第一部 人間の誕生
もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620
第一章 オホタタネコ原点
――かみを知る すなわち にんげんがおのれを知る――
人ははじめに 自分たちを取り巻く自然を認識することから始めたかと思われる。あるいは そうでないかも知れない。そうであったかも知れない。
たとえば そこに見えるいっぽんの木。この自然の産物をまず 《木》と知ることが始まる。
ことばの誕生の問題は措くとして すでに誕生したことばを用いて人が どのようにそれらの認識を整理していったか この点を考えたいと思う。
ここでは わが国の《古事記 (岩波文庫)》を基礎として 日本人の基本的な思索のあり方をたどるつもりである。
モノとコト
ただちに言えることとして かれらは 《もの》および《こと》という言葉ないし概念を その思索の基本に据えたであろうと捉えたい。
木に着目するならば それはまず やはりそこに見えるところの山や石や何やかやと同じように 自然の《もの》である。木というのは 石などただの物体ではなく また 人間を含めた動物でもないもの つまり植物という意味で例にとってみたのであるが したがって今度は 木は 石や水やと違って 根を張り幹となり 枝を繁らせ花を咲かせ実を成らせる。ゆえに これは 《そだつ》ものである。
ところが そこで 《もの》が《そだつ》のは 《こと(事)》であると考えられる。けれども このように人が自然を認識しうるのは 同じく《こと(言)》によってであるにちがいない。
したがって ここで――動物はこれを措いて考えているのだけれど 人間という動物がこれを考えているのでもあるから すでにここで―― 自然および人間の世界の全体を捉えてのように 次のごとく言うことが出来る。人間の行為・自然の現象 これらは 動態・過程としてのコトである。モノが あるいは人間がモノに対して コトをおこなうのであると。
もう少し整理すると 物体としての木は 単純にモノ(物)であるが 同じこのモノに コトが含まれている。動物の場合は これが うごくのである。ただし 人間の場合を除いて 言葉による認識としてのコトは 動物にも植物にも あるいは物体にも ないようである。コトおよびモノの世界は まず こう認識し整理した。
オホモノヌシのカミ もしくは ヒトコトヌシのカミ
ちなみに 物質が存在し運動するというとき われわれは その構成要因を 分子・原子・素粒子そして基本粒子のように詳しく知るようになっている。基本粒子はすでに むしろ目に見えないモノであり したがって そこにコトが起こっているという現象の観察によってその存在を知るということでもあるらしい。モノがコトと そういうふうにつながっているらしい。
クオークだとかレプトンとか そのようなミクロのモノの認識がすでに 宇宙の始原というようなマクロの認識と深くつながっているとも考えられている。あるいはまた もしこれら基本粒子も もし目に見えるモノであるとなるならば それらのさらに根底の分割されざる構成要因が 目に見えないモノ・つまりコトとして 認識じょう想定されてくるかもしれない。言いかえると――おそらく次のように帰結しても不合理ではないと考えられるのだが―― すでに 物質(モノ)の根源は コト(ないしエネルギー)であって 同じモノという言葉で表現しようと思えば それは 《もののけ(物の怪 つまり お化け)》であるとも考えるようになっている。
そこで 木は モノでありコトであると言うとき そこに モノ・したがってコトの ある種の仕方で究極的な《ちから》がはたらくと見る。あるいは そう表現するという立ち場をとるなら どうなるか。モノから成り立っている分子・細胞などなどが コトをはたらくというだけではなく このモノつまりコトの 一つの究極的なチカラを想定しようとするなら どうなるであろうか。
ここからは いま 古代日本人に即して この根源的なチカラ・あるいはその見えない《はたらき》 これを 《かみ》という言葉に関係づけて かれらの思索のあり方を考察していこうというこころづもりである。
すなわち現代でも これこれの自然科学的な原理 あるいはさらに 社会科学によって認識しうるとされる社会や人間関係のあれこれの法則というとき これらなどは たしかに モノやコトの一種の根底的なチカラでありハタラキであるにほかならない。もちろん それでも 科学のいう根底的なちからと 昔からのかみとの間には 自然と超自然といった隔たりがあるが 科学の原理や法則を 古代人からの言葉でカミと表現することが出来るかも知れない。または 表現上 カミにそれらを関係づけて捉えていても さほど不都合ではないと考えられる。原理や法則を カミと表現し直すか または 表現じょうこのいわゆる摂理としてのカミに関係づけても まちがいではないと思われる。
