caguirofie

哲学いろいろ

#27

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§3 バルカン放浪 ** ――または 家族論―― (27)

テオドリックのばあい その三角関係ないし 直接契機としての平面二角の種関係は ――その愛欲が いまだ 事実として 複岸性のままであったことは すでに述べたが このことと 両立しえてのように―― その欲するところの相手として 《馬が合わない》つまり《種が異なる》者を求めるような種関係(だから 類関係)であったと ここで 述べることができるように思う。また そのことが かれの 種族共同体の外に対する種関係において かれは 空位期間の中にあったということの意味である
彷徨は 現実に対する超現実の 超現実的つまり幻想共同的な支配への 抵抗または戦いに属している。平たく言えば 馬が合わない異人種に対して 種関係を形成しようとしないような無関心でいることが できなかった。おせっかいであったとも言えるし また これが 能力によって出来ないのであるなら 第二局面つまり自由な問題展開の場つまり現実に ほかならなかったとも 見ることができる。ようだ。
なぜ そうなのか。
それは 愛欲の主体つまり人間存在の本質――孤独の核としての孤独――には 性は 存在しないからである。平面二角の種関係は 性関係をともなう結婚(つまり家族三角関係)の内と外とで 問答過程的であって 現実的であるからである。ただし テオドリックは このために 事業論として 皇帝一元論を 武器とした。経験現実的にのみ武器としたのかどうかが 問題であるが ここでは そこまでは問わないでおくことにしよう。

  • それは その点は 第三者が触れるべき事柄ではないように思われる。

しかし 若きゴート王・テオドリックの一つの像は ここで われわれの前にあることになる。この人間の像は あの場の主体として われわれにも 普遍的であるように考えられる。

  • これを 神の似像と言うことになるであろうが われわれは ここでは 神を問わない。

また この像をとおして われわれは テオドリックと 歴史的な連続性の上に立ち この同じ連続性を見ることによって かれの時代は われわれにとって 過去であり したがって 非連続であると言い進みうると思うのである。第二の局面は 連続している。
こういうことである。何でもないことだが 種としての平面・二角関係には 《種が同じ〔関係〕》と《種が異なる〔関係〕》とが 存在すると指摘できる。《種が異なる》どうしの二角関係は 異なる二種の平面の交錯関係となるであろう。もっと くだいて言えば たとえば
(1) / (2) 《好きだから 愛する / 愛さない》
(3) / (4) 《嫌いだから 愛さない / 愛する》
の例 あるいは
(1) / (2) 《好かれたから 好く / 嫌う》(ただし愛する・愛さないは 別)
(3) / (4) 《嫌われたから 嫌う / 好く》(同上)
の例など さまざまな種関係が あると考えられる。愛欲の形式・形成態としての二角関係は 《馬が合う / 合わない》を一つの基調として 上のようないくつかの組合せ(平面と平面との交錯)が 過程されているであろう。
場もしくは 場の主体(主体性)は いづれにおいても 孤独=人格として 同一にとどまるものと思われる。第二の局面たる場では いづれの形式をとろうとも 孤独は 孤立ではないようになっているであろう。《徳は弧ならず。必ず隣り有り》というわけである。ただし 徳(ないし規矩・規範)が先行するのではなく 場の認識・場を過程として自己が推進していく・そのような第二の自由な場に自己が還帰している・そのような第二の愛欲ないしその二角関係からの家族類関係への進展が その当の種関係に 徳なら徳を見させているからである。
テオドリックの内的な基軸としての愛欲が 基本的には 《種が異なる》相手へと向かったということは その卑近なそして一つの象徴的な例は かれの父と母の種関係に 見出すことができるように思われる。父テウデミルと母エレリエヴァとの種関係として 特徴的な事実は 信仰の面において テウデミル〔および一般にゴートの種族〕が 前々から宣教を受けて保っていたアリウス派キリスト教を奉じていたのに対し 母エレリエヴァは かのじょ一人だけ アタナシウス派つまり正統派カトリシスムを 生涯にわたって保ったという事柄を 挙げることができる。
テオドリック自身は 繰り返しになるが 生涯にわたって むしろ熱心なアリウス派の徒であった。そして かと言って 後にイタリアのゴート帝国において かれ自身 カトリシスムを排斥しなかった。また 必ずしもカトリックの信徒を迫害しなかったと言われている。
この事実において ここで言う《種の相違》と見られる点は 具体的に思想的に どういうものであるのか それは ここで必ずしも重要視しないことにする。アリウス派アタナシウス派との相違 もしくは テウデミルが前者を奉じたその様式と エレリエヴァが後者を奉じたその様式と それぞれ互いに いかに異なっていたか こう問う場合 両派とも 同じキリスト教思想である・つまり《文明》に属する・つまりすでに第二の局面にあるということにおいて 大きくは かれら両者の二角関係が 伴に たとえば愛欲の一元性に傾いていたことは 確かであり エレリエヴァのほうは しかも ただ人間として・言いかえれば種としてだけではなく 神としてのキリスト・イエスの出現を信じるという点において その一元性(これは 資本としては 多元論であるように思われる)を志向していたというほどのことであったのであり それ以上 ここでは その相違を論じようとは思わない。

  • 一元性を志向していたというそのことの意味することじたいは 重要であると思われる。また その重要性は じっさい アタナシウスの 三位一体なる神の理論がおしえているものである。また このように相違していたその・種の相違じたいが テオドリックの種関係にとって 重要なのであると思われる。このような視点と視野を ここでは 取りたいと思う。

この意味での《種の相違》にかぎって論じれば・いくらか概念づけようと思えば 次のようになるであろう。
(つづく→2006-06-02 - caguirofie060602)