて その意味でのいま一つ別の共同観念ともなっている。たとえばスサノヲ圏のスサノヲ市民であったキャピタリストたちは アマテラス圏にアマアガリして そのA圏を主導することになったが 現代の世界関係は そのようなやはりA圏主導のA−S連関体制という共同観念どうしの国際関係としてあるのが 現実である。
また 他方において 各地平における前古代市民の段階からの歴史を通じての共同観念・その原形的なヤシロロジは 一面でこれが社会形態(ヤシロ‐スーパーヤシロ連関なる国家)を形成してナシオナリスムとしての共同観念そのものを表わすと見られるのに対して 他面では その基礎階としてのヤシロじたいの内実においては むしろ第二階であるスーパーヤシロとの連関とその過程その動態を見守る一つの共同主観(たとえば デモクラシ=ヤシロイスム)となって いまなお現実である。
簡単に言って 共同観念としてのシントイスムにも 共同主観は宿っているであろうし また共同主観としてのプロテスタント・クリスチア二スムまたは近代市民キャピタリスムにも 共同観念の部分が付着しているであろうと捉えられる。
さらに分析を続けるならば。シントイスムは 前古代市民のインタムライスムから古代市民ナシオナリスムへの移行を見守る立ち場にあるとするならば 近代市民キャピタリスムは 共同観念とその現実から それが浮き上がったものとはならないという限りで このナシオナリスムとつながってあるだろう。もしこのキャピタリスムの形成した近代市民のデモクラシなる社会組織が ナシオナリスムとつながってあるとするなら デモクラシ本来の原理は むしろそれぞれのシントイスムの原形的なインタムライスムなるS圏組織形態のほうにこそ見出されるように考えられる。ここで 次のような図解が得られる。

  • スサノヲシャフト(S圏)なるヤシロが 歴史のかまどであると考えられる。クリスチア二スムも キャピタリスムも そうであったが(つまり そのかまどから出たが) アマテラストゥーム(A圏)にアマアガリしたあとでは 共同観念・ナシオナリスムと手を組んだ。だから デモクラシは デモス=スサノヲ市民のヤシロに見出されるべきであろう。
  • また キャピタリスムは 知解=生産の行為の原理であって 記憶=組織行為は むしろ別のデモクラシなる原理にあると考えられる。二つの行為を結ぶのは 愛=経営(政治=共同自治)の行為である。このほう(愛)の原理は 目に見えない。
共同主観 共同観念
sensus communis / intersusanowoïsme ihéïsme / muraïsme / nationalisme
知解=生産行為 capitalisme capitalisme ihéiste / muraïste / nationaliste
記憶=組織行為 démocratie yasiroïste démocratie superyasiroïste
愛=経営(政治)行為 intersusanowoïsme としてのinterihéisme / intermuraïsme / internationalisme ihéisme / muraïsme / nationalisme の中のintersusanowoïsme

ここで 西欧近代市民のプロテスタンティスムも そして日本の近代市民シントイスムも それぞれ その共同観念の情況の中から ここに掲げた共同主観を持ったであろうと思われる。後者はきわめて抽象例示的に 前者はより具体的に明示的に。言いかえれば ナシオナリスト・プロテスタンティスムは そしてナシオナリスト・シントイスムは 同じようにそれぞれ 《ヤシロ‐スーパーヤシロ》連関から成るその社会形態を 土壌として この表の全体的な構造を形成したであろうと考えられる。
またこの図解の構造それじたいは いま一般にヤシロの 神学としてはクリスチア二スム(カトリック)を 政治哲学としてはシントイスム(古事記万葉集の古典的)を それぞれ取り出して考えられるところの《クリスチア二スム‐シントイスム》連関という視座によって得られると考えるのである。
いまもちろん おおまかに言って捉えるべきことは シントイスムにも 《ヒトコトヌシ(光源)‐オホタタネコ(光耀)‐オホモノヌシ(明るさ・暖かかさ)》の三位一体なるカミの神学があり またクリスチア二スムにも 《カミのものはカミへ〔だから これはむしろ S圏を問題としている〕 アマテラスのものはアマテラスへ》というS‐A連関なる社会形態の哲学があるということであろうし 片やヨーロッパの《クリスチア二スム‐シントイスム》連関には 一方でクリスチア二スムへと導かれるべき古典古代ギリシャ・ローマの哲学・法学思想があり 他方でシントイスムとしては ヘレニスム・ラテニスムあるいはゲルマニスムさらにはケルト文化の各自然宗教民族宗教の形態が挙げられなければならず 片やアジアにおいては 中国の《タオイスム(道教)‐コンフュシア二スム(儒教)》連関というそれ およびインドにおける《ヒンドゥイスム(インド教)‐ブッディスム》連関というそれ あるいは中国におけるブッディスムの受容によるコンフュシア二スムとの連関(ないし非連関) また日本における一面でタオイスム・ヒンドゥイスムとの通底性と他面でコンフュシア二スム・ブッディスムの受容というこれら両面のシントイスムのふくらみというそれ そして全体として 《クリスチア二スム‐シントイスム》連関以前の一種《ひかり‐やみ》連関の情況も 重ねて触れられ 詳しく論じられねばならないであろう。
だがこれらは いまそこまで立ち至ることを措くとしなければならない。はじめのおおまかな仮説の前提にのっとって 話をつづけることしかわたしには出来ない。
(つづく→2006-08-30 - caguirofie060830)