人間が物質をあらたに創出することは不可能であり 人間はわづかにそれらを加工・操作するにすぎないはずだから この物質が カミではないが すべてのモノ・コトは カミの法則にしたがっている――そのように表現してみる――といった意味においてである。おそらく カミの原理をわざわざ言う必要もないであろうけれど もしこの原理・法則――つまり 通常のではなく それらのさらに根底的な一つの原理・一つの法則――を立ててみようというものである。まだ表現の問題である。
この前提で 古代日本人の思索のありかを探ることは 可能であろうし また必要でもあろう。そしてこのカミを持ち出すなら よりわかりやすくなると考える。
それというのも――また それが いまにも 有益であると思われることには―― かれらは このモノの根底的な原理を 《おほものぬし(大物主)のかみ》と呼んだからである。同じく コトの究極的な法則を 《ひとことぬし(一言主)のかみ》と呼んでいたから。すなわち むしろ現代世界では 《かみは死んだ》とも言われ そう言われることのゆえに カミの表現の仕方を 過去の人間の思想のなかにも 問い求めておくことは 有益だと考えられる。もし過去の人びととのむしろ歴史的な連続性に立てるなら かれらの・現代人にとっては欠陥とも言われるべきまだ熟していない思索のいわば亡霊から われわれも解き放たれるであろう。
もっとも われわれには 古事記に著わされた人間や社会やについての思索には 決して否定すべきものばかりがあるとは考えられず ゆたかな思想が横たわっているとも考えられた。ここから出発しよう。
オホタタネコという原点
そこでまず第一に 一般的にモノがコトでもあるとき 第二に 古代日本人はこれらのモノ・コトの根源的なチカラとして カミのハタラキを見ようとしており これを オホモノヌシとかヒトコトヌシと呼んでいた。これらの事柄を――表現じょうの問題に限るという前提のうえで―― 認めることから出発しなければならない。
もし ここまでの前提の議論に問題がなければ 第三に そして実質的な内容の第一として 《オホタタネコ原点》という古代日本人の自己意識・人間把握について 議論を始めなければならない。あらためて繰り返すなら 議論の前提の第一は 一般にモノやコトといった世界観の基本的な認識事項にかんするものであり その第二は 表現じょう議論に必要な限りで かみという言葉を持ち出すという約束ごとである。前提の第三つまり実質的な議論の第一(中心となる主題)は 古代日本人にとって 《人間》は 《おほたたねこ(意富多多泥古・大田田根子)》であるという認識のもとにあったという事柄なのである。
人間は モノではないが 木や石や土や水やと同じように モノから成り立っており これらを しかしながら ことばによって認識しそれにもとづいて行動するコトは この人間に与えられている権能である。またこのコトは 一人ひとりによって行なわれる。おそらく かれは 《ひと(人)》と呼ばれるのにふさわしい。
このヒトが オホタタネコであるというのは どういうことか。
かれは 自然の中の一存在として 鳥のように空を飛ぶわけではない。また 魚のように水の中で生きるわけではない。植物のようにひとところに居坐っているわけではないが 動物のように四つ肢で這って動くのでもなく かれは 身体の直立歩行をかち取っている。しかも 木などの植物の存在の仕方に類似をとって 《ねこ(根子)》というのであるからには これは 《天(そら あるいは あま・あめ)》という概念の獲得とともにであるだろう。
《天》の表象は われわれが そのまま受け容れなければならないものではないが 上に述べたような自然の中に位置する存在として 人は 鳥や魚や木や石などあるいは人間という自分自身 これらすべての根源的なチカラでありハタラキであるオホモノヌシすなわちヒトコトヌシの存在を――この場合の短絡は 短絡だとしたら 一種の幻想だと言われうる―― 単純に天に求めたとしても それほどおかしくはない。要するに モノやコトの根源的なチカラというとき 木や水に類似を採り それらの簡単なはじめのもの(根や源)に注目して 表現している。根や水な元のように 目に見える根源のことではないが カミを オホモノヌシあるいはヒトコトヌシと名づけ さらにこれの存在を アマ(アメ)(天)に関係づけようとした。
ネコ(根子)とヒコ(日子)
