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哲学いろいろ

#26 

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§3 バルカン放浪 ** ――または 家族論―― (26)

テオドリックは マケドニアの地にあって 互いに共同してゴート種族を率いながら 憂鬱でも 爽快でも なかった。逆に言って ゴート種族の内にあっては 孤独が孤独でない爽快さを味わい その外に向けては 孤独が孤独である憂鬱さを持った。
ここでは その外に向けての働きかけは まだ措いておいて その内なる世界を 特に かれの《家族関係》をとおして見ようとするものであることは すでに述べたとおりである。
そこで次には この家族関係を つまりその単位としての三角関係を さらに具体的に 平面的な《種として》の孤独関係(上位の一辺を構成する対の関係という二角関係)と 垂直的な《類として》の孤独関係(上位の両角と 底なる第三角としての子との それぞれの二角関係 ないし 全体的な三角関係)とというふうに 分けて見てみよう。
親と子との関係は 垂直的であり 歴史的に類(人類)を形成する基因である。また 両親と子との三角関係は 人にとって 最小限の《類》的な社会であると思われる。この家族社会という小類に対して 同世代の・平面的な二角関係は その《種》的な交じわりを 構成するであろう。また 父親と母親との二角関係は 第三角たる子を誕生させる《種子》でもある。ちなみに もちろん 生物全体から見れば 人類という類も 一つの種である。
《現実》世界の基地とも言うべき《家族関係》が――特には その中の平面的な対(つい)の関係が―― 《超現実》の世界をつくりだすとは どういうことを言うのか。さらに この超現実の世界をとおして 愛欲(事業への意志を含めよ)が 複岸を持つ ないし 一元的である とは いかなる意味をもつものなのか。
われわれは まず 平面的な二角(殊に 両性から成る)の愛欲関係が 種として 孤独(また非孤独)関係であるとすでに規定した点から 始めよう。
われわれは 一方で 人種という言葉をもつなら 他方で 人類という言葉を持っている。《人類》が 平面的および垂直的な人間の関係すなわち 人間の目から見た世界の歴史そのものであることは 論を俟たない。そして 《人種》とは これもまた 人類を 主として皮膚の色などによって分けた生物学的な分類の概念であることも 言うまでもない。
ちなみに 言語の相違によって分けた人類の分類が 民族であることも 一般的な定義なのであるが 当然のことながら 《民族》が同じであるなら 一般に 人種も同じくする。もちろん 異なった複数の人種から 一民族が成ることも 現実である。
そして この最後の現実という観点からは 《人種》は そのきわめて初めの基本要因を取り出し 設定しようと思うなら それは 愛欲の平面的な二角関係が になっていると考えられなくはない。潜在的にしろ顕在的にしろ 愛欲の二角関係――さらには 事業のパートナーシップを含めよ――は この 種としての孤独関係つまり人間関係である。ここにわれわれの言う《人種》が 存在すると仮定して話をすすめてみたい。
つまり そのとき――このような概念設定のもとにおいて―― 垂直的な第三角を〔あらたに生んで これを〕入れて つくるところの三角関係は 類としての人間関係だとなる。なぜなら この《第三角》のあらたな介在は すでに 《時間》の問題であるから。
労働――つまり一般に事業――の二角関係においても これが 種としての孤独関係となって はじめの一定の資本(元本)にとって あらたな第三角たる一般に《利潤(資本という価値の剰余)》を生み これは 《時間》の・もしくは《現実》の 問題展開にほかならないから。人種 および 人類を このような最小単位としての人間の関係に見て 議論をすすめようと思う。

