caguirofie

哲学いろいろ

taunton, uk

【Q:フランス語和訳】

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9235777.html

TITRE: D'autres livres sont sous la clef

Rien d'innocent dans les journaux, les livres, les albums qu'on laisse en évidence
sur la table basse, au milieu du salon.
Faut-il surprendre, ou jouer ton sur ton ?
Tout dépend bien sûr des visiteurs potentiels.
Aux amis proches, à la famille, on se contentera d'épargner le journal de télévision
avec une présentatrice en couverture, les mots croisés découpés dans Paris-Normandie;
il s'agira plutôt d'un rangement, même s'il n'est pas indifférent d'abandonner en
évidence le dernier Géo spécial Bruges, le pavé imposant sur l'art de vivre à Rome,
dont le format presque carré, la couverture brun et crème viendront à point infuser
l'Italie au creux des tasses de café.
Mais c'est pour tous les autres, les amis plus lointains, les quasi inconnus, que
l'on distille, qu'on soupèse.
Car l'équilibre est homéo-pathique.
Quelle image de soi faut-il donner sur la table basse ?

Tastenkasten 2016/04/08

「蒸留され、重さを量られる」というところなのですが、
これは、「分別され、評価される」と意訳した方がいいんでしょうか。
意味としてはそういうことを言っているのだとは思うのですが。
つまり、散らかっている本を見た他人を、その反応によって評価するということではないかと。
しかし、「平衡はホメオパティックだから」という文のつながりがよくわかりません。

bragelone

まさに 《 que l'on distille, qu'on soupèse. 》のふたつの動詞がしっくり来ません。
《 soupeser 》には 確かに《重さを計る》から《人の品定めをする》といった意味が派生し
ているようです。
▲  http://www.cnrtl.fr/definition/soupeser
B. − Au fig. Considérer avec attention pour estimer à sa juste valeur.

《 distiller 》は どうなんでしょう。
《蒸留水を取り出すようにその人の特徴を分析して》 《その品格などを計る》につなげて
いるのでしょうか?


分かりにくい文章ですよね。
こういう場合は 間違ってもいいから意訳するしかないでしょうか。


● 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
表題:もっとあぶないわが蔵書は若干 抽斗の奥に


わたしの好きな本・雑誌・アルバムは あぶないものばかりだ。
しかも 応接間の真ん中に置いたコーヒー・テーブルの上にこれ見よがしに散らかしてある。
そのまま ひとの意表をつくかたちにしておくべきか?
それとも 驚かすにも順序があって少しは秩序立てておくべきか?


まぁ もっとも来客いかんによる。
家族や親友には おどろく順序への気遣いは要らない。
女子アナが表紙をかざったテレビ雑誌もパリ-ノルマンディ紙から切り取ったクロスワード
パズルも並べて置かずとも だいじょうぶであろう。


そして確かにひとを出し抜くにも問題は 整序立ったかたちが必要だということにある。


気の置けない人たちにしても たとえばブリュージュを特集した《ジェオ》誌の最新号を置
いておくとかすれば テーブルにお似合いであろう。
あるいはつまり ローマの生活様式に関する分厚い本が置いてあれば その全体がほぼ正方
形のかたちをしていて表紙が茶色とクリーム色をしているのでまさにコーヒー・カップの窪
みにイタリアン・コーヒーを注ぐに持って来いとなるかも知れない。
そういった気配りが どうでもよいとは われながら 思っていない。親しい人たちに対し
ても そこまでのことは考える。


だから ひとを驚かすにも 整序が必要である。
しかも そのことは じつは そのほかの人たちのためだということになる。
面識のうすい人やまだどこかよそよそしい友人たち。
つまり その人たちのためにこそ わたしのはかりごとはあって あたかもコーヒーをふた
たび蒸留するかのごとくその人たちを分析しコーヒー豆を計りで計るかのように人となりを
定めようとするのだ。


というのも つり合いというものが大事で それをものごとの整序によってかたちづくって
おいたごとく わがひそかな楽しみとしての病いも わが来客の人たちと・そうとしたら同
じたぐいのものであるとなるかも分からない。


さて コーヒー・テーブルには どんな顔と表情を前もってつくっておくとよいであろうか。
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