この天は 目に見える空のさらに上のと言うか ともあれ 人の認識の及ばないところのことである。この場合 天なるオホモノヌシすなわちヒトコトヌシが 目に見える木や人の中で はたらくという認識と現実が かれらのものであったかもしれない。この天との対比では 人は自分が 《ねのくに(根国)》または《な(大地)・なら(国)》の上に存在していると考えることに したがって 不都合はない。まだ 単なる天と地との対比である。そしてこの限りで かれはヒトとして さらに《ねひと(根人)》または《ねこ(根子)》である。
いや ヒトは じつはこのように 精神の認識能力で かんがえることを行なうゆえ やはり天体の世界に類似をとり かれは《ひこ(日子)》ないし《日の御子》であると直ちに 付け加えたにちがいない。しかも そのときにも かれが はじめに《根子》であることを取り消すものではなかったであろう。《根子》である人は その考える能力において 天に比されて 《日子》でもあるという新たな認識である。
- ちなみに この根子と日子との連関が のちに スサノヲとアマテラスとの分離連関に 考え方のうえで 発展していったと見る。
したがって 人は カミではないが あたかも木や犬やと同じように オホモノヌシノカミのハタラキを分有しており 今度は木や犬やとちがって その同じハタラキとしての・言いかえると ヒトコトヌシノカミを分有していると認識しうる動物である。ネヒトあるいはネコと呼ばれるのは――そしてさらに ヒコとも呼びうるのは―― かれが 一般に言われるように 天使そのものでもなければ 獣そのものでもない中間的な生物であるということに等しい。この意味で 天(日子)と地(根子)との対照と例示は 適当でもある。ここまでも まだ表現じょうの問題とその整理である。
オホタタネコは オホモノヌシのカミの子である。
このように人がカミを知った段階 言いかえるとこの限りでカミを知り自己を知った段階での人は かれが 《おほたたねこ(意富多多泥古・大田田根子)》である。このばあい カミを分有するという意味でかれは カミの子でもある。一般にこう考えられ またおそらく こう信じられていた(――古事記に読むかぎりで)。認識の領域でとらえるかぎり まだ 表現じょうの問題である。《ねこ》に《おほたた》を冠するのは かれ《根子》が 精神の認識能力とともに その判断力としての意志を 《日子》つまり天使に近いような存在として 持つゆえ 《意富》(つまり豊かな意志)というのであろう。一人ひとりのネコが 個性を持ち したがって多様性として存在するゆえに 《多多》であるのは 言うまでもない。この《意富多多》が かれは 実際の生活のうえで 労働する人間として 田を耕すのであることも 現実であるから 《大田田》というのに 不都合はない。根子は さらに 大地の子であり 理性的なではあっても動物の一種でもあるから かれは 古くなっていわば泥の中に落ちうる――堕落しうる――とき 《泥古》でもあるのだろう。
このかぎりで 古代人の科学と われわれの認識とは 基本的に通底している。と言っていい。
- まだ 当たり前のことを 表現じょうの問題として整理しているにすぎない。
- ちがいは ヒトコトヌシないしオホモノヌシなるカミを想定しているか否かにある。これも 表現じょうの問題として 導入していたものである。
すべての生物・無生物が モノから成り立っており これは運動(変化)するコトである。そこで これらにとっての宇宙の原理とも呼ぶべきチカラを モノの観点からはオホモノヌシノカミと そして コトとしては ヒトコトヌシノカミと呼ぶというわけである。人間であるオホタタネコは 動物・植物また無生物と同じように(あたかも 同じように) この原理のチカラを分有しており その法則のハタラキに従っている。かれは それらの中で唯だひとり このカミを認識しうる存在である。わざわざカミを立てる必要はないが 便宜じょう表現として有効であろうし この表現としての便宜は われわれの科学の常識を逸脱するものではない。
- もし このような表現上の虚構から起こりうる誤謬について あらかじめ指摘しなければならないとしたなら それは 木や石やにはたらく目に見えないカミを 議論の前提に立てるというだけではなく それら自体を――すなわち 言うところの神木・石座(いはくら)・神体山とみなしてように――カミだと偽って認識し これを信じ込むときである。せいぜいそれらの目に見えるモノは カミのしるしなのであろう。
- これは 原始心性つまりいわゆる前近代的な呪術宗教の心性である。自己の意志の自由と独立性の認識が不十分な状態である。
- つまり この誤謬は 表現の問題としてカミを立てるという大前提を逸脱してしまったことにほかならない。この大前提は 自由意志とその個人としての独立が 自由・独立ゆえに限界を持つこと(つまり 経験科学性)を含んでいる。
