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哲学いろいろ

《われ》は他者である( Rimbaud )

《われ》は他者である  

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 ロマン派の思想が正しく理解されることは全くなかった。これまでの評価は 誰が下したというのか。《批評家》か。《ロマン派の連中》だって? 歌というものはごく稀れにしか一つの完成作品ではないということを すなわち歌い手によって歌われ了解されている思想を現わすものではないといういうことを あれほど巧みに証明してみせている彼らをそう呼ぶなんで とんでもないことだ。


 つまり 《われ》とは他者なのだ。金管楽器がある日目覚めるとその吹き手になっていたとしても それはそれ自体の責任ではないのだ。つまり次のことが僕にとって明白なことなのだ。《われ》というものは 己れの思想の開花に立ち合い それを眺め それを聴いているということだ。僕が すなわちこの場合 《僕の中の〈われ〉が》という意味であるが 僕がタクトを一振りすれば 協和音が深奥において その感動を起こすということ ないしポンと一跳ねしたように舞台の上に現われるということなのだ。
 

 もし古代人が間抜けで この《われ(ル・モワ)》について歪んだ意義しか認めなかったとすれば 僕たちは 幾百万もの骸骨にも似た輩どもを一掃してしまう必要などはない。つまり僕たちは 考えられないほど昔から その片目しか持ち合わせていないような叡智の産物を 自ら その創造者であると叫びながら拾い集めたらしいこの幾百万もの骸骨にも似た輩どもがいるが 彼らを一掃してしまう必要などはない。が事実はそうではないのだ。


 古代ギリシ人たちの間では 僕は すでに言ったことがあるが 韻律詩と七絃琴が その《行動》に律動を与えていたのだ。なのに それ以降 〔あのミューズの女神たちの吹き込む息吹きを僕たちの精神が享け その詩想から成るという〕音楽も詩歌も 遊戯や むしろ行動の結果である疲れを癒やすものとなってしまった。

 
 この古えの事実を詳らかにすることは 《人》を魅了するはづである。相当多くの人びとが このような古代の復原に歓呼をもって応えるであろう。僕は 今 これらの人びとに語っている。普遍的な叡智というものは その観念をいつもごく自然に投げ出してきた。種としての人間は この偉大な脳髄から採れる果実の一部分を 寄せ集める。そして人びとは それらを書物にして著わし その伝え聞きを頼りに生を送ってきた。歴史の歩みとは こういうものなのだ。種としての人間じたいは 自ら頭を悩ますことなく いまだ目を覚ますことなく あるいは大きな夢をその豊潤さの中にいまだ身をおくことなく 歩んできたのである。公務に携わる者とか 著述を業とする者とか 作家 発明家 詩人 このような種としての人間がこの世に存在したことは 一度もないのである。


 《詩人》になろうという種としての人間のなすべき最初の努力は 恋人を知ろうとする時のような全体的な彼自身との交わりでなければならない。彼は 己れの魂を探究し 精査し それを試練にかけ それを覚ろうとするであろう。それを身に知った時 今度は それを耕すことになる。これは 容易と思われる。そこで脳髄全体において折り畳まれていたものは 天性の展開をとげるであろう。なおこの時 多くのエゴイストたちは 自らがその創造者であると名乗り出る。またこの叡智の進歩は それを横取りして我が物顔にしようという他の多数の者たちがいる。しかし問題は 魂を怪物とすることなのである。イスパニアの子攫(さら)い(コンプラチーコ)に倣ってはどうだというのだ。自分の貌(かお)に疣(いぼ)を植えそれを育てている人間を想像してみたまえ。


 《詩人》は すべての感覚を長く 非常なまでに そして筋を立てて 熟考したとおりに奔放の中に置くことによって 自ら透視者となる。そこには あらゆる形の愛 煩悶 狂気が見出されよう。彼は自己自身を探究し ただその精髄のみを残して 自己の中の毒素をすべて汲み出し尽くすであろう。そして筆舌に尽くし難い拷問を受ける。そこでは 信のすべて 人力を超えた力のすべてが必要とされ そこで彼はすべての中の最悪の病者 最悪の罪人 最悪の呪いをひきずる者そしてまた最高の知者となるのである。


 それは彼が《いまだ交わらぬもの》にたどり着いたからである。それは彼が己れの魂を耕し それが今 誰よりも豊かなものになったからには その通りだ。《いまだ交わらぬもの》に達したのである。そして彼は狂乱の中にいて その幻視の叡智を消失するに至る時 彼はそれらを見たのだ。その時 彼はいまだ聞いたことのない突飛で何とも言えず不快な物のため吐き気を催しながら 中からはちきれんばかりに死に絶えて行く。そしてここに別の恐ろしいばかりに心痛に悩む者たちがやってきて 今度は彼らが 先人が倒れてもう沈んでしまっている地平線から また一歩を踏み出し始めるのである。

( Arthur Rimabaud: Lettre du Voyant 〔 Lettre à Paul Demeny 〕 15 mai 1871 )

・・・・いま読むと もう それほど大したものではない。