  • もちろん これは 議論のための概念設定であるから 人種および人類は ここでは 机上の問題である。

種としての孤独関係は はじめに 平面的ないし地理的な条件によって 制約されていると言うことができる。通信・交通の手段の発達によって この地理的な条件は もはや何ら制約条件ではないというときも 平面的ないし同世代的または同時代的という条件は 人びとを制約している。両性の愛欲の孤独関係つまり夫婦のばあいは 地理的な条件も 制約的である。この地理的という物理的・幾何学的な制約条件 および 一般に平面的という制約条件は その限りで 《現実》の一部である。これを 《超現実》――そのような空想――によって 解決するとか 超えるとかいうことは ありえない。
種としての孤独関係は まず素朴に このような現実が ――その超現実を――規定している。超現実としての種的な二角関係は なおかつ この上で生じるのである。
超現実が このようになおかつ まさにその言葉の意味するように そのような現実の制約を超えて 現実における《種関係》の互いに異なるもの そのような相手=第二角 を自己のパートナーとして欲するとするなら このような〔非〕孤独関係は まず 《相い異なる二種の平面の交錯関係》を欲することである。この超現実は 正当にも ありうる。
ここで われわれは 先に 同じ民族(これは 国家の視点とかんれんがある)・同じ皮膚の色をした人びと(つまり人種)のあいだにも これまでは主張されていないような新しい意味でも 《人種(平面二角関係)》つまりその相違が 存在し得るのではないかと述べていた点に 注目すべきである。家族論は――だから 事業論も―― ここから 出発すべきであり 実際に そう出発しているはずである。そのとき その人種関係論(ないし実践)が 現実社会の基地であり社会現実そのものであるかどうか つまり それが 人類(人類関係)を形成しえているかどうかが 議論の焦点である。
そして これは 不断におこなっていくのである。むしろ この議論は あの《場》として 普遍的であり 実際の生活の場の そこここにおいて つまり どこででも 井戸端会議として おこなわれているものである。種的な平面二角関係および類的な垂直三角関係 としての家族論――だから 事業論――は その骨格が このようである。
事業論の骨格は 二角協働関係とその第三角の再生産として 同じものであるが それが モノとしての資本の概念(カテゴリ)におけるものである限りで むしろ 家族論(それは 孤独という人間の存在が 基体である)の一つの従属領域であると言ったほうがよいかも知れない。これは 問題提起としてであり それとしては ここまで言うことができると思う。
超現実が 地理的に言って 自己の属する現実の中で 種としての性関係つまり家族関係を望むのではなく 遠く異国の一般に異種の現実の中にいる誰それを欲するというばあい それが ただ音にのみ聞く相手であったとするなら それは 超現実が 自身ひとつの基地を作らないただの超現実であって ここには 時間(時間的な第三角)のないままに終わってしまうのであるが ここで 同じく地理的に異なっていようがいまいが そしていわゆる人種・民族的にもどうであろうが まず一つの現実の中に ちがった意味での異種(異人種)が存在すると 仮定したら どうなるであろうか。このことは まんざら 突飛でも非理論的でもないように思われる。
卑近な例で言えば 一般に 《性格が合わない〔という異種関係〕》というような場合が それである。このことを 基本的に われわれの言葉で 《種が ちがう》というようになるというふうにである。もっと卑近な議論としては 経験的な事例として 一般にわれわれは 《馬が合う》相手を――種的な平面二角関係として――求めると言われるのだが 必ずしも そうとは限らないで 中には 《馬が合わない》相手を 希望する例が 意外と 多いものである。そして これを 《種がちがう〔相手を望む〕》という理論として 確立させたいと思う。これは 時間の――労働の・現実の――問題展開であると考える。
そうでなければ われわれの超現実は いとも簡単に つねに 現実の制約条件によって――つまり 制約条件でない部分の現実によって―― 完全に抑えつけられると言わなければならない。実際には――実際にも―― そうである。ただし そのときの超現実の 質とか方向性が 問題である。このことは すでに前提的な議論の中で 触れた。
超現実は 現実に対して つねに《奴》の立ち場を取りつづけるわけでは 決して なく――つまり 現実が 大きく そのように過程することが 現実であり―― 時に《主人》となる場合さえ なくてはならぬとも考えられるのだが これは 両者の《問答(問答過程)》であったことであり 言うまでもなく 愛欲の地下水の正当な一元性および複岸性のことであると思われる。
超現実の 閉鎖内攻的な固定を すでに退けていたとするなら 今度は われわれの現実は 過程的に 超現実の動きも 見逃さない。これは 種的な平面関係が そのものにおいて――つまり今度は 時間的な遅延性を すでにこの初めの時点で 潜在的なものとして―― 類的な垂直関係を 取り入れていることである。
ここで 超現実(対なる幻想)は その場を失うか 現実の中に摂取されてある。両者の相克過程は この《馬が合う・合わない》の異人種のあいだの関係(その展開 だから その成立・不成立)に このような意味でかかわっている。これは 《問答》である。井戸端会議であってよく この井戸端会議が 社会現実の根幹を形成していると言ってよい。
テオドリックの場合・・・
(つづく→2006-06-01 - caguirofie060601)