- この危険が存するからといって いま ただちに 表現の問題としてのカミの前提を 捨て去るわけにはいかない。なぜなら そのときには じつは もう一方の誤謬が同じように待ち受けている。つまり 自然界のないし歴史社会の 部分的・局面的な個々の経験法則を 究極的なカミの原理と同一視してしまうという危険も存するからだ。
- 自然科学の・社会科学の経験的な原理や法則も 全体的なカミそのものではない。言いかえると 現代科学が 法則や原理を言うときには もはやこのカミを立てないにかかわらず また 立てないゆえに 全体的なカミとしてのチカラ・ハタラキそのものを言っているのではないという暗黙の前提があるはずだからだ。
- これによって 過去の現在との歴史的な連続性の側面に焦点をあてることができる。この議論がいまに有効でないなら 古代人も現代人も ともに 夢のなかに浮遊しているといったことになるであろう。
オホタタネコ自身が 《ネコ(身体)‐ヒコ(精神)》の連関なる存在である。
大地の子である根子は 大地の上に落ちうるゆえ 《泥古》でないとは言えない。と同時に その精神は認識・判断の能力において・その想像のちからによって 鳥やまた天使のごとくに天翔けうるというに等しいゆえ 天にある太陽の子とも言うべき《日子》でもあった。普遍性に通じるところの俯瞰的な視野を持っているのだ。実際 基本的に根子であることを前提して 特に想像力としての精神に着目してこれを取り上げるなら 古代人は《ひこ》とも呼んだのである。《みまきいり日子いにゑのみこと》などというときが それであり 古事記作者は 同時に 《かむやまといはれ毘子(びこ)のみこと》《比古(ひこ)ふつおしのまことのみこと》などといった文字表記をも忘れなかったようである。のちに考えてみよう。
もちろん まだ表現じょうの問題である。概念認識の段階である。
したがって オホタタネコ原点に関しては次のように まとめておくことができる。
人間オホタタネコは 大地の子(根子)であり 天使そのものではないゆえ言わば しがらみの中に生きる《泥古(ねこ)》であり かつ ゆたかな意志(《意富》)をもって田を耕し(《大田田》) その知恵の能力はすでに天使にくらべられうるというとき 同時に 《日子》である。その存在は一人ひとり個性を持っており したがって多様性(《多多》)として生きるところの人間である。《根子》が古くなり泥のようなしがらみを帯びかねず《泥古》になりえ 《日子》が その古さに反省を促されるべき《比古》になりうるとき かれオホタタネコは全宇宙のなかで その中間的な存在ではあっても 唯一の中心的な存在ではありえず そう考える限りで 中心的なひとつのチカラ=ハタラキを想定しようとするとき これを カミと呼んだ。モノおよびコトの概念に沿って このカミを認識しようと(というよりも 代理のことばで表現しようと)するなら それは オホモノヌシあるいはヒトコトヌシと呼べるということであった。
この表現の問題という前提においては いま重要な議論として こうである。根子でありそのみづからの内面に日子の能力を宿すところの人間すなわちオホタタネコは オホモノヌシノカミの子であると人びとは考え 信じた。これを 次章からも捉えようとするのであるが まずは おそらくこの場合 かれが カミそのものであるのではなく カミのチカラを分有するという意味であろうと考えられる。このかぎり まだ 前提の領域にとどまる。
- 父のオホモノヌシに対する子のオホタタネコが ヒトコトヌシノカミとどんな関係にあるかは 古事記に記されていないと思われる。ヒトコトヌシは カミとして オホモノヌシと同一であるとすれば おのづと 自明のことではあろう。
ここまでが 導入として第一の議論である。古代日本人の人間と世界にかんする認識である。ここから その自己による自己への到来(自己還帰)についての思惟に導かれるのは 一歩の間隔も要らないと思われる。
このようにして 古事記の世界に入っていくことができる。
- なお モノがコトであるというのは 質量たる存在がエネルギーに等しいといった内容を示しているものと思われる。
古事記で オホタタネコなる人物が語られ かれは オホモノヌシの(従っておそらく ヒトコトヌシの)カミの子であったと書いてあるとき いわば《人間の誕生》というような議論のことであるだろうし そのままそのための中心となる主題であるものと考えた。
(つづく)
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