caguirofie

哲学いろいろ

わたしの受けたいじめ(4)〔 μ‐1〕

一度だけ その人( μ さん)のまごころを見たと思った。


自信はなかった。ボーイフレンドとしてやっていけるとは思えなかった。その一度の体験の前にも後にも かのじょの態度・振る舞いに こころが通い合ったと思えることがなかった。


その一度の感覚に希望を託したわけである。何の進展もなかったが ひょんなことから口を聞くようになったし 校内で二人はつきあっているという噂が流れても そのままにしていた。

当時わが高校は 男女交際が ふつうとは見られていなかった。おもてだってはなのだが おおっぴらにする者は 不純異性交遊との定評が立てられる。


その結果は 男が嫌われるのが習わしであり わたしは 皆のいやがる保健委員につけられた。この点も わたしは まったく鈍感で 卒業後に気づくことになる。


一度のまごころの感覚に希望を託していたようである。何の進展もないのに 校内の噂に抗議もしなかった。かんたんに言えば かのじょは 二股・三股あるいは五十股をかける女であるようだと わたしは感づいていた。


すでに大学も卒業したあと――おどろくなかれ まだ続いていたのである―― もう一度そのこころをかのじょが示したと思ったことがあった。これは もはや結着をつけねばならぬと――あさはかだったか―― わたしは結婚を申し込んだ。


否だった。しかも これからも自由に遊びに来てくださいとの言葉が添えられていた。


振り出しに戻ったなどというどころではない。これは いじめだと感じた。じっさい この言葉は のちのちまで 引きずったことはまちがいない。


こんなものなのだろうか。恥づかしくも これは わが人生最大のいじめられ体験である。


いろんな事態がからんでいて 一概に断言できないところだが とりあえず上のようなお話。

問題は わたしにないのだから ほうっといた。
わたしにあるのなら 指摘すればいい。
それだけのことだと思っているわたしは 人びととちがっているだろうか。
もっと言えば かれらは まだ人間になっていないのだと考える。人間に一旦なったけれども 放棄してしまった人たちだと考